和邇下神社(上治道宮)カミハルミチノミヤ 天理市櫟本町2490 (七六九)東大寺領の櫟庄の水を引くため高瀬川の水路を今の参道に沿った線へ移し、道も新しく真直に作られたので、この森を治道の森といい、宮を治道社といった。上代の古墳の上に祀られた神社で、櫟本の地方にいた一族の氏神であったが、今は櫟本町の鎮守の神社である。 今の社殿は、三間社流れ造り、桧皮葺一間向拝付で桃山時代の様式を備え、古建築として重要文化財に指定されている 古代豪族・和爾氏の祖神を祀っている 族称ワニが鍛冶の職能にちなむ」名であることから、「二世紀後半ごろ、北部九州とは別のルートすなわち 裏日本から畿内中枢地域に進出してきた、太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団が、のちの和邇氏などではなかったと言われている 和邇氏は当時の技術者集団ともいえる。 朝鮮半島から先進技術を伝え、倭国の発展に貢献した 万葉集第一の歌人柿本人麻呂は和邇氏の支流 社殿は和爾下神社古墳と呼ばれる前方後円墳の後円部上に建っている
参道
神社への階段
拝殿
本殿
本殿
和爾下神社「下治道宮」シモハルミチノミヤ 大和郡山市横田町23 こじんまりした神社 この地に住んでいた横田物部氏の氏神だった 『延喜式』神名帳添上郡の「和爾下神杜二座」の一座にあたる当社より東2.5kmの天理市櫟本町に同名社があり、これを上治道宮(はるみち)と云うのに対して、当社を下治道宮と称する 当地は横田郷で、その郷社であった
拝殿
拝殿
摂社
摂社
和爾坐赤阪比古神社 奈良県天理市和爾町1194 和爾氏の氏神として成立し、式内社・和尓坐赤坂比古神社に比定されている古社。 神亀元年(724)以前から神戸が与えられたという添上郡屈指の大社であり、三代実録にも「従五位下和爾赤坂彦神」と記載され、延喜の制においても、大社に指定されている神社
拝殿
本殿
本殿
吉祥草寺----奈良県御所市茅原279 吉祥草寺は、役行者の開基と伝えられる寺院で、役行者誕生の霊地と伝説されている。「吉祥草寺」との寺名は、役行者が「吉祥草」という草を用いて庵を結び、仏神を祀ったことに由来すると伝わっています。境内には「産湯の井戸」といわれる古井戸がありますが、これについて「一童子現れ、自ら香精童子と称し、大峯の瀑水「香精水」を汲みて役行者を灌浴する。その水、地に滴りて、井戸となる」という言い伝えがある。また、行者堂(祖師堂)には、役行者32歳の自作像と役行者の母君である白専女像と阿弥陀如来が安置されています
本堂
観音堂
役行者--- 役行者は、続日本紀によると、姓が役公(えだちノきみ)で、名を小角(おづぬ)と云い、634年(舒明天皇6年)8月10日大和国葛木上郡茅原の里、奈良県御所市茅原の本山修験宗大本山・茅原山・金剛寿院「吉祥草寺」で生まれ、父は高鴨神に奉仕する高加茂朝臣(たかかもノあそん)で、 加茂役君(かもノえだちノきみ)、加茂間賀介麻(まかげまろ)と云い、又の名を大角(おおづぬ)。母は渡都岐比売(とときひめ)、又の名を白専女(しらとうめ)、刀自女(とらめ)と云って、第25代武烈天皇の御代(6世紀初期)大伴金村に攻め滅ぼされた大臣物部真鳥の娘
蔵王権現
不動明王
十一面千手観音
浮世絵ねこの世界展 国芳 広重 国貞 江戸・明治の浮世絵師たちが描く 大阪歴史博物館
以下図録より 歌川国芳
後ろ足をなめる猫 猫の毛づくろいをする娘
爪切り その後ろに二匹の子猫と親猫
あくびをする猫
猫と遊ぶ娘
雨こい小町 一匹は着物の裾にまとわる
おみくじを見る美人と眠る猫
懐に潜り込む猫
裾にじゃれつく猫
蝶を捕る猫
六孫王神社 京都市南区壬生川通八条角 清和源氏始祖の源経基を祭神とすることで知られる。多田神社(兵庫県川西市)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つとされる
鳥居 北
鳥居 南
二の鳥居
鯉魚塚
稲荷社
唐門
神龍池
社務所
睦弥稲荷神社
本殿
児水不動明王
神輿庫
神馬
地蔵尊
文子天満宮 下京区間之町通花屋町下ル天神町400
天神信仰発祥の神社 文子天満宮は、菅原の道真公を「天神」としてわが国で最初におまつりした神社であることから「天神信仰発祥の神社」と位置づけられる
拝殿
拝殿
相生の御神木
老松社・福部社・白太夫社
文子殿
花と蝶
若一神社 京都市下京区七条御所ノ内本町98 平清盛公御壮健の社
社頭
拝殿
手水舎
お供水
右・社務所
左・弁財天社右・寿命社
松尾社
祇王 歌碑 萌えいずるも 枯るるも同じ 野辺の草 何れか秋に あはではつべき
楠社