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執事たちの足音
召使いたちの再就職事情―『サンキュー、ジーヴス』
ジーヴス、辞表提出!!
↑本の帯コピーを目にした瞬間、胸が痛みました。
本屋で立ちつくすわたし。
「もぅ、馬鹿、ばかぁ…」
ジーヴスをなじったのではありません。バーティをなじったのです。
ジーヴスが辞めるなんて、バーティが悪いに決まっています。
読む前に、ギルティの判決を下してしまった。
「どんっ」振りおろす木槌の音を頭の中にひびかせて。
ジーヴスの辞職理由は、主人バーティの下手っぴなバンジョレレ演奏に耐えかねて…というわけですが、もし執事がジーヴスでなかったら「それを耐えるのも、仕事のうちじゃわい!」と活を入れるところなんですがねぇ。
ジーヴスはジーヴスであって、ジーヴス以外の何者でもなく、ジーヴス以上の執事もいない。
そんなたぐいまれなジーヴスとバンジョレレを天秤にかけて、バンジョレレのほうを選んだバーティは、うん、やっぱり悪い。もぅ、馬鹿、ばかぁ!
さて、今回のストーリーで気になった場面は、ここ。
これでじゅうぶんだ。僕は傲慢なふうにうなずいた。
「よしわかった、ジーヴス。それまでだ。もちろん君には最高の推薦状を書いてやることにしよう」(P.32)
バーティがジーヴスと決別する場面ですね。
この主人が書く「推薦状」が、いかに威力を持ち、召使いたちの再就職を左右していたか―
それを知っていると、もっと楽しく深読みできます。
というわけで、今回のテーマは召使いの再就職事情です。
召使いたちの就職戦線―まずは職業紹介所へ
英国召使いについての必読本(と、わたしが思っている)、
『ヴィクトリアン・サーヴァント―階下の世界』を参考に、召使いたちが再就職するまでの道のりをまとめてみましょう。
ヴィクトリア朝中期以降、召使いが職を得る方法は「職業紹介所」が主流となりました。(時代を下って20世紀に活躍するジーヴスも、紹介所を通してバーティの執事に採用されましたね)。
ヴィクトリア朝時代の紹介所のシステムは次のようなものでした。
①まず最初に召使いは紹介所に名前を登録する。
②他の召使いたちとともに事務所でひたすら、うんざりするほど待機する。
③やがて個室に呼ばれると、雇い主からのきびしい面接を受ける。
最初の面接ですぐに採用が決まらなければ、勤め口が得られるまで何日でも紹介所に通わねばなりません。
ちなみにここらへんの、紹介所での就職活動の場景は、シャーロック・ホームズの「椈屋敷」に詳しく描かれています。(召使いではなく、家庭教師の求職ですが)
また、使用人の多い大きな屋敷では、主人がみずから召使いの面接を行うことはありませんでした。(主人のごく身近に仕える従僕(ヴァレット)、小間使い(レディーズ・メイド)、保母(ナース)だけは主人が直接雇った)
召使いの雇用・解雇の全権を握っていたのは家令(ハウス・スチュワード)であり、家令がいない場合は執事(バトラー)が男性使用人を、家政婦(ハウス・キーパー)が女性使用人を雇い入れました。
紹介所を利用するにしても、執事や家政婦の面接を受けるにしても、就職に必要不可欠なのが「キャラクター」(“character”)という前の雇い主が書いた「人物証明書」です。
良い人物証明書を書いてもらうのは難しい
人物証明書とは、前の雇い主が、新しい雇い主へ送る「召使いの人物評価書」で、召使いの性格、特技、働きぶりなどが書かれています。
前の雇い主が長所ばかり書いてくれれば良いのですが、これが、難しい。
というのも能力が高く、使い勝手の良い召使いなら、そもそも主人が手放したがるはずがないんですね。まず引き止める。そして給料を上げたり休暇日を増やしたりの懐柔策を持ち出して、なんとかこのまま留まるよう召使いをなだめるわけです。
主人の折れての懇願を召使いのほうから蹴るとなると、いくら寛大な性格の主人でもムッとするのが人情でしょう。陰険で根にもつ主人なら、うっぷん晴らしに欠点を挙げつらねた人物証明書を書くかもしれません。
20世紀初頭に生まれ、女中として長年働いたイギリス人女性シルヴィア・マーロウは回想録でこう記しています。
ゴーントレット夫人も、私を引き止めようと一生懸命でした。子供たちもなついているじゃありませんか。私はちゃんと知っています……などなど。 最後にとうとう紹介状を書かねばならなくなったときも、彼女は嫌がらせをしました。私は非常によく働く女中だったが、一つだけ小さい欠点があって、それはときどき嘘をつくことだ、と書いたのです。 『イギリスのある女中の生涯』より引用 |
人物証明書がなければ、召使いはふたたび職に就くことは出来ませんでした。
たとえ面接で新しい主人に好印象を与えることができても、そこでおしまいです。
そんな事情を知っているからこそ、辞めていく召使いのために良い人物証明書を書いてあげる心やさしい主人もいました。
しかし、人物証明書の発行に法的義務はありませんでした。
ですから意地悪な主人であれば、腹いせに事実とは異なった悪評を書いたり、また人物証明書そのものを書かずに放っておいて、召使いを路頭に迷わせることも簡単だったのです。
また反対に“召使いに辞めてもらいたくて”良い内容の人物証明書を書く事例もよくありました。
ほんとうは酒飲みで、賭博好きで、怠け者で口ごたえの多い召使いを、
「実直で身持ちも固く、従順な性格で働き者です」と嘘を書いて推薦し、新しい雇い主のもとへやっかい払いしよう…という算段です。
召使いの生計与奪を握るこの人物証明書のシステムは、当時としてもかなり問題視された社会的慣習でした。「人物証明書の発行を義務化し、またその内容に虚実があってはならない」といった法案も何度か議会に提出されましたが、どれも法令には至ってません。
嘘っぱちの人物証明書のせいで被害を受けた召使いは、雇い主を訴えることもできました。
が、それは「雇い主のあきらかな悪意による」と証明できてはじめて起訴できるもので、その立証はむずかしく、また起訴しても裁判を続けるだけの資金をもっている召使いはほとんどいませんでした。
時代は下って現代のイギリス。
これはわたしの感想ですが…
高尾慶子著『イギリス人はおかしい―日本人ハウスキーパーが見た階級社会の素顔』を読みますと、前の雇い主による証明を重要視する風潮は、現代のイギリスにおいても「前歴証明書」(“reference”)と形を変えて、生き続けているように思います。
イギリスでハウスキーパーとして働いた経験を著書にした高尾さんは、職探しのために訪れたすべてのドメスティック・エージェンシー(家庭内の仕事専門の職業紹介所)から一様に「レフェレンスはあるか」と問われ、
この国のレフェレンスはないと答えると、じゃあ、どこも紹介できない、日本での経験があるなら、日本からのレフェレンスを取り寄せろといわれ、私は三十年以前にもさかのぼっての雇い主に便りを書き、何週間もかかってレフェレンスを受け取った。 『イギリス人はおかしい―日本人ハウスキーパーが見た階級社会の素顔』より引用 |
高尾さんは、
「学校を卒業しても働かせてくれなければ、経験というものが積めないのに、とにかく、経験、経験とそれに頼りきり。」
「英国では、フィッシュ・アンド・チップスの店ですら、『経験があるか?』とこうだ。」
と、前歴・経験重視のイギリス社会の風潮に憤っています。
バーティがジーヴスに示したかった、主人の寛大さと権威
さて、話をジーヴスに戻しましょう。
バーティがジーヴスに書いてやると言った「推薦状」とは、この「人物証明書」と同様のものでしょう。
「人物証明書」の内容がいかに召使いの再就職を左右するかは、すでに述べました。
ですから「もちろん君には最高の推薦状を書いてやることにしよう」とは、バーティのジーヴスに対する正確な人物評価であり、賛辞であり、また主人が辞めてゆく召使いに示せる、最後でしかも最高の処遇なわけです。
ここまでは、いいんです。バーティの言葉どおりです。
しかしですねぇ…その前の、
<僕は傲慢なふうにうなずいた。>
この一文がですね、気になるんですよねぇ。
ひょっとしたらバーティは、ジーヴスに対する主人としての“寛大さと権威力”の最後の見せどころと思ったんじゃないか? とこう思うのです。(深読み万歳)
(ふん、辞めたきゃ辞めるがいい!)
というような、意地を張る気持ちだけでなく、
(僕のバンジョレレの音色に苦情を叩きつけた執事に対してでさえ、これほどの温情をみせることができるんだぜ)
ウースター家ご自慢の寛大さ?を誇示したいのと、
(僕は推薦状の内容をどんなふうにでも書ける立場なんだってこと、ここではっきり示さなきゃ、最後に主人としての面目が立たない…)
主人の権威を見せつけておきたい―そんな気持ちもバーティにはあったのではなかろうか、と思うのです。
まあ、そんなせっかく最後に主人らしく振舞える見せ場も、あっさり他人に奪われてしまうんですけどね(笑)。
「有難うございます、ご主人様。しかしながらさような必要はございません。本日の午後より、わたくしはチャフネル卿の雇用下に納まりましてございます」 僕はびっくり仰天した。 「チャッフィーの奴が今日の午後ここに忍び込んできて君をかっさらって行ったと、そういうことなのか?」 (同P.32より引用) |
推薦状すら書かせてもらえない、無能きわだつ哀れなバーティ…。
もぅ、馬鹿、ばかぁ!
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ウッドハウスがらみでは、短編『ジーヴスとギトギト男』、エッセイ『執事よさらば』(共に森村たまき訳)。
執事ネタでは執事喫茶の取材が2ページ、エッセイで新井潤美『執事は何を見たか』、漫画で坂田靖子『シノワズリ』。
メイドでは、短編で竹本健治『雨の公園で出会った少女』(キララ、探偵すの番外編)、真瀬もと『ボビーの災難』(お楽しみはこれからだ!の後日譚)、エッセイで辻眞先『メイド・イン・ジャパン』、漫画で腹肉ツヤ子『女中は見た!!』。
使用人全般では、エッセイで杉江松恋『執事&メイド・ミステリはこれを読め!』、資料篇『見てわかる家事使用人組織図』。
しかし召使いたちの就職戦線も厳しいもんなんですね~。ほかの本でも元主人の「推薦状」が必要なのは知ってましたが、今回countsheep99さんの記事を見てそんなに奥深かったのかと感心しました。
>引く手あまたで推薦状いらずのジーヴスと、
推薦状すら書かせてもらえない、無能きわだつ哀れなバーティ・・・
めっちゃ笑える(笑)。ほんと「馬鹿ばかぁ~」だわ~。
P.S TBさせていただきました。よろしくです♪
ほんっっとううに(リキんでます)貴重な情報をありがとうございます!
もしかしてご存知…ではなかったですよ。
いろいろ紆余曲折ございまして、やっと手に入れましたミステリマガジン五月号。
で、収録されていたウッドハウスのエッセイにからめて、ブログUPしました。
→「1903年の執事―ウッドハウスのエッセイから」
http://blog.goo.ne.jp/countsheep99/e/258904184894889d955ac2e533530c4d
>TKATさま
おひさしぶりです♪
召使いたちの再就職事情を調べ続けるほど、
じつは紹介状って、いいかげんな内容だったんではないかと思うんですよね。
主人側からすれば、辞めた使用人が他家へ再就職する…となれば、まず心配するのは「家庭の裏事情がバラさらやしないか?」でしょう。
良い人物評価を書いてやるから、その代わりに…と、暗黙の取引があっても不思議ではないなぁ、と思うのです。
ま、ジーヴスには取引など必要ないんですけどね。
なんだかバーティがちょっとカワイソウに思えてきた(笑)
P.S. トラバ嬉しいですっ。