以前、「木の声を聞く」という話を紹介した。他の生命に支えられて、生命の循環の一部として自分が生きているということの実感をとりもどすために、森の中で木の声に耳をすましてみよう、という提案である。
そういえば、忘れていた。自分自身という生命の声を聞くことも私たちはできなくなってしまっている。灯台もと暗し。
小学校高学年くらいだったか。近くの海岸に毎日遊びに行っていた私は、夏になると真っ黒に日焼けして、そのうち皮がむけ出した。べろーとうす皮をむいていて、ふと、不思議な気持ちになったことを覚えている。この皮は、ほんの少し前までは私自身の一部だった。でもむけてしまった今となっては、とても自分とはいえない。どこまでが自分でどこからが自分でないんだろう。
私が、と書く主体としての「私」を仮に自我と呼んでおこう。自我の広がりはどこまでなんだろう。もう自分の身体からして自我の外のようである。手足は自分の意志で動くので、かろうじて自我の延長のようだ。しかし、島田明徳『「病」の意味』地勇社1994年には次のような問いかけがあってぎくりとした。「心臓を動かしているのは誰か?」。「私」が動かしているとは言えない。「私」の意志でもって動かしたり止めたりできないからだ。
食べ物を食べて味わうところまでは自我の守備範囲のようであるが、それを消化し栄養とし、排泄物を処理するところは、守備範囲外である。自分の意志でやっているわけではない。
細菌やウイルスなどが体内に入ってきたら、白血球がそれらを探知して食べてしまう、ということを私たちは科学的な知識として知っている。でもそれは何か遠い国のできごとのようだ。私の身体の中で「私」とはちがう意志をもった単細胞の生き物が、勝手に私の身体を守ってくれている。
これらの身体の働きは、すでに「私」よりは、森の木々に近しいようである。森の木と私の自我の外の身体は、同じ生命の原理で生きている。自我が認識するかいなかにかかわらず、生命の循環の一部として生きている。おいてきぼりなのは私の自我だけだ。少し嫉妬を感じる。
「私」たちは自分の身体という生命の声を聞けなくなっている。何をやったらよいのか、何をやってはいけないのか、本当は身体が教えてくれるはずなのに、その声が聞こえないので、とんでもないことをやってしまっているのかもしれない。その結果として、自分を傷つけているのではないか。さらに、自分の生命とつながっている他の人や他の生き物の生命を傷つけて知らん顔をしているのではないだろうか。
なぜ、ブルドーザで山を切り崩しても平気なのか、見渡す限りの干潟を埋め立てても平気なのか、やっと分かったような気がする。自分自身の生命の声すら聞こえなくなってしまったからだ。
森の中で木の声に耳をすますとき、それは自分の身体の生命の声にも耳をすましているに違いない。「私」はしゃしゃりでずに、彼らの間で交わされる会話を謙虚に聞いてみるのがよいだろう。
ところでタイトルに用いたフレーズの「オテントウサマ」とは一体誰なのでしょう?子供の頃、実際にこう叱られたのか、絵本や民話で読んだのか忘れてしまいましたが、不思議な響きと共に今も記憶に残っています。
大人になってから「オテントウサマ」とは太陽のことと知り、個々の人間の営みを超越した「絶対神」のようなものかと思うようになりました。人の法や倫理で裁かれるよりも、もっと根源的な「真理」や「公正さ」によって凝視される感覚。
特別な宗教は持っていない私ですが、折りに触れ「神」に畏れを覚えます。日本人の心性は「汎神論」で語られることも多いようです。そういえば、田舎道に必ず何かが小さく祭られていますよね。もしかしたら、「神」とは「どこかのだれか」ではなく、樹木や小鳥や、そしてもちろん私たちの身体の隅々にまで宿っている「いのち」そのもののことかも知れませんね。
その姿に目をとめ、息遣いに耳をすましたいです。大切にしたいものです。
日本語なら、「道徳心」って、やつだよね。
だって、見てるだけだもん。(^^;;