じつは、11月13日、母が亡くなりました。
今、こうしてあらためて「母について」をお知らせすることが良いのか悪いのか?
「何のために、人の死の報告をするの?」と理解に苦しまれる方もいらっしゃるかもしれません。人の死について、深く知ることは決して心地よいこととは言えず、不愉快にさせてしまうかもしれません。そんな時には、どうぞこの回はスルーしてください。
ただ、私の目指す「まどか先生」とは、幼児教室マナーズで、受験のお手伝いをする存在としてだけではなく、少なからず縁のあった方々と「時間や空間、思いを共有」し、「私を通して感じたり、考えたりすることのできる存在」でありたい、と考えています。こういう思いが、クラスの後の講評の時間やメールや、この「クラブマナーズ・ニュース」というブログで、私の身のまわりで起こる様々なことを開示し、お伝えする所以です。
母は今年の3月の下旬、緊急事態宣言が東京や大阪に発令される2週間前、滑り込むように、父が晩年を過ごした介護施設に入居しました。母のたっての希望でした。
実家はそのままにつつ、生活の拠点を介護施設に移す、という形をとるため、私は半月をかけて、せっせと家具やカーテンを選び、介護施設の母の部屋を「母好みの部屋」にするために大阪に通いました。
父が亡くなって4年になりますが、介護施設には父が存命当時より勤務をされていたスタッフも多く、母はとてもとても大切にしていただきました。
私は毎日、朝と夜に母とメールをしていたのですが、介護施設への入居後、母のメールには毎回のように、「私は幸せ。みんな、本当によくしてくださる。」「三度三度、上げ膳据え膳で、何でも美味しい。」「もうあなたは何も心配しなくて良いですよ!」「私は楽しく暮らしています!」を繰り返し書いてきていました。メールでの「コピー・ペースト」というようなワザは出来ない母ですから、メールに書かれた言葉は、まさに母の心からの言葉だと感じ、私も大変うれしく思いました。
緊急事態宣言が解除となり、やっと私が帰省をしたのが6月。引っ越しの後は、4月13日、母の89歳のお誕生日に合わせて次の帰省を予定していたものの、それも叶わず。でも、約3ケ月ぶりに会う母は大変元気そうで、「私は革靴派だから、スニーカーはちょっとね…」と、ずっと履くことを拒否していたスニーカーも履き始め、施設の長い廊下を散歩するのを日課にしているとか、今まで通りNHKのテレビ体操は欠かさない、とか、自慢げに話してくれていました。
ただ、翌月7月に帰省をした時には「東京も大阪もコロナが大変だから、8月に帰ってくるのは控えなさい。願書の添削も始まるような時期に、あなたに何かあったら大変。9月10月にあなたの体調が優れないなんてことになったら、私は年長さんのご家庭にお詫びのしようがない。」と強く私の帰省を拒みました。それでも何となく落ち着かず、心配な私が密かにお盆に帰省を予定し、施設の方にその旨伝えていると、母は口を滑らせてしまったスタッフから私の「秘密の予定」を聞き「8月は来たらダメ!ダメっていったらダメよ!」と、電話をしてきて念を押す始末。そんな微笑ましい経緯があり、私は帰省を9月に変更し、いつものメールと電話で会話を楽しんでいました。
ところが、8月の下旬になった頃、ケアマネージャーさんからお電話があり、信じがたい話を聞かされたのです。
「ここ数日、お母様は今まで普通に出来ていた行動が出来なくなったり、頭が混乱して、上手く考えられない、とおっしゃるようになっています。急遽、MRIの手配をしたので、その結果が出たら聞きにいらしてください。」と。青天の霹靂、でした。
母が出来ないと言っている行為は、決して難しいことではなく、極々日常の「手を洗う」などの行為でした。
まだ8月とは言え、慌てて帰省をし、ドクターとお話をしたところ、脳の広範囲で血流の滞りが見られる、とのことでした。
それからの約2ケ月は、まさに「キツネにつままれたような」状況でした。最初に表れたのは、自分では思うようにスムーズに歩いたり、動いたりできなくなった、こと。そして、非常にしっかりと話している時と、ぼんやりしている時との差が大きくなり、気分に斑が出てきたこと、でした。
あらためて書きますが、3月に入居した母は、杖も使わず普通に歩き、タワーマンションのカードキーや少々ややこしいエントランスやエレベーターを使いこなす「かなり若く見えるおばあさん」でした。何も患ってはおらず、入居のための介護保険申請では、介護資格となる「要支援」や「要介護」をもらうのも難しいのではないか、と言われるほどのピンシャンした人でした。
母の変化は、入居から「わずか5ケ月」のこと。私には、何が起こっているのか?何がどうなっているのか?飲み込めませんでした。
父と母は、私が小学校2年生の頃に、起業。裸一貫からのスタートで、それ以来、母は約50年間、84歳まで仕事を続けました。当然、最後の10年間は、会社を継いでくれた従弟の温情あってのことではありますが、私の記憶の中の母は、祖母や叔父や叔母達と一緒の大家族の主婦として、いつもいつも独楽ねずみのように家事をこなしていた母。そして、何よりも私が輝いていると感じ、誇りに思っていた母は、父と共に興した会社で仕事をしている母、でした。
そんな母は、父がなくなり、父の介護をも含めたすべてのことからやっと解放され、悠々自適になった時、私が想像したような、ハッピーな様子には見えませんでした。ある意味、生き甲斐を無くし、抜け殻のようでもあった?!私は、密かにそう感じ、不安でした。
そんな母の空虚感を埋めるべく、昨年までの私は、たくさんの旅行を企画しました。
昔家族3人でテント生活をした「剣沢の星がきれいだった!」と懐かしく話すのを聞くと、マウナケアでの星空観察を。
お父さんが元気なうちに、古代都市や遺跡巡りは出来なかった、と残念がっていると、イタリアの古都歩き、アテネの遺跡巡り、エーゲ海の島散策を。
長い飛行機は疲れるようになってきた、と聞けば、香港でのグルメ三昧、昔家族で行った賢島のホテルでのゆったり時間…と、次から次へと計画を経てて、実行。
でもね、介護施設で母は、各旅行の私の手作りアルバムをスタッフに見せながら、「どの旅行もとっても楽しかったんやけどね、まあ、よー歩いて歩いて、とにかくどんどん歩いて… 大変やったんよー。ちょっと足が疲れたなあ、なんて夜に言おうもんなら、娘がパッと湿布薬を出してくれるんよ。ほんなら、やっぱり明日もがんばらんとなあ、となるわけよ、はっはっは!」と大笑いしながら語っていたのだそうです。
私がその話を聞いたのは、お葬式を終えて、母の介護施設の部屋を片付けに行った時でした。主がいなくなった、ガランとした部屋で、私は泣けてきました。「お母さん、ホンマはしんどかったんやねえ、ちっとも気づいていなくって… 本当にごめんねえ…」
人はみな、毎月帰省をし、母のために旅行を計画し、手の込んだアルバムを作る私のことを「親孝行な娘」とほめてくれました。いえいえ、と言いながらも、やっぱり私は悪い気はしませんでしたもの。
でも、実際には、母こそが私にとっての「娘孝行の母」だったのです。私のために必死に、80歳をゆうに越えた老体に鞭を打ち、娘の期待に応えてくれる!文句を言わずに黙々をダイヤモンドヘッドに登っていく母の後ろ姿を思い浮かべました。母は86歳でした。言葉を失いました…
9月も半ばになると、急激に母の食欲は落ちていきました。それでも、10月、私が頻繁に帰省をする度に、大好きだったステーキやとんかつ、天ぷらの話を頻繁にして、コロナ騒ぎが終わったら、全部また食べに行こう!と話しました。
11月の第1週に帰省をした時、ダメもと、と思って母の介護施設の部屋で薄切りのステーキを焼いたのです。すると、母はそれを二口、美味しそうに食べてくれて「やっぱりお肉は美味しいねえ。阪急で買ったん?高島屋?これは神戸牛?松阪牛?」とよく話し、「まだあるんでしょう?残りはあなたのお愉しみやよ!」と冗談まで言って、満足な様子でした。食事の途中で入ってこられたスタッフに「イイ匂いに釣られたでしょう?娘にお肉を焼いてもらったんよ。美味しかったわー!気の毒なみなさんは、匂いだけやわ。」と満面の笑顔。その食事が、母の食べた固形物の最後の食事となりました。以降はジェル状の高カロリー食品での栄養摂取のみ、となり、その翌日からは発熱もみられるようになりました。介護施設では、普通、この状況になると点滴をして、栄養を強制的に採っていただくようにするのですが、とのご提案でしたが、母は『延命にあたるような医療行為はすべて拒否をします』という強い意思を、健康な時に私に伝えていたので、抗生剤は服用のみ。そのうちに、水分を採ることも難しくなっていきました。
父の主治医でもあった訪問介護のドクターのお話では、母の場合は、非常にゆっくりと進行する脳梗塞的な兆候があったところに、コロナ禍にあって外出が制限され、運動機能が著しく低下していくことにより、脳の活性化が停滞してしまったこと。良くも悪くも緊張感のある一人暮らしの生活が、介護施設入居により、大きな安心感のもと、依存、依頼ができる暮らしとなり、深く思考をする機会が減少したこと。これらが複合的に急速な心身の衰えとなっていったのだろう、との所見でした。
もし、コロナの蔓延が無ければ… 母はお気に入りとなったスニーカーを履いて、介護施設の目の前の公園を散歩したでしょう。それをとても楽しみにしていましたから。タクシーを呼んでもらって長年行きつけの美容院に行っていたでしょうし、ご自慢のネイルも欠かさなかったでしょうね… 私は今まで通り毎月帰省をし、私の帰省中、母は梅田の家に戻り、一緒に出かけ、外食をする… そういう「当たり前」と思っていた暮らしが続いていたのだろうな、と思うとやっぱり残念です。
母は、あっという間に、呆気なく、逝ってしまいました。しかし、父のように長患いすることもなく、ずっと「ここで暮らせて良かった!毎日、本当に幸せ!」と、言い続けた8カ月間。
コロナ禍にあっても、何も暮らしの心配をする必要なく、安心して毎日を送れたこと。介護施設の方々にも愛されて、本当によくしていただき、毎日、いつもの笑顔で、人生の最後の時期を過ごせたことに、私は感謝の思いでいっぱいです。
人が亡くなる、ということは、本人もまわりも、大変エネルギーの必要なこと、です。当然と言えば当然、ですね。人が生まれて、数十年間、様々な出来事を経験し、まわりの人々に影響を与え続けた… その人の時間が終わる、止まる、ということですから。
母は、午前3時30分に息を引き取り、私はその母が逝く様を看取りました。冷静に、非常に冷静に、母に声をかけ、その過程を見守りました。病院での臨終とは違い、何の機械音もないその時間です。その夜、聞こえていたのは、母の呼吸音だけでした。
その前夜、亡くなる夜と、ほぼ同じような状況にあって、主人は私に「一緒に梅田の家に戻ろう。お母さんには付き添わずに…」と勧めてくれました。その時、主人はこのように話してくれました。
「人には尊厳がある。高齢になると、多少、幼児返り的なところがあって、自分ではもう身体も自由に動きが取れなくなった時にこそ、その尊厳は守られないといけない、と思う。親だからこそ、我が子に見せたくない、ってこと、あるんじゃないかな。諸々、大変なことをお任せするために介護施設のようなプロ集団の施設があって、そこにお願いをしてるわけでしょう。君が娘としての使命感で、暗い部屋の中、お母さんの側にいて、辛く、悲しい思いをしなくてもいいんじゃないかな?」と。
主人はまさに1年前、同じ介護施設の一室で、私と同じように主人の母に付き添い、義母を看取りました。その時の義母の様子について、後々、しっかりと聞きましたが「その時、主人は何を感じたのか?」に関しては、聞くことはありませんでした。
けれど、主人のこの重い言葉で、1年前、主人が義母を看取った夜、同じ介護施設の一室で、どんなことを思い、感じ、義母との時間を過ごしたのか?何を感じていたのか?それがひしひしと伝わりました。
そして、私は母が亡くなる前日の夜は、主人の勧めてくれる通り、主人と娘と一緒に、3人で実家に戻りました。
その翌日の夜は、私は母に付き添いました。責任感や使命感からではなく。そして、母を看取りました。
長い私の駄文にお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
「クラブマナーズ・ニュース」にアップする話題ではなかったかもしれません。でも、毎回、このブログを読んでくださっている私にとって大切な方々には、どうしてもきちんとお伝えしたい、と考え、敢えてアップします。
次回は、ハッピーな内容にすることをお約束します