フェルメール展で召使い絵画ポストカードをゲットしました―その1



 「召使い絵画」とは何ぞや?

召使い絵画とは、画面に登場する召使いが、

「主題として描かれている」

もしくは、

「主題ではないが、画面の中央あたりの位置にいて、目立っている」

もしくは、

「主題じゃないけど、画面のはしっこだけど、ポイントついてて良い脇役」

以上のいづれかの条件を備えた絵画のことである。

…とたった今わたくしが、わたくし独自で決めた、主観バリバリだぜイェーのカテゴリーです。

まえから「召使い絵画」を集めたいなぁと思っていました。
(もちろんポスターとかポストカードです。庶民)

召使い絵画を西洋絵画の画集などで探していて、よく目にしたのが17世紀のオランダ絵画でした。中流以上の家庭を描いた室内画だと、召使いの登場する確率がけっこう、高い。

で、昨年ちょうど「フェルメール展 光の天才画家とデフルトの巨匠たち」が東京都美術館で催されていましたので「こりゃきっといい召使い絵画が見つかるに違いない」と出掛けて行ったのでした。

実物の絵を観られた上に、お土産にポストカードまで買えて、いやぁ幸せこの上ない。

今回はその手に入れた召使い絵画のご紹介をいたします。

ちなみに、わたくし、絵画はまったくの門外漢です。

では、最初の一枚、どうぞ。

 召使いの意味深な視線―≪手紙を書く婦人と召使い≫



ヨハネス・フェルメール
≪手紙を書く婦人と召使い≫
1670年頃

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画面中央、窓の外を眺めているのが、召使いです。
机で手紙を書いているのが、彼女の女主人。

「フェルメール展」のチラシに大きく載っていた絵ですね。
わたしに「観に行こ」という気持ちにさせた、召使いの絵です。

だって、よぅく観てくださいよ~えェ、旦那ぁ。
この召使い、笑ってやしませんかねぇ? そう、笑ってやン。

小利口で、歳のわりに世馴れてそうで、
「何もかも知ってんのよ。ハッ」ってな気持ちを忍ばせてるような。
こいつぁ、タダ者じゃあアリマセンぜ…。


しっかと組んだ両腕とは対照的に、くちびるはゆるく開かれ、白い前歯がちらりと覗いている。
いったいこの召使いの笑みは、何を意味しているのか?

ポストカードといっしょに購入した、分厚い展覧会カタログを開いて、絵の解説を読んでみる。

………「召使いの笑み」には、一言も触れていない。

おっかしいなぁ。あっしには、笑っているように見えるんですがねぇ。

その代り、といっては何ですが、カタログにはさまざまな「絵の謎解き」が解説されていて、とっても面白い。
たくさんの研究者が、いろんな解釈を説いているので、それらの中でわたしが気に入ったのをいくつか引用します。

まず、右下隅の床に打ち捨ててあるものが、三つ。
棒状の封蝋。
明るい赤の封印。

そして「紙の束のようなもの」
これは何か?

ふたつの解釈がありまして、ひとつは、
「カヴァーのくしゃくしゃになった手紙」
または、
「(手紙の文章例が掲載されている)小型の手紙マニュアル本)」
「くしゃくしゃになった手紙」という解釈には、それが女性が受け取った手紙か、あるいは彼女がいま夢中になってペンを走らせている手紙の最初の草稿だという含みがある。

(「フェルメール展 光の天才画家とデフルトの巨匠たち」カタログより引用。以下、引用文はすべて同カタログより引用)
ほうほう。
嫌な知らせを受け取ったか、もしくは手紙の書きなおしで、くしゃくしゃポイ、なワケですな。

では「小型の手紙マニュアル本」が床に落ちている意味は?
この場合には、女性は、いま書いている手紙の手本を見つけられず、自分の言葉で、自分の感情の赴くままに書くことを選んだことになろう(さまざまな程度の上品さと熱意を込めた恋文の手本が掲載されていたものの、手紙のマニュアル文はしだいに恋文の理想的な形あるいはスタイルと見なされなくなっていった。書く人にも、受け手にとっても、恋文は稀にみる個人的なものと考えられたのだ)
ああ、いいですね。
女主人が「ああでもない、こうでもない」と、いまの情熱にぴったりくる言葉を探しながらペンを走らせる。(恋文の相手は旦那さんじゃあ、ないんだろうなー)
「くしゃくしゃになった手紙」あるいは「手紙のマニュアル本」は、はやる気持ちが抑えきれず、我知らず床に打ち捨ててしまった、と。

その恋文を届けるのはもちろん、背後に立って待っている、召使い。
ならば、よけいに「召使いの笑み」が気になるんだけど…。
同じく注意を払っておくべきは、テーブルのこちら側の空いた椅子がいましがたまで誰かがそこに座っていたことを暗示する点だろう(背もたれの後ろ側に布を張ってない)この種の椅子は、この時代には、部屋のどこかに好きに置いていたわけではなく、使用しないときは壁際に寄せておくものだったからだ。

いかにも気の利きそうな召使いだがら、小物類が床に投げ捨てられていたのでなかったら、椅子が使われたばかりでなかったら、さっさと片付けていたことだろう。かくして想定された鑑賞者はこのちょっとした私的なドラマの共犯者となる。まさしく書簡文学の核となる考え方である。

(※注 太字および改行はブログ筆者による)
おおっ、さらに場面に動きが出てきたぞ。

書簡小説といったら、スティーブンソンの『パミラ』ですね。

『パミラ』の読者は、主人公パミラが両親に書き綴る手紙を読みながら、
「のぞき見しているような」興奮と、
「出来事のすべてを知っている」共犯者的なスリルを味わいます。

それと同じからくりを、このフェルメールの絵では、画面中央に立つ召使いが担っているんですね。

もしもこの召使いが、ボケ~っとした感じの、気の利かぬ仕事のできなさそーな人物として描かれていたら、床に小物類が打ち捨てられていても、鑑賞者は「だらしないなぁ、もう」という感想だけで終わったかもしれない。これではドラマは始まらない。

となると、やっぱりあの「召使いの笑み」が気になるなぁ。


さきほどまで恋人が座っていた椅子。まだ、微かに、温かい。
(伝えなければ。間に合うだろうか?)
女はひとりの召使いを呼び、いますぐ手紙を書くから、と背後で待たせる。
手紙を覗かれてもかまわない。なにを今さら。
この者には何度も秘かに、あの方との橋渡しを頼んでいるのだ。
そう、すべてを知っているのだ。

そう、わたしはすべてを知っている。
さきほどの二人の口論もドアの向こうで聞いていた。
今さら手紙を覗かなくても、内容は想像できる。間違いなく、かんたんに。
わたしは窓の外を見つめながら、ついさっき裏庭の門に消えていった例の「あの方」の、黒いコートの後姿を思い浮かべ、まぼろしの背中を追跡する。
ペンの音が、止まってはすべり、すべっては、また止まる。
(間に合う、か。合わぬ、か。さて―)
女主人に気づかれぬよう、声を押し殺して、ふ、と笑った。


…え~、とまあ、絵を前にして妄想は膨らんでいくのであります。
好き勝手に。ポンポンと。

フェルメールにはもうひとつ、手紙を媒介とした召使いと女主人の絵があるんですが、こっちのドラマは分かりやすい(?)です。
(この絵は、展覧会には出品されてませんでした)


≪婦人と召使い(女と召使い)≫
1666-68年頃

「差し出がましいようですがねぇ、奥さま。あのオトコにゃ気をつけたほうがいいですよ。評判ですよぅ、女たらしって」

「…お前も、そう思うかえ?」


思わずキャプションつけてしまった。
当たっているかどうかは、分かりません(笑)


(予想のほか、紹介が長くなってしまったので、ここでいったん切ります。
あとの三枚の絵は、次回に続きます)

※※≪手紙を書く婦人と召使い≫および≪婦人と召使い(女と召使い)≫の絵は、
Salvastyle.comから拝借しました。ありがとうございます。

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