バトラーみたいな猫 ― 大島弓子さんのサバ。 (その2)

前回のつづきです。

さて、映画「グーグーだって猫である」を観に行きました。

翌日、職場の映画好きの子から「どうでした?」と訊かれて答えたのは「映画館を出てすぐ、大島弓子作品をまた買い直そうと本屋をまわった」

また買い直そう、というのは、ン十年前に「大島弓子全集」を持っていて、愛読していたんですねワタシ。ところが長年の間に「この作品いいよ~、あ、こっちもいいよ~」といろんな人に薦めているうちにすっかり散逸してしまったんですね。(わたしは自分の持っている本を人に薦める時、貸すのではなくあげて、もう一度自分用に買い直す癖があります)


初めて大島弓子作品を読んだのは雑誌「ぶ~け」に掲載されていた「ダリアの帯」でした。当時わたしは小学生。
母に連れられておばあちゃん家まで電車に乗って行く途中だった。
母が言った。
「降りる駅まで遠いから、好きな漫画雑誌をキオスクで買ってきてもいいよ(車内で騒がぬようにと先手打ち)」
そして選んだのが、広辞苑くらい厚みのある「ぶ~け」だった。

その後の記憶は切れ切れだ。
「ダリアの帯」を読んでいる途中で駅に着いたのと、
おばあちゃん家の縁側に腰かけて、日光の下でつづきを読んだこと。
他に何をしたかは覚えていない。

ただ、最後のページをめくった時に、ため息をついたのは覚えている。
ふかく、ふかく、ふぅぅー…、と。

漫画に対して、読み終えて「ため息をつく」なんて反応したのは、あれが初めてだったように思う。あと、一日と置かずにまた読み返したのも。

うーむ。まわりの友人もそうだが、なぜ大島弓子作品を語るとき、自分の当時の思い出と重ねて語ってしまうのでしょーか。

話を元に戻しましょう。
吉祥寺バウスシアターを出てすぐに、私は大島弓子作品を探すべく商店街サンロードや駅ビル(ロンロン)の本屋さんをまわりました。
映画の舞台が吉祥寺界隈なので、さすがにどの本屋さんも力をいれて原作やその関連本は平積みになってた。が、むかし自分が持っていた大判の全集は見つからない。(当り前か。でも大島作品は大判でこそ読みたいんだけどな~)

ま、仕方がない。古本屋をまわってポチポチ集めていこう。
しかしこのまま手ぶらで帰るのも淋しい。文庫でいいからとりあえず大島作品を買って帰ろう。

そして買ったのが「サバの秋の夜長」でした。
ああ、やっとサバの話まできた。



サバというのは、大島弓子さんの飼い猫の名前です。
大島弓子さんは愛猫サバとの日々の暮らしを、多く作品に綴っています。

このサバのシリーズがわたしは大好きで、かつて持っていた全集でも何度も繰り返し読んでいました。

で、今回懐かしく思い出しながら読み返していると、
「あ」
思わず声を上げてしまった場面があった。

サバは主人である大島さんを、朝、時間通りに起こす特技(!)を持っています。
具体的にどうやって主人を起こすかは、ぜひ本作品を読んでほしい。
そのサバの、お目覚めの行為をする時の様子を描写した、大島さんのセリフ。
「それはそれは まじめなかおで じっ と おきるのをまっている」
「その バトラーみたいな まじめくさった顔 羽のようなやさしいノック」

(「月の大通り」より引用)
え、バトラー? そんなセリフあったっけ?

いまの自分だったら見逃すはずもない単語。

でもこれを読んでいたン十年前は…バトラーという言葉さえ知らなかったかもしれない。いや、知ってても通り過ぎていた単語だろう。

そう思った瞬間、大好きな作品が、長い年月をかけて、わたしのアンテナにひっかかる言葉をひっさげて、新たに、目の前に現れたような気がしたのだ。
勝手な思いだが、向こうから会いにきてくれたような。

好きな作品が、さらに愛おしくなる。そのきっかけがまた「バトラー」だとは。
嬉しくもあり、不思議な気持ちなった。

「月の大通り」は次のようなセリフで締めくくられている。
今日もまた いろんなことが あるだろう
ひどい気分のときは いそいで帰ってきて サバの顔を 下から見よう

すると サバは にっこりしてる
ふとんにもぐって うつ病ってたら バトラーみたいに 起こしてもらおう

そうすれば わたしはすぐ 元気になる

クレイジーになる
愉快になる

わたしの永遠ではない
限りある日の クレイジー・ラブストーリー

またあした
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