ヴィム・ヴェンダース監督の映画「Perfect Days」を観た。主演の役所広司がカンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞したことでも有名になった映画だ。主人公の毎日が淡々と描かれる。初老の男性の一人暮らし。古いボロボロのアパート。2Kだ。毎朝決まった時間に起き、決まったやり方で布団を畳み、歯を磨き髭を剃り、植木に水をやり、靴箱の上に置いた鍵、カメラ、小銭を着ているつなぎの決まったポケットに入れ、玄関を出たところで空を見上げ、自動販売機で缶コーヒーを買い・・・出勤した先では公共トイレの掃除。帰って来て銭湯に行き、大衆酒場で一人で晩酌をやり、文庫本を読みながら眠りにつく。ほとんど喋らない。パターン化されているので、酒場の主人も「いつものやつ」を出してくるだけで、喋る必要がほとんどない。
このままずっと同じ暮らしの描写が続く映画なのかとやや構えたが、そこにささやかな波風がたつ。特別にドラマチックなものではなく、あくまでささやかな。
100年前の東京の暮らしはかくあったかというような主人公の暮らしの背景には、常に天を指す東京スカイツリーが映り込んでいる。仕事場である渋谷区の公共トイレは有名な建築家たちが競ってデザインしたアートなトイレの数々。これらのハイパー現代的な東京の姿と主人公の暮らしとのコントラストが目を引く。
しかし、決して貧しい感じはしない。わびしい感じもしない。しゃがみ込んで黙って便器を磨く後ろ姿はもう禅宗の修行僧のようだ。そのように感じたら、この映画全体が仏教の法話のように思えてきた。
トイレ掃除の仕事にどれだけの人生の意味を見出せるのか?そういう問いかけが何か気恥ずかしく思えてくるような透明感あふれる主人公の姿である。では何が意味ある仕事、意味ある人生なのか?本質的なところで何が違うのか?見ている者は映画からそう問い返される。
毎日同じことの繰り返しにどれだけの人生の意味を見出せるのか?しかしながら、主人公には同じことの繰り返しの中に今この瞬間への集中感がある。一つ一つの所作が茶道のお手前を見ているような感覚がある。映像がそのように描写されている。今に集中しているとすると、昨日と同じことをしていても、昨日のことはもう終わったことなのでどうでも良い。つまり、「同じことの繰り返し」という認識そのものが成立しなくなる。
人生に意味はない。これが大乗仏教の教えだ。ある人生のあり方に意味があるとすれば、死はその人生の意味を滅ぼすことに他ならない。しかしながら、人間は必ず死ぬので、どれほど意味があると思った人生を送ったとしても、最後は意味がなくなることになる。そのことに人間はおそれを抱き死を苦しみと思う。そうするならば人生そのものが苦しみとなる。つまり、人生に意味があるとするならば、人生は必然的に苦しみとなる、という逆説的な関係にある。
苦しまず平安に日々を生き、そして死ぬことができるとするならば、意味のない人生を、今に集中して生きるということだ。これが大乗仏教の教えだ。よりよい未来のために今を犠牲にするのではなく、過去の栄光や失敗に引きずられるのではなく、そういうことはどうでもよくて、今この瞬間を十全に生ききる。
主人公の日々はそういう意味で完璧、つまりperfect daysというわけだ。
ひるがえって私たちは日々の些細な出来事に一喜一憂し動揺し続ける毎日だ。心の平安などとはほど遠い。とてもperfect だとは思えない。しかし本当は、私たちの毎日も、どんな暮らしをしていても、perfect daysなのだ。もちろん私たちはそのことに気づくことは難しい。しかし、映画館の椅子に座っているだけで、美しい映像と音楽と共にそのことに気づかせてくれる、これは奇跡のような映画である。
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