だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

手筒花火

2009-07-19 03:58:28 | Weblog
 今夜、近くのモリコロパークのイベントで、愛知県幡豆町の伝統芸能である手筒花火が披露された。無病息災と豊作を祈って神社に奉納されるものだ。はじまる2時間半前から子どもたちが場所取りをしてくれたおかげで、最前列真正面で見ることができた。

 グランドの電灯が消えて真っ暗になったところに、「わっしょいわっしょい」と松明が走る。3回宙にまわしてから点火。男達が右腕にかざした手筒から花火の火の粉が夜空に立ち上る。男達はぴくりともせずおちついた表情で火の粉を頭からかぶっている。そして最後に大きな音をたてて「爆発」する。一瞬手筒の下からも炎が吹き出して終わる。

 大きな花火や小さな花火が何回か披露された後、最後の一本。特大の手筒をひとりの男が抱える。足を前後にひろげぐっと腰を落として手筒をささえる。火花が一段と空高く舞い上がる。これの最後の「爆発」はどんなにすごいことになるのか、見ていてはらはらする。
 そして、大音響とともに「爆発」。これまでのものとはスケールが違う。全身が一瞬炎に包まれ、男はあまりの衝撃に倒れ込んだ。観衆は一瞬息をのんだ。でも何事もなかったように男が立ち上がると拍手喝采である。

 祭とは、死と再生の物語である。男達は花火を掲げることによって一度「死ぬ」のである。その瞬間、宇宙と一体になる。そして、大音響と衝撃から我に返った時、この世に返ってくる。カミに自らの命を捧げ、そのことによって自らを清める。
 北米のインディアンは、森の中に薬草を探しに入る前に身と心を清めるという。そうすれば、森を歩いているだけで薬草の方から声をかけてもらえるのだという。
 祭を持たない私たちは、自らを清める機会を失ってしまった。穢れた身と心を引きずり、森の生き物から見放されたまま、本当に死ぬまでの生を過ごさなければならないのである。
コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 不思議な気持ち | トップ | 持続可能な地域デザインのた... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
違った角度より垣間見る (千天風MU∞MA)
2009-07-19 07:19:54
だいず先生 ご教示ありがとうございます。解説付きにて花火をお教え頂きまして、本当に感謝しています。
ただただ、スゴい迫力・・・とか、キレイとか言うだけでなく、そのような文化や歴史と人々の営みを知る機会が得れました。

実は、小生も5:30~9時までいて、来場者を癒していました。モリコロパークのマネジメントコア会員にて出展広報&アロママッサージ&リフレクソロジーなど盛り上げ支援していました。
返信する

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事