![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/f7/6f043ee1f891875b3682aa2028114f57.jpg)
■メイン写真
浄瑠璃寺の本堂。九体の阿弥陀如来が安置されている。拝観は有料。
■今回のコース
岩船寺駐車場→岩船寺→三体地蔵磨崖仏→弥勒仏線彫磨崖仏→わらい仏、眠り仏
→一願不動→唐臼の壺→阿弥陀・地蔵磨崖仏→一鍬地蔵→内ノ倉不動明王→
あたご灯籠→薮の中三尊磨崖仏→浄瑠璃寺→浄瑠璃寺三体磨崖仏→
長尾阿弥陀磨崖仏→浄瑠璃寺奥の院玻璃不動→西小墓地石仏群・五輪塔→
たかの坊地蔵→加茂青少年山の家→大門仏谷の如来形大磨崖仏→大門石仏群→
首切地蔵→西畑→六体地蔵→岩船寺駐車場
京都府の南端、加茂町当尾(とおの)に石仏群があることは、ずっと前から
知ってはいたが、いわゆる「登山」にはならないので、今まで足を延ばすことは
なかった。
まとまった登山がやりにくいので、梅雨の今、思い立って歩いてみたら、
確かに登山ではないが、歩く距離もそこそこあり、予想以上にすばらしい
造形の石仏たちに出会うことができた。
自分の覚書を兼ねてまとめるので、今回は、説明的でおもしろくない文章に
なってしまうがご勘弁。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/e6/c894ea321ffbc8d3b5fac2608dc450bd.jpg)
岩船寺前の有料駐車場にクルマを停め、まずは岩船寺へ。
奈良では、アジサイの寺といえば矢田寺だが、南山城では、ここがアジサイ寺だ。
岩船寺は、天平元年(729)、聖武天皇の勅願で、行基が建立。
その後、弘法大師と智泉大徳(弘法大師の姉の子)が堂塔伽藍を建立。
最盛期には39坊を誇る大規模な寺になるが、承久の変(1221)でその多くが焼失した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/77/1e5d86931e35b19f1d53dbd12c6bdd5d.jpg)
駐車場の横手から山道に入ると、三体地蔵磨崖仏がある。
鎌倉末期の作。三体とも左手に宝珠、右手に錫杖を持つ。
「過去」、「現在」、「未来」の意味が割り当てられている。
六地蔵信仰以前の地蔵信仰の一形態という。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/b7/3cb72840e7a9757f490a1e36a793d9ff.jpg)
舗装道に出る。ミロクの辻と呼ばれる場所だ。
ここには、弥勒仏線彫磨崖仏がある。線刻である。
笠置寺本尊の弥勒磨崖仏(現在は焼失し、光背が残るのみ)を模写したもの。
石工・伊末行(いのすえゆき)の作。
伊末行は、伊行末(いのゆきすえ)の子孫(ソックリな名前でややこしいな)。
伊行末は、鎌倉時代の石工で、南宋時代に現在の中国浙江省寧波付近で生まれ、
鎌倉時代初頭に来日し、南都焼討後の東大寺復興にあたった人物だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/1a/a39eb6f1529598c2afd6f7c453166352.jpg)
季節がら、路傍にはホタルブクロが多い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/c2/442ebfd4e3604e63895b4049a3d5b53c.jpg)
コウゾの実も熟していた。甘いが、ざらざらネバネバの触感がイマイチなので
これはもう食わないことにしている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/df/1aa33385ee89eb999ea3880d81207064.jpg)
当野を代表する石仏・わらい仏。岩ごと、斜めに傾いてしまっている。
蓮台を持つ観音菩薩、合掌する勢至菩薩を従えた阿弥陀仏だ。
永仁7年(1299)の銘がある。これも伊末行の作。
すべてを赦すような笑みを浮かべておられ、心がホッコリする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/40/b13f692367f71f97f8a88b57c2784382.jpg)
わらい仏の左下に、ほぼ土中に埋もれている、眠り仏。
南北朝時代、わらい仏と同じ伊派の石工・行経の作かともいわれる。
掘り出さずにそのままにしているところが謎。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/a8/7c8c802dddb9c12ebfce72cb213b7249.jpg)
ちょっと脇道に入ると、一願不動がある。弘安10年(1287)の作。
元の道に戻って、さらに先に進めば、唐臼(からす)の壺の交差点に着く。
変形5差路になっており、ここを起点に、周辺の石仏をたずねてみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/af/dd2a2e85fa4f931e0e0f3913c7dea807.jpg)
まず20mほど西にある、阿弥陀・地蔵磨崖仏へ。
1つの岩の別々の面に、石仏が彫られている。お地蔵様は回り込まないと拝めない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/5c/a10f398b4638f1432c1aabcd8f6bb792.jpg)
そこから南へ100m弱、少々ヤブを分け、右を見上げると、一鍬地蔵がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/65/03ea7b8009900a2fc311be1fb66f2f7f.jpg)
唐臼の壺から東へ、細いトラバース道を240mほどいけば、内ノ倉不動明王だ。
線刻だが、岩に苔が生えて、もうよく分からない状態になっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/b8/6df458be42d4b5a8f11571c3ff07cd21.jpg)
唐臼の壺から西へ坂を下る。横の畑に、飾りかぼちゃが栽培されていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/85/3f3024f65019d9e7e9e9426a074b33d9.jpg)
集落に出ると、火伏の神・あたご灯籠が立つ。
江戸時代のもので、いっぷう変わったデザインの灯籠。
当尾では、正月にここからおけら火を採り、雑煮を炊く風習があったという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/44/d7a8b4dc6c9cd1afc30b4b5a924ee6f1.jpg)
バス道に出てすぐ、左手の竹薮の中に、薮の中三尊磨崖仏がある。
もとは、浄土院という塔頭の本尊であったと推定されている。
中央に地蔵と十一面観音、左に阿弥陀仏が横を向いて彫られている
レアな配列。橘派の橘安縄の、1262年の作。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/d1/a71a4c2b16b1d4f5b588a8bef7d49581.jpg)
このへんでお昼時になり、雨もポツポツ降ってきた。
ちょうど「カフェ瑠璃」が見えたので入ってみた。
クリスピーのピザと、丁寧に抽出したアイスコーヒーに、かなり満足した。
ここはまた寄ってもいいな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/8c/9c5980222fde861e1097e460478721f1.jpg)
浄瑠璃寺に着く。
クチナシの花が、まだ咲き残っていた。
浄瑠璃寺は、永承2年(1047)、義明上人により本堂が建立。
義明上人は、当麻の出身ということくらいしかわかっていない人物だそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/08/3bbca10cbab8e9fc31b0ed644fd28832.jpg)
小規模だが、なんとも美しい配置となっている。
真ん中にある池は、興福寺の僧・恵信が掘ったもので、梵字の「阿字」を
かたどっている。
境内は、東側に薬師仏、西側に阿弥陀仏をレイアウトし、極楽世界を表現している。
三重塔のある東岸を「此岸」(しがん、現世)とし、池の向こうの西岸を
阿弥陀如来のいる「彼岸」としているようだ。
平安時代には、このような極楽浄土観を現した寺が 30 以上あったそうだが、
当時のまま現存するのはここだけだという。ふーん。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/ec/9a68d9f9b467f7594520ab8a35264db6.jpg)
続いて、長尾阿弥陀磨崖仏へ。徳治2年(1307)の作。
連弁の台座に座り、両手を腹部の前で∞形にした阿弥陀仏。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/9a/22b6b717179db7bdfefba9970b1e59c0.jpg)
バス道を離れ、浄瑠璃寺の奥の院への山道に入ってみる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/31/9e2aff405d7d0a94be86ad2d1cbfea05.jpg)
赤田川の流れは、酷い悪臭がただよっていた。
水質汚染は、上流にある「郷ポーク」の生産者・村田養豚所が原因の可能性があると
いうことで、いろいろもめているようだ。
どうも、水質汚染以外にも、その他ゴタゴタがいっぱいあるようで、なんとか
ならないものかと思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/19/1b56e1d91385b9c111179b81928d00a6.jpg)
対岸にある、浄瑠璃寺奥の院。ここの小滝の水はきれいだ。
かつては、線彫りされた磨崖仏があったというが、数十年前の大水で大岩が割れ、
滑り落ちてしまった。線刻の不動明王の痕跡が残るそうだが、、、
現在立っているのは、丸彫りの不動明王像、矜羯羅・制多迦の二童子の
「不動三尊」だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/1c/7a1ba5561611c182315c32a4ae6d8c91.jpg)
もとのバス道に戻り、道なりに北西に進むと、西小(にしお)墓地に混在して、
石仏群と五輪塔がみられる。
二つの五輪塔は重要文化財とのことだが、それにしては何の説明板もなく、
「重要文化財」の標柱の文字も色あせていた。
大切なものなんだったら、大切にあつかう姿勢をみせてほしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/b6/ce9a742a39bca2495f58e71393d0a1a1.jpg)
たかの坊地蔵。
鎌倉中期の作。錫杖を持たない、古い形式の地蔵。
他の石仏群は室町時代のものという。
丁石の交差点で右折し、加茂青少年山の家の前を通り過ぎてしばらく進むと、
谷をへだてた対岸に、突然、巨大な仏像が見え、思わず驚きの声をあげた。
大門仏谷の如来形大磨崖仏である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/f4/364db2ff89d8c71cdd48171782457781.jpg)
直下まで行ってみた。
これは当尾の石仏群で最大の磨崖仏だ。
「如来形」というのは、阿弥陀如来、弥勒如来、釈迦如来などの諸説があるとのこと。
製作時期も、奈良時代から鎌倉中期までの諸説があり、確定していない。
6mの巨岩に刻まれた仏さまは、高さ2.88m。これだけで十分なインパクトだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/1d/eb921f952834053592a3d8fb59a3920e.jpg)
ゆるやかな坂道を上っていくと、大門石仏群に着く。
左側には摂社春日神社があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/e4/51321ca30f61cea341d8ca2eeffca0af.jpg)
次の三差路を直進し、釈迦寺跡にある首切地蔵へ。
弘長2年(1262)の作。
藪の中三尊とともに、在銘の石仏ではこのエリアで最古。首切地蔵の名は、
首のくびれが深く切れて見えるためとも、処刑場にあったためともいわれる。
ここからバス道をてくてく歩いて、西畑へ。
ムシムシする湿度に、身体が順応できず、けっこうしんどい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/ff/243f2bdd809893aba17a8276825145a3.jpg)
六体地蔵。南北朝時代の作。
いわゆる六地蔵信仰で、六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)にて
死者が迷わないよう、それぞれの道で地蔵菩薩が救いの手をさしのべて
くれるというもの。なので、この六体地蔵も、墓地の入口にある。
ひとつの石龕に六体が彫られているのは珍しい。
なかば熱中症のようになりながら、岩船寺の駐車場に戻る。ああ暑かった。
汗でシャツはもちろん、デイパックの背中が絞れるくらいだった。
ここに来るのは、写真的にはアジサイの時期で正解だが、途中にヤブもあるし
日陰のない舗装道歩きも多いので、歩くには冬がいいかな。
さて最後に、「当尾」の地名について。
古来、南都仏教の影響を色濃く受け、世俗化した奈良仏教を厭う僧侶が、
穏遁の地として草庵を結び、念仏に専心した場所だっとという。
やがて草庵が寺院へと姿を変え、塔頭が並び「塔の尾根」ができ、いつしか
「当尾(とおの)」と呼ばれるようになったそうだ。
磨崖仏は、道しるべとしての役割もあったという。
いろんな蘊蓄は、木津川市観光ガイドのサイトや、各パンフレットなどを
参考にさせて頂いた。
※初心者から楽しめる遊山トレッキングサービスの登山教室は、「ここをクリック」!!
浄瑠璃寺の本堂。九体の阿弥陀如来が安置されている。拝観は有料。
■今回のコース
岩船寺駐車場→岩船寺→三体地蔵磨崖仏→弥勒仏線彫磨崖仏→わらい仏、眠り仏
→一願不動→唐臼の壺→阿弥陀・地蔵磨崖仏→一鍬地蔵→内ノ倉不動明王→
あたご灯籠→薮の中三尊磨崖仏→浄瑠璃寺→浄瑠璃寺三体磨崖仏→
長尾阿弥陀磨崖仏→浄瑠璃寺奥の院玻璃不動→西小墓地石仏群・五輪塔→
たかの坊地蔵→加茂青少年山の家→大門仏谷の如来形大磨崖仏→大門石仏群→
首切地蔵→西畑→六体地蔵→岩船寺駐車場
京都府の南端、加茂町当尾(とおの)に石仏群があることは、ずっと前から
知ってはいたが、いわゆる「登山」にはならないので、今まで足を延ばすことは
なかった。
まとまった登山がやりにくいので、梅雨の今、思い立って歩いてみたら、
確かに登山ではないが、歩く距離もそこそこあり、予想以上にすばらしい
造形の石仏たちに出会うことができた。
自分の覚書を兼ねてまとめるので、今回は、説明的でおもしろくない文章に
なってしまうがご勘弁。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/e6/c894ea321ffbc8d3b5fac2608dc450bd.jpg)
岩船寺前の有料駐車場にクルマを停め、まずは岩船寺へ。
奈良では、アジサイの寺といえば矢田寺だが、南山城では、ここがアジサイ寺だ。
岩船寺は、天平元年(729)、聖武天皇の勅願で、行基が建立。
その後、弘法大師と智泉大徳(弘法大師の姉の子)が堂塔伽藍を建立。
最盛期には39坊を誇る大規模な寺になるが、承久の変(1221)でその多くが焼失した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/77/1e5d86931e35b19f1d53dbd12c6bdd5d.jpg)
駐車場の横手から山道に入ると、三体地蔵磨崖仏がある。
鎌倉末期の作。三体とも左手に宝珠、右手に錫杖を持つ。
「過去」、「現在」、「未来」の意味が割り当てられている。
六地蔵信仰以前の地蔵信仰の一形態という。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/b7/3cb72840e7a9757f490a1e36a793d9ff.jpg)
舗装道に出る。ミロクの辻と呼ばれる場所だ。
ここには、弥勒仏線彫磨崖仏がある。線刻である。
笠置寺本尊の弥勒磨崖仏(現在は焼失し、光背が残るのみ)を模写したもの。
石工・伊末行(いのすえゆき)の作。
伊末行は、伊行末(いのゆきすえ)の子孫(ソックリな名前でややこしいな)。
伊行末は、鎌倉時代の石工で、南宋時代に現在の中国浙江省寧波付近で生まれ、
鎌倉時代初頭に来日し、南都焼討後の東大寺復興にあたった人物だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/1a/a39eb6f1529598c2afd6f7c453166352.jpg)
季節がら、路傍にはホタルブクロが多い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/c2/442ebfd4e3604e63895b4049a3d5b53c.jpg)
コウゾの実も熟していた。甘いが、ざらざらネバネバの触感がイマイチなので
これはもう食わないことにしている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/df/1aa33385ee89eb999ea3880d81207064.jpg)
当野を代表する石仏・わらい仏。岩ごと、斜めに傾いてしまっている。
蓮台を持つ観音菩薩、合掌する勢至菩薩を従えた阿弥陀仏だ。
永仁7年(1299)の銘がある。これも伊末行の作。
すべてを赦すような笑みを浮かべておられ、心がホッコリする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/40/b13f692367f71f97f8a88b57c2784382.jpg)
わらい仏の左下に、ほぼ土中に埋もれている、眠り仏。
南北朝時代、わらい仏と同じ伊派の石工・行経の作かともいわれる。
掘り出さずにそのままにしているところが謎。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/a8/7c8c802dddb9c12ebfce72cb213b7249.jpg)
ちょっと脇道に入ると、一願不動がある。弘安10年(1287)の作。
元の道に戻って、さらに先に進めば、唐臼(からす)の壺の交差点に着く。
変形5差路になっており、ここを起点に、周辺の石仏をたずねてみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/af/dd2a2e85fa4f931e0e0f3913c7dea807.jpg)
まず20mほど西にある、阿弥陀・地蔵磨崖仏へ。
1つの岩の別々の面に、石仏が彫られている。お地蔵様は回り込まないと拝めない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/5c/a10f398b4638f1432c1aabcd8f6bb792.jpg)
そこから南へ100m弱、少々ヤブを分け、右を見上げると、一鍬地蔵がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/65/03ea7b8009900a2fc311be1fb66f2f7f.jpg)
唐臼の壺から東へ、細いトラバース道を240mほどいけば、内ノ倉不動明王だ。
線刻だが、岩に苔が生えて、もうよく分からない状態になっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/b8/6df458be42d4b5a8f11571c3ff07cd21.jpg)
唐臼の壺から西へ坂を下る。横の畑に、飾りかぼちゃが栽培されていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/85/3f3024f65019d9e7e9e9426a074b33d9.jpg)
集落に出ると、火伏の神・あたご灯籠が立つ。
江戸時代のもので、いっぷう変わったデザインの灯籠。
当尾では、正月にここからおけら火を採り、雑煮を炊く風習があったという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/44/d7a8b4dc6c9cd1afc30b4b5a924ee6f1.jpg)
バス道に出てすぐ、左手の竹薮の中に、薮の中三尊磨崖仏がある。
もとは、浄土院という塔頭の本尊であったと推定されている。
中央に地蔵と十一面観音、左に阿弥陀仏が横を向いて彫られている
レアな配列。橘派の橘安縄の、1262年の作。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/d1/a71a4c2b16b1d4f5b588a8bef7d49581.jpg)
このへんでお昼時になり、雨もポツポツ降ってきた。
ちょうど「カフェ瑠璃」が見えたので入ってみた。
クリスピーのピザと、丁寧に抽出したアイスコーヒーに、かなり満足した。
ここはまた寄ってもいいな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/8c/9c5980222fde861e1097e460478721f1.jpg)
浄瑠璃寺に着く。
クチナシの花が、まだ咲き残っていた。
浄瑠璃寺は、永承2年(1047)、義明上人により本堂が建立。
義明上人は、当麻の出身ということくらいしかわかっていない人物だそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/08/3bbca10cbab8e9fc31b0ed644fd28832.jpg)
小規模だが、なんとも美しい配置となっている。
真ん中にある池は、興福寺の僧・恵信が掘ったもので、梵字の「阿字」を
かたどっている。
境内は、東側に薬師仏、西側に阿弥陀仏をレイアウトし、極楽世界を表現している。
三重塔のある東岸を「此岸」(しがん、現世)とし、池の向こうの西岸を
阿弥陀如来のいる「彼岸」としているようだ。
平安時代には、このような極楽浄土観を現した寺が 30 以上あったそうだが、
当時のまま現存するのはここだけだという。ふーん。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/ec/9a68d9f9b467f7594520ab8a35264db6.jpg)
続いて、長尾阿弥陀磨崖仏へ。徳治2年(1307)の作。
連弁の台座に座り、両手を腹部の前で∞形にした阿弥陀仏。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/9a/22b6b717179db7bdfefba9970b1e59c0.jpg)
バス道を離れ、浄瑠璃寺の奥の院への山道に入ってみる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/31/9e2aff405d7d0a94be86ad2d1cbfea05.jpg)
赤田川の流れは、酷い悪臭がただよっていた。
水質汚染は、上流にある「郷ポーク」の生産者・村田養豚所が原因の可能性があると
いうことで、いろいろもめているようだ。
どうも、水質汚染以外にも、その他ゴタゴタがいっぱいあるようで、なんとか
ならないものかと思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/19/1b56e1d91385b9c111179b81928d00a6.jpg)
対岸にある、浄瑠璃寺奥の院。ここの小滝の水はきれいだ。
かつては、線彫りされた磨崖仏があったというが、数十年前の大水で大岩が割れ、
滑り落ちてしまった。線刻の不動明王の痕跡が残るそうだが、、、
現在立っているのは、丸彫りの不動明王像、矜羯羅・制多迦の二童子の
「不動三尊」だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/1c/7a1ba5561611c182315c32a4ae6d8c91.jpg)
もとのバス道に戻り、道なりに北西に進むと、西小(にしお)墓地に混在して、
石仏群と五輪塔がみられる。
二つの五輪塔は重要文化財とのことだが、それにしては何の説明板もなく、
「重要文化財」の標柱の文字も色あせていた。
大切なものなんだったら、大切にあつかう姿勢をみせてほしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/b6/ce9a742a39bca2495f58e71393d0a1a1.jpg)
たかの坊地蔵。
鎌倉中期の作。錫杖を持たない、古い形式の地蔵。
他の石仏群は室町時代のものという。
丁石の交差点で右折し、加茂青少年山の家の前を通り過ぎてしばらく進むと、
谷をへだてた対岸に、突然、巨大な仏像が見え、思わず驚きの声をあげた。
大門仏谷の如来形大磨崖仏である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/f4/364db2ff89d8c71cdd48171782457781.jpg)
直下まで行ってみた。
これは当尾の石仏群で最大の磨崖仏だ。
「如来形」というのは、阿弥陀如来、弥勒如来、釈迦如来などの諸説があるとのこと。
製作時期も、奈良時代から鎌倉中期までの諸説があり、確定していない。
6mの巨岩に刻まれた仏さまは、高さ2.88m。これだけで十分なインパクトだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/1d/eb921f952834053592a3d8fb59a3920e.jpg)
ゆるやかな坂道を上っていくと、大門石仏群に着く。
左側には摂社春日神社があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/e4/51321ca30f61cea341d8ca2eeffca0af.jpg)
次の三差路を直進し、釈迦寺跡にある首切地蔵へ。
弘長2年(1262)の作。
藪の中三尊とともに、在銘の石仏ではこのエリアで最古。首切地蔵の名は、
首のくびれが深く切れて見えるためとも、処刑場にあったためともいわれる。
ここからバス道をてくてく歩いて、西畑へ。
ムシムシする湿度に、身体が順応できず、けっこうしんどい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/ff/243f2bdd809893aba17a8276825145a3.jpg)
六体地蔵。南北朝時代の作。
いわゆる六地蔵信仰で、六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)にて
死者が迷わないよう、それぞれの道で地蔵菩薩が救いの手をさしのべて
くれるというもの。なので、この六体地蔵も、墓地の入口にある。
ひとつの石龕に六体が彫られているのは珍しい。
なかば熱中症のようになりながら、岩船寺の駐車場に戻る。ああ暑かった。
汗でシャツはもちろん、デイパックの背中が絞れるくらいだった。
ここに来るのは、写真的にはアジサイの時期で正解だが、途中にヤブもあるし
日陰のない舗装道歩きも多いので、歩くには冬がいいかな。
さて最後に、「当尾」の地名について。
古来、南都仏教の影響を色濃く受け、世俗化した奈良仏教を厭う僧侶が、
穏遁の地として草庵を結び、念仏に専心した場所だっとという。
やがて草庵が寺院へと姿を変え、塔頭が並び「塔の尾根」ができ、いつしか
「当尾(とおの)」と呼ばれるようになったそうだ。
磨崖仏は、道しるべとしての役割もあったという。
いろんな蘊蓄は、木津川市観光ガイドのサイトや、各パンフレットなどを
参考にさせて頂いた。
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