この記事、だいぶ前に「下書き」していたのだけれど、出し惜しみしていたわけでなく、もう少し付け加えることがあるんじゃないか…と思っているうちに、タイムリー性を失ってしまった。
けれど、この記事を書いていた時の自分は、心が温かかった。
その意味で、エントリーするべきと思ったので、舌足らずだし、日本語として変なところもあるけれど、読んでいただけたら、幸いに思います。
10月27日の水曜日は、仕事(あまり言いたくはないけれど、「サービス残業」)で帰宅も遅く、正直食事を済ませて、NHKの『ニュースウォッチ9』を見て、すぐにフェードアウトするつもりだった。
しかし、その日に放送された『ザ・ベストハウス123』に、たまたまチャンネルを合わせると、「手足のない少女がチアリーダーに!母と娘が歩んだ壮絶人生スペシャル!」という特集が…。
時を忘れて、思わず見入ってしまいました。
特集のあらすじは、以下にHPから引用して紹介します。
*****************************************
手足のない少女がチアリーダーに!母と娘が歩んだ壮絶人生スペシャル!
1990年4月6日。佐野有美さんは、父・一夫さんと、母・初美さんの次女として産まれた。帝王切開での出産。数時間後、医師は、父にだけ対面を許した。そこには、重い障害を抱える、赤ん坊がいた。先天性四肢欠損症。新生児が、手や足、指の一部などがないまま生まれる障害。数万人に一人の割合で起こると言われ、原因は、現代の医学でも分かっていない。娘の症状は、その中でも重く、両腕と右足がなく、指が3本の、短い左足だけがあった。妻には、打ち明けられないまま、一週間が過ぎた。母と娘の初めての対面。だが、娘の障害は、母の想像を遙かに越えていた。
手足のない子をどう育てればいいかわからず、両親は、悩み抜いた末、我が子を乳児院に預けることにした。すくすくと育つ有美さん。しかし、母は、障害を持つ我が子をまだ、受け入れられずにいた。
1年半が過ぎた或る日のこと。母は、信じられない光景を目の当たりにする。有美さんが左足を懸命に動かし、一人でぬいぐるみに服を着せた。この時から、母は有美さんが様々な事を自分で出来るよう練習させた。そんな努力を積み重ね4歳になった有美さんは、保育園に入園。そこには、新たな問題が待っていた。
「オバケだ!オバケが来たー!」子供たちが浴びせる、容赦ない言葉。それは、母の心にも突き刺さった。だが、持ち前の明るさと、母の支えで、たちまち、保育園の人気者になった。そんな姿を見て、母は有美を普通の小学校に通わせたいという夢を抱いた。だが、そこに社会の壁が立ちはだかる。
母は、教育委員会、地元の小学校に掛け合ったが、どんなに説得しても、前例がないの一点張り。母の思いは、社会の壁に撥ねつけられた。情熱が通じたのか、ついに校長から通学の許可が出た。しかし、登校から下校まで、母親が一日中、娘に付き添うことが条件だった。母と娘、二人の学校生活が始まった。
教室の一番後ろに、母・初美さんの椅子が用意された。母は、娘の学校生活を、ここからサポートした。教室の移動、トイレの世話。常に、娘の側から離れられなかった。もちろん、家事との両立。息を抜く時間など、片時もなかった。でも、有美のためだからと、母は毎日登校した。初美さんの姿に、心動かされた多くの父兄が、なんと、交代で、有美さんのサポートを、買って出てくれた。親子の絆が大人たちの心を動かした。
友だちもたくさん出来た。いつもクラスの中心にいた。しかし、高学年になるとすれ違いが起きはじめる。元気で、物おじしない性格が自分の意見を押し通す、わがままなやつと思われるようになった。6年生になると友だちが一人もいなくなり、自分の殻に閉じこもるようになった。
中学生になった有美さんは、笑わない子になっていた。高校に進学しても、有美さんは、一人ぼっちのまま。
そんな、或る日のこと。有美さんの目が或るものに釘付けになった。それはチアリーディング部の練習だった。弾ける笑顔。仲間との絆。そこには、有美さんが失ったものが、全て詰まっていた。有美さんが先生に聞きにいくと、先生は有美さんに音楽機材の操作など裏方の仕事を任せた。
毎日、練習に出た。だが仲間に、声をかけることが出来なかった。先生は、有美さんの折れそうな心を見抜いていた。先生は有美さんに声をかけた。その日から、有美さんは変わった。練習中、気づいたことがあれば、ハッキリ伝えるようになった。有美さんに本当の仲間が出来た。自分の居場所を見つけた有美さんは、人に勇気を与える笑顔を取り戻した。そんな娘の変化が、母は嬉しかった。しかし自分のせいで仲間に迷惑をかけたくない、そんな焦りが、母に向けられた。そんな、ある日のこと。部活が終わったのに、母が迎えに来てくれない。その時、母からのメールが来た。「私はあなたの何なの?もう、私は何もしません。」突然の母の拒絶。いつも側にいて、守ってくれた母。でも、それが当たり前のことではないことに初めて気がついた。有美さんは、すぐに電話をかけた。そして、心の奥に、眠っていた言葉を母に告げた。自分の手となり、足となって、支えてくれた母。そんな母との新たな絆が結ばれた。
高校3年生になり、最後の文化祭でずっと裏方を務めてきた有美さんが仲間と舞台に立つことになった。見守る両親の前で、最後のステージが始まった。仲間に抱えられ、有美さんは、見事大事な演技を決めた。有美さんは、こみ上げる涙を抑えきれなかった。
現在、有美さんは、チアリーディング部で見つけた夢、声でみんなを元気にするために、OLの傍ら、地元のFMラジオでアシスタントを務めている。そこには、20歳になった娘を見守る、母・初美さんの姿が。さらに、有美さんは詩集も執筆。精力的に活動している。
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母の初美さんの「血がにじむ」様な努力。そして、それに応えようとする佐野さん。
社会との「壁」や、前例がないという「現実」と、真正面から向き合って戦う姿…。
もうそれだけで凄いドラマ。
なんでもチャレンジし、克服していく佐野さんに対して、私がコメントするにはおこがましいほどです。
佐野さんが、小学校の高学年から中学校までに思いがけずに生じた「仲間との軋轢」から、「失ったもの」を取り戻してくれたのが、入学した高校に部活動として存在していたチアだった…。
「これなら、かつての明るい自分が取り戻せるかもしれない…」
やろうと決めたその決断。
もうそれだけで『応援団バカ』には、痛いくらいその感動が伝わってきます。
正直、適当な言葉が見つからないです。
佐野さんの選択は、私は「ベスト」じゃないかと思っています。
何故か…。
私が常日頃から口にしていますが、「応援団」は、皆レギュラーだからです。
どんなに運動音痴でも(私も、走ること以外はダメな方です)、やるかやらないか…の部分で「やります!」の一言と、その熱意さえあれば十分なんです。
たとえ、四肢が不自由で、重度の障がいがあったとしても。
それが、間違いではなかった事…嬉しかった。
やる気さえあれば、良い。入部してきた者は、誰一人として不必要ではない。
数年前(このブログが立ち上がってからのことですから、「つい最近」といっても良い程)、法政大学応援団のホームページのトップページに載っていた、団員の全体集合写真を見た時でしょうか…。
身体が不自由で、車椅子の様なものに乗っていた男子団員が写っていました。
私は、見逃しませんでした。
これを見た時…
「さすが、法政。凄いな。」
と素直に思いましたね。
だから法政は「健全」なのかな…と。
そして、この記事でも取り上げた、東京大学運動会応援部のリーダ長の中井君の言葉、思い出してください。
「できるできないの問題じゃねぇ!。やるかやらないかどちらかだ!」
改めて、この言葉の重さを感じます。
佐野さんが、「私でも、できますか?」と顧問の先生に恐る恐る尋ねると、「今の気持ちと、やる気さえあれば、手足がなくても大丈夫。明日からおいで。」…私はその先生に、拍手を心から贈っていた。
また、佐野さんが「私には、やっぱり無理かも」と自信を失いかけていると、その気持ちを見抜き「貴方には、口がある。仲間の動きを見て、思ったことははっきり言って構わないんだ」と、背中を押すアドバイス…正直、目頭に熱いものがこみ上げた。なんて素晴らしい顧問の先生なのだろう…と。
そして、佐野さんは、「口から発する言葉」と「ハート」の面で、いつの間にか、仲間になくてはならない存在になります。
顧問の先生の「何気ない」かもしれない一言と、周りに寄り添っている仲間のおかげで、変われた佐野さんも立派。
すぐにマイナス思考から、真反対のプラス思考へ変える柔軟さ…そして取り戻した笑顔。
チアは、実は、それが全て。
練習は確かに辛い。
でも、辛さを表情に出す事は、タブー。
苦しい時に「苦しい」という顔をしてはならない…というのは、私が現役当時、も先輩方から指導されてきたことでもあります。
最後に、就職が決まらず落ち込んでいる時に見た、お笑い芸人コンビ「はんにゃ」のコントに励まされ、笑顔を取り戻したと堂々と語った姿は、本当に輝いていた。
その「はんにゃ」の二人から、佐野さんへ特別のプレゼントも披露されたけれど、それを見て、「応援団」は、誰かの「応援」でまた支えられ、その支えがあってこその存在だし、時にこちらがエールを贈ることもあれば、その逆もある…ということ改めて思いました。
明治大学応援團で、團長を歴任なさった、紫紺の八木崎健児先輩が仰ったように…
「人生、応援されたり、応援する事が、応援団」
それは、本当だし、これがその言葉を忠実に再現しているように思えてなりません。
私も、佐野さんに「応援」されました。
私も『応援団バカ』として、これからの佐野さんの人生を応援していきたいと思っています。
あの素敵な笑顔さえあれば、必ず佐野さんの周りには、心温かい「仲間」が、自然と寄り添うと信じています。
久しぶりに、素晴らしいものを拝見しました。
どうしようもなく嬉しくて、言葉がないですね。
追記
既に、著書を出版していますね。
読んでみようと思います、はい。
けれど、この記事を書いていた時の自分は、心が温かかった。
その意味で、エントリーするべきと思ったので、舌足らずだし、日本語として変なところもあるけれど、読んでいただけたら、幸いに思います。
◇
10月27日の水曜日は、仕事(あまり言いたくはないけれど、「サービス残業」)で帰宅も遅く、正直食事を済ませて、NHKの『ニュースウォッチ9』を見て、すぐにフェードアウトするつもりだった。
しかし、その日に放送された『ザ・ベストハウス123』に、たまたまチャンネルを合わせると、「手足のない少女がチアリーダーに!母と娘が歩んだ壮絶人生スペシャル!」という特集が…。
時を忘れて、思わず見入ってしまいました。
特集のあらすじは、以下にHPから引用して紹介します。
*****************************************
手足のない少女がチアリーダーに!母と娘が歩んだ壮絶人生スペシャル!
1990年4月6日。佐野有美さんは、父・一夫さんと、母・初美さんの次女として産まれた。帝王切開での出産。数時間後、医師は、父にだけ対面を許した。そこには、重い障害を抱える、赤ん坊がいた。先天性四肢欠損症。新生児が、手や足、指の一部などがないまま生まれる障害。数万人に一人の割合で起こると言われ、原因は、現代の医学でも分かっていない。娘の症状は、その中でも重く、両腕と右足がなく、指が3本の、短い左足だけがあった。妻には、打ち明けられないまま、一週間が過ぎた。母と娘の初めての対面。だが、娘の障害は、母の想像を遙かに越えていた。
手足のない子をどう育てればいいかわからず、両親は、悩み抜いた末、我が子を乳児院に預けることにした。すくすくと育つ有美さん。しかし、母は、障害を持つ我が子をまだ、受け入れられずにいた。
1年半が過ぎた或る日のこと。母は、信じられない光景を目の当たりにする。有美さんが左足を懸命に動かし、一人でぬいぐるみに服を着せた。この時から、母は有美さんが様々な事を自分で出来るよう練習させた。そんな努力を積み重ね4歳になった有美さんは、保育園に入園。そこには、新たな問題が待っていた。
「オバケだ!オバケが来たー!」子供たちが浴びせる、容赦ない言葉。それは、母の心にも突き刺さった。だが、持ち前の明るさと、母の支えで、たちまち、保育園の人気者になった。そんな姿を見て、母は有美を普通の小学校に通わせたいという夢を抱いた。だが、そこに社会の壁が立ちはだかる。
母は、教育委員会、地元の小学校に掛け合ったが、どんなに説得しても、前例がないの一点張り。母の思いは、社会の壁に撥ねつけられた。情熱が通じたのか、ついに校長から通学の許可が出た。しかし、登校から下校まで、母親が一日中、娘に付き添うことが条件だった。母と娘、二人の学校生活が始まった。
教室の一番後ろに、母・初美さんの椅子が用意された。母は、娘の学校生活を、ここからサポートした。教室の移動、トイレの世話。常に、娘の側から離れられなかった。もちろん、家事との両立。息を抜く時間など、片時もなかった。でも、有美のためだからと、母は毎日登校した。初美さんの姿に、心動かされた多くの父兄が、なんと、交代で、有美さんのサポートを、買って出てくれた。親子の絆が大人たちの心を動かした。
友だちもたくさん出来た。いつもクラスの中心にいた。しかし、高学年になるとすれ違いが起きはじめる。元気で、物おじしない性格が自分の意見を押し通す、わがままなやつと思われるようになった。6年生になると友だちが一人もいなくなり、自分の殻に閉じこもるようになった。
中学生になった有美さんは、笑わない子になっていた。高校に進学しても、有美さんは、一人ぼっちのまま。
そんな、或る日のこと。有美さんの目が或るものに釘付けになった。それはチアリーディング部の練習だった。弾ける笑顔。仲間との絆。そこには、有美さんが失ったものが、全て詰まっていた。有美さんが先生に聞きにいくと、先生は有美さんに音楽機材の操作など裏方の仕事を任せた。
毎日、練習に出た。だが仲間に、声をかけることが出来なかった。先生は、有美さんの折れそうな心を見抜いていた。先生は有美さんに声をかけた。その日から、有美さんは変わった。練習中、気づいたことがあれば、ハッキリ伝えるようになった。有美さんに本当の仲間が出来た。自分の居場所を見つけた有美さんは、人に勇気を与える笑顔を取り戻した。そんな娘の変化が、母は嬉しかった。しかし自分のせいで仲間に迷惑をかけたくない、そんな焦りが、母に向けられた。そんな、ある日のこと。部活が終わったのに、母が迎えに来てくれない。その時、母からのメールが来た。「私はあなたの何なの?もう、私は何もしません。」突然の母の拒絶。いつも側にいて、守ってくれた母。でも、それが当たり前のことではないことに初めて気がついた。有美さんは、すぐに電話をかけた。そして、心の奥に、眠っていた言葉を母に告げた。自分の手となり、足となって、支えてくれた母。そんな母との新たな絆が結ばれた。
高校3年生になり、最後の文化祭でずっと裏方を務めてきた有美さんが仲間と舞台に立つことになった。見守る両親の前で、最後のステージが始まった。仲間に抱えられ、有美さんは、見事大事な演技を決めた。有美さんは、こみ上げる涙を抑えきれなかった。
現在、有美さんは、チアリーディング部で見つけた夢、声でみんなを元気にするために、OLの傍ら、地元のFMラジオでアシスタントを務めている。そこには、20歳になった娘を見守る、母・初美さんの姿が。さらに、有美さんは詩集も執筆。精力的に活動している。
*****************************************
母の初美さんの「血がにじむ」様な努力。そして、それに応えようとする佐野さん。
社会との「壁」や、前例がないという「現実」と、真正面から向き合って戦う姿…。
もうそれだけで凄いドラマ。
なんでもチャレンジし、克服していく佐野さんに対して、私がコメントするにはおこがましいほどです。
佐野さんが、小学校の高学年から中学校までに思いがけずに生じた「仲間との軋轢」から、「失ったもの」を取り戻してくれたのが、入学した高校に部活動として存在していたチアだった…。
「これなら、かつての明るい自分が取り戻せるかもしれない…」
やろうと決めたその決断。
もうそれだけで『応援団バカ』には、痛いくらいその感動が伝わってきます。
正直、適当な言葉が見つからないです。
佐野さんの選択は、私は「ベスト」じゃないかと思っています。
何故か…。
私が常日頃から口にしていますが、「応援団」は、皆レギュラーだからです。
どんなに運動音痴でも(私も、走ること以外はダメな方です)、やるかやらないか…の部分で「やります!」の一言と、その熱意さえあれば十分なんです。
たとえ、四肢が不自由で、重度の障がいがあったとしても。
それが、間違いではなかった事…嬉しかった。
やる気さえあれば、良い。入部してきた者は、誰一人として不必要ではない。
数年前(このブログが立ち上がってからのことですから、「つい最近」といっても良い程)、法政大学応援団のホームページのトップページに載っていた、団員の全体集合写真を見た時でしょうか…。
身体が不自由で、車椅子の様なものに乗っていた男子団員が写っていました。
私は、見逃しませんでした。
これを見た時…
「さすが、法政。凄いな。」
と素直に思いましたね。
だから法政は「健全」なのかな…と。
そして、この記事でも取り上げた、東京大学運動会応援部のリーダ長の中井君の言葉、思い出してください。
「できるできないの問題じゃねぇ!。やるかやらないかどちらかだ!」
改めて、この言葉の重さを感じます。
佐野さんが、「私でも、できますか?」と顧問の先生に恐る恐る尋ねると、「今の気持ちと、やる気さえあれば、手足がなくても大丈夫。明日からおいで。」…私はその先生に、拍手を心から贈っていた。
また、佐野さんが「私には、やっぱり無理かも」と自信を失いかけていると、その気持ちを見抜き「貴方には、口がある。仲間の動きを見て、思ったことははっきり言って構わないんだ」と、背中を押すアドバイス…正直、目頭に熱いものがこみ上げた。なんて素晴らしい顧問の先生なのだろう…と。
そして、佐野さんは、「口から発する言葉」と「ハート」の面で、いつの間にか、仲間になくてはならない存在になります。
顧問の先生の「何気ない」かもしれない一言と、周りに寄り添っている仲間のおかげで、変われた佐野さんも立派。
すぐにマイナス思考から、真反対のプラス思考へ変える柔軟さ…そして取り戻した笑顔。
チアは、実は、それが全て。
練習は確かに辛い。
でも、辛さを表情に出す事は、タブー。
苦しい時に「苦しい」という顔をしてはならない…というのは、私が現役当時、も先輩方から指導されてきたことでもあります。
最後に、就職が決まらず落ち込んでいる時に見た、お笑い芸人コンビ「はんにゃ」のコントに励まされ、笑顔を取り戻したと堂々と語った姿は、本当に輝いていた。
その「はんにゃ」の二人から、佐野さんへ特別のプレゼントも披露されたけれど、それを見て、「応援団」は、誰かの「応援」でまた支えられ、その支えがあってこその存在だし、時にこちらがエールを贈ることもあれば、その逆もある…ということ改めて思いました。
明治大学応援團で、團長を歴任なさった、紫紺の八木崎健児先輩が仰ったように…
「人生、応援されたり、応援する事が、応援団」
それは、本当だし、これがその言葉を忠実に再現しているように思えてなりません。
私も、佐野さんに「応援」されました。
私も『応援団バカ』として、これからの佐野さんの人生を応援していきたいと思っています。
あの素敵な笑顔さえあれば、必ず佐野さんの周りには、心温かい「仲間」が、自然と寄り添うと信じています。
久しぶりに、素晴らしいものを拝見しました。
どうしようもなく嬉しくて、言葉がないですね。
追記
既に、著書を出版していますね。
手足のないチアリーダー | |
佐野 有美 | |
主婦と生活社 |
読んでみようと思います、はい。
体の不自由な彼は吹奏楽部の団員でした。応援している時、車いすはスタンドの下の通路にありました。彼をスタンドで初めて見たときには息をのみました。彼は、確か指揮をしていたこともあったと記憶しております。
今日のdanchoさんの記事の中にある「居場所」という言葉。
今は、自分の「居場所」がない人、探している人が多いようにいつも感じております。
素晴らしい記事、ありがとうございます。
ご無沙汰しています。お元気そうで。
コメント、誠にありがとうございました。
そして、レスが遅くなりました事、お詫び申し上げます。
「居場所探し」は、この世知辛い世の中、ある意味「長年継続しそうなテーマ」のように感じます。
この記事の主人公のように、ポジティブ思考なら、多分そんなに苦労はしないのでしょう。
しかし、他人との接点に「ドライさ」を求めがちな昨今は、自分の居場所が「自分の殻の中」って事が多いのは、自戒も込めますが問題ではありますね。
そういう切り口でコメントしてくださったことは、良い勉強になると思います。
法政の彼も、温かい「仲間」に恵まれ、充実して卒団していったと信じています。
本当に、応援団は皆レギュラーです。飛び入り参加もありです。
拙ブログがきっかけで、自分の「居場所」を見つける事ができた読者が1人でもいらっしゃれば、この上ない喜びでもあります。
先ずは、コメントを頂戴した事に対しての御礼と、レスが遅延した事に対し、お詫びまで。