2025年度版 渡辺松男研究 2の35(24年11月実施)
『泡宇宙の蛙』(1999年刊)P171~ Ⅳ〈蝶いちまい〉
参加者:M・A、(岡東)和子、鹿取未放
事前意見:菅原あつ子、・山田公子
265 蝦夷竜胆(えぞりんどう)咲きてもうすぐ冬がくる 神はしんじつ殺されたのか
(事前意見)
◆神はしんじつ殺されたのかという問いを作者は持ち続けているのだろうか…蝦 夷竜胆の濃く深い青、静かにすっくと立つ姿、秋に咲き冬が来るまで咲いてい る姿は修道士に似ているかもしれない。その姿を見て、ふいに自らの内にある この問いが浮かんできたのではないか。深くて美しい歌だと感じた。(菅原)
★秋が来て蝦夷竜胆が咲いた。やがて寒く厳しい冬を迎える。〈神はしんじつころ されたのかという下句に向けての序詞と考えられる。くるっと転換して... 神殺 し!神が神を殺す、しかし、日本神話にあるように神が神を殺しても、その血か らは、新たな神が。神殺しは、神生み、物生みとなる。作品の下句がしっかりと 受け止めている。(山田)
(当日意見)
●竜胆でなくてなぜ蝦夷竜胆なのか、竜胆と蝦夷竜胆の違いがわからないので、そこにちょっと疑問を持ちました。言葉としては蝦夷竜胆は力強い感じがしますね。(M・A)
●まっすぐりんと立つイメージですね。(岡東)
●「神はしんじつ殺されたのか」は納得しているのか、何かそこに複雑な思いがあるのか、またそれは蝦夷竜胆とどう響き合っているのか。大きな世界だとは思うのですが、言葉で説明するのは難しいです。ところで、渡辺さんって季節はけっこう歌われる方ですか?生と死の循環を見つめているような気がするのです が。(M・A)
●俳句をやっている人だから、季節には敏感だと思いますが、季節そのものの情感をうたうとかはしない方ですが。(鹿取)
●山田さんの解釈、日本の神が神を殺す、そしてそれは再生に繋がるという見方を面白いと思った。これだと蝦夷竜胆が俄然生きて繋がる。
しかし、私は下の句の「神はしんじつ殺されたのか」はやっぱりどうしてもニー チェですよね。松男さん、哲学科ですし、寒気氾濫の冒頭の歌はニーチェですから、ここでは避けて通れないと思います。ニーチェは「神は死んだ」って言ったのですけれど、「近代的な個人に基づいて世界観を脱神話化した」って説明されていますが難しいですね。ここに私が高校時代に読んだ『ツアラツストラはかく語りき』の翻訳者二人(高橋健二、秋山英夫)の前書きを持ってきました。かなり長 いですが、皮肉が効いていて面白いので読んでみます。【この部分、ここでは省略】かれらは「神は死んだ」はニーチェの人間愛の宣言なのだ、と言っています。 「神は死んだ、超人生きよ」と。しかし、せっかく宗教からの脱出を説いたのに、 永劫回帰を持ち出して救いを求めた。彼岸の救済などあてにしないのが超人なのに。やっぱりニーチェも牧師の子だったというのがこの解説の結論部分です。 でも、私もこの歌はよく分からなくて、下の句の重いテーゼと上の句の蝦夷竜胆がうまく繋がりません。もしかしたら蝦夷竜胆ではなく「もうすぐ冬が来る」方にポイントがあるのでしょうか。その冬の厳しさを蝦夷竜胆の深い紫や姿が支えているのかもしれません。そしてその冬の厳しさと下の句の重い問いは意外と釣り合っているということかもしれません。(鹿取)