渡辺松男研究24(2015年2月)【単独者】『寒気氾濫』(1997年)83頁~
参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放
◆欠席の石井彩子さんから、まとめ後にいただいた意見も載せています。
200 木の幹と幹とが軋みあう音の好きとか嫌いとかではないぞ
(意見)
★これも人間界のことを言っている。人と人がぶつかり合うのは避けられない必然的な姿だなと。
199番歌(俺はいわゆる木ではないぞと言い張れる一本があり森がざわめく)に繋がっている。
(うてな)
★人間関係の仕方なく起こる摩擦を言っている。しかし、この歌の主語は何でしょう?(慧子)
★私は木に即して考えました。木は人間のように動けないから偶然隣り合ってしまって軋み合う時
というのは、好き嫌いではなく避けられないですね。歌の主語は木で、この時作者は木になって
いるのでしょう。ぶつかりあう烈しさを好き嫌いじゃないぞって木自身が思っている。(鹿取)
★私も単独者の呟きのように感じました。相対的な好き嫌いからは離れた所にこの単独者はいるの
だから。(鈴木)
★人間に例えているのか、木そのものなのか、境が難しいですね。全部が人間に例えているなら分
かりやすいんだけど。(うてな)
★限定できないから単独者のイメージもいろいろ出てくるので。単独者って在り方を言っているわ
けだから木であってもかまわない。それが松男さんの魅力です。(鈴木)
★だから、絶対人間に置き換えちゃいけないとかではなくて。また、いつでも木になっているわけ
でもなくて。少し後の方に出てくる歌で「動いたら負けだ」というのがありますが、動かない木
という存在の強さをここでは歌っていると思います。(鹿取)
(まとめ)
鹿取の発言中の「動いたら負けだ」の歌は、この「単独者」の次の一連「光る骨格」中にある。
(鹿取)
切株は面(つら)さむざむと冬の日に晒しているよ 動いたら負けだ
(後日意見)
単独者としてのキルケゴールは個として天上の神と向かいあい、実存的苦悩を問いかけ、救済を求める、がその苦悩は、人間関係がもたらしたものであった。常態としてあった死への恐怖、生前への原罪意識、父との確執、レギーネ・オルセンとの婚約破棄、思慕。このような懊悩からのがれるため一時期放蕩生活を送ったともいわれているが、信仰、好悪を超えて、人として生存を得た以上、関わらざるをえない苦悩であった。木に置き換えれば、根を張り、成長してゆくのだが、隣り合わせとなった木とは窮屈になって、軋みあう音を立てる、木は人間のように、隣木から逃れ、広々とした大地に引っ越したいとは思わない、「好きとか嫌いとかではないぞ」とあるがままの生存を受け入れているのである。渡辺氏はキルケゴール、あるいは人間の苦悩と対比して、このような木の自然体に思いを馳せたのであろうか。(石井)
参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放
◆欠席の石井彩子さんから、まとめ後にいただいた意見も載せています。
200 木の幹と幹とが軋みあう音の好きとか嫌いとかではないぞ
(意見)
★これも人間界のことを言っている。人と人がぶつかり合うのは避けられない必然的な姿だなと。
199番歌(俺はいわゆる木ではないぞと言い張れる一本があり森がざわめく)に繋がっている。
(うてな)
★人間関係の仕方なく起こる摩擦を言っている。しかし、この歌の主語は何でしょう?(慧子)
★私は木に即して考えました。木は人間のように動けないから偶然隣り合ってしまって軋み合う時
というのは、好き嫌いではなく避けられないですね。歌の主語は木で、この時作者は木になって
いるのでしょう。ぶつかりあう烈しさを好き嫌いじゃないぞって木自身が思っている。(鹿取)
★私も単独者の呟きのように感じました。相対的な好き嫌いからは離れた所にこの単独者はいるの
だから。(鈴木)
★人間に例えているのか、木そのものなのか、境が難しいですね。全部が人間に例えているなら分
かりやすいんだけど。(うてな)
★限定できないから単独者のイメージもいろいろ出てくるので。単独者って在り方を言っているわ
けだから木であってもかまわない。それが松男さんの魅力です。(鈴木)
★だから、絶対人間に置き換えちゃいけないとかではなくて。また、いつでも木になっているわけ
でもなくて。少し後の方に出てくる歌で「動いたら負けだ」というのがありますが、動かない木
という存在の強さをここでは歌っていると思います。(鹿取)
(まとめ)
鹿取の発言中の「動いたら負けだ」の歌は、この「単独者」の次の一連「光る骨格」中にある。
(鹿取)
切株は面(つら)さむざむと冬の日に晒しているよ 動いたら負けだ
(後日意見)
単独者としてのキルケゴールは個として天上の神と向かいあい、実存的苦悩を問いかけ、救済を求める、がその苦悩は、人間関係がもたらしたものであった。常態としてあった死への恐怖、生前への原罪意識、父との確執、レギーネ・オルセンとの婚約破棄、思慕。このような懊悩からのがれるため一時期放蕩生活を送ったともいわれているが、信仰、好悪を超えて、人として生存を得た以上、関わらざるをえない苦悩であった。木に置き換えれば、根を張り、成長してゆくのだが、隣り合わせとなった木とは窮屈になって、軋みあう音を立てる、木は人間のように、隣木から逃れ、広々とした大地に引っ越したいとは思わない、「好きとか嫌いとかではないぞ」とあるがままの生存を受け入れているのである。渡辺氏はキルケゴール、あるいは人間の苦悩と対比して、このような木の自然体に思いを馳せたのであろうか。(石井)
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