だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

グローバルに考えてローカルに行動しよう

2005-10-19 07:16:37 | Weblog

 これは環境問題にとりくむものの世界共通のスローガンである。そしてこの逆、すなわち「ローカルに考えてグローバルに行動する」ものとの鋭い対立がはっきりと分かる時代になってきた。
 例えばアメリカ合衆国はその典型である。世界で唯一の超大国アメリカは、世界中に軍隊を派遣しグローバルに行動しており、その唯一の動機は「国益」というローカルな利益である。イラク戦争を開始する時もそのあとも、ブッシュ大統領はその戦争の目的を「大量破壊兵器」と「9・11」という言葉で語ったが、フセイン大統領はどちらとも関係がなかったことが今日では実証されている。
 アメリカ大統領がそのようなあやふやな情報に基づいて戦争をやるとすれば、それはそれ以外の明確な目的があったからであって、石油が目的であることはほとんど自明だ。世界最大の原油輸入国はアメリカであることはよく知られているが、その同じ国が世界第3位の大産油国であることはあまり知られていない。どれだけアメリカ社会が原油を飲み込むのか途方もないくらいである。原油消費量第2位集団の中国、日本、ロシアはそれぞれアメリカの半分程度だ。そしてアラスカをのぞくアメリカの原油確認埋蔵量はあと十年で枯渇するほど残り少ない。
 そしてサウジアラビアにつぐ世界第2位の確認埋蔵量をほこるのがイラクである。確認埋蔵量を国別にならべると5位までを中東の国が占めるが、そのうちイラク戦争より前にアメリカ軍の基地がなかったのはイラクとイランのみである。(つまり、アメリカが次に戦争をするとすればイランであろう。)そして、イラクの石油は、ブッシュ父の湾岸戦争によって国連の管理下に入り、ブッシュ子のイラク戦争によってアメリカとイギリスの管理下に入った。いまだに政治的軍事的に混乱のつづくイラク社会をしり目にアメリカは完全に戦争目的を達成した。
 そして世界第2位の原油輸入国日本の首相は自衛隊をイラクに派遣する目的としてイラクの復興ではなく、「国益」のためであることを国会で強調した。規模はアメリカより3桁ぐらい小さいものの「ローカルに考えてグローバルに行動」しようとしていることに変わりはない。

 環境問題はさまざまな問題が複雑にしかもグローバルにからみあった問題である。そしてそれはローカルな地域社会や日々の私たちの暮らしの中にそれぞれの特殊な形をとってたちあらわれる。逆に、そのようなローカルに表現された問題にローカルにとりくむことが、グローバルな問題の解決に貢献する。ローカルな努力が世界全体で行われてはじめてグローバルな問題の解決が展望できる。1992年の地球サミットで採択されたリオ宣言とアジェンダ21はそのようなローカルな努力を世界にむけて呼びかけたものだった。
 日本においてそのようなローカルな努力が少なくとも目に見える大きな動きとして行われているとは思われない。各自治体でローカルアジェンダ21が作られたものの、その存在を知る市民は皆無であり、その内容もほとんどは実効性のない作文にすぎない。

 グローバルな環境の持続不可能性をもたらしているのは、人口×ひとりあたりの環境負荷で積み上げられる巨大な環境負荷である。人口とひとりあたり環境負荷のそれぞれが増大しているところに問題がある。さらにひとりあたり環境負荷の問題は、日本のような先進国の人間20%が世界の資源の80%を消費し廃棄物を排出しているところがクリティカルだ。人口が減り始めている日本において、ローカルな努力とは、ひとりあたり環境負荷を減らすということにつきる。

 ところで、生態系から持続可能な形で資源を採取し廃棄物は生態系に返すというやり方ならば環境負荷は発生しない。環境負荷が生じるのは、地下資源を消費し廃棄物を地上に排出することと、生態系を破壊するような形で生態系資源を利用することによる。

 私たちはこどものころから「日本には資源がない」とくりかえし教えられてきたが、これは明らかにまちがいである。確かに地下資源は明治時代にはほとんど枯渇してしまったものの、水と生態系という資源からみれば世界有数の資源保有国である。林野率が60%を超える森林大国が林野率10%の中国から大量に割り箸を輸入し、水資源に乏しいアメリカ中西部やオーストラリアから大量に食料を輸入しそれに伴う仮想水を輸入しているのは不可解というものである。ヨーロッパに較べて太陽の日射が十分にあり、風も吹けば山には木がひしめき合っている国が、世界第2位の原油輸入国にして自然エネルギーの利用で後進国なのは不可解である。
 日本におけるグローバルな問題のローカルな表現、というところに焦点をあてるならば、それは自立していない地方経済というところに行き当たる。グローバル企業の企業城下町であるところを除けば、地方経済はすでにかなり前から縮小に転じている。農林業と地場産業の衰退は目を覆うばかりである。日常生活のベーシックニーズである衣食住とエネルギーのほとんどすべてを地域の資源からではなく海外の資源に依存する経済になったからである。その衰退を70年代から今日まで財政支出に依存する建設業で補ってきた。その必然的な結果としての財政破綻が目前となり、海外の資源と財政に依存する地域経済は行き詰まりつつある。
 また海外から資源を輸入すれば廃棄物は国内に蓄積するほかないため、川や海は富栄養化で死につつあり、山には産業廃棄物があふれ、地下は重金属や化学物質で汚染された。廃棄物を海外に持ち出せないとすれば、海外からの資源持ち込みをやめない限り廃棄物問題は解決しない。(いくら「リサイクル」をやっても解決しない。)これは単純明快、質量保存則というこの宇宙を支配する物理法則からいって自明だ。

 とすれば、ローカルな取り組みの方向も単純明快である。つまり、地域の生態系資源を活用して生活のベーシックニーズを満たし、そのための地域経済を構築し、雇用を生みだし、廃棄物問題を解決する、ということだ。そして、このことはローカルな利益だけでなく、ひとりあたり環境負荷をゼロに近づけることによって、グローバルな環境問題の解決に貢献するのだという意識をもってこれにあたることが重要だ。

 もちろん方向は単純明快でも、その実現の道筋は困難をきわめる。日本の近代化とは、乱暴に一つの側面で切り取れば、地下資源(明治の国内石炭、戦後の中東石油)を利用して経済成長を行うということであった。さらに経済成長によってさまざまな社会的な問題を解決しコンフリクトを調整してきた。それを逆転させるのはこれまでは不可能だったと思う。しかし、成長による成功の結果として人口が減少に転じ、さらに財政が破綻しようとする現在、逆転を可能にする条件が整ったと言えるのではないか。いずれにせよ今のままでは経済成長は不可能なのだ。(例えば景気がよくなると金利が上昇し巨額の借金をかかえた財政が最終的に破綻する。)やむをえずではなく、むしろ積極的に幸せな縮小型社会に向かえばよい。
 逆転がはじまれば、今まで最も取り残され遅れていたと考えられたものが最も先進的なものとなり、最も先進的と思われていたものがどうしようもない過去の遺物となる。そのサインは気をつけていればあちこちに発見できるようになってきた。
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