CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

三木市 伽耶院 臼稲荷社 on 2013-4-8

2014年05月18日 11時34分49秒 | 神戸市以外の兵庫県
2013年4月8日に伽耶院の臼稲荷社の写真を撮りましたので紹介します。






上の2枚の写真が臼稲荷社です。石臼がたくさん奉納されています。


上の写真は臼稲荷社の由緒などを説明した立札です。

田に水をためるための水の出口に古い石臼が使用されている
この地方にある干害の年、白衣の老人となった狐が村中の田の石臼をすべて取り除き
水を均等に配分した。これを恥じた村人は石臼をここに奉じたと伝えられる。


石臼と言えば神戸市兵庫区の烏原水源地にある石臼を思い出します。(下の写真)




小生のブログ記事
 烏原貯水池の概要と初代神戸市長鳴瀧幸恭の銘板で写真紹介。





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加古川評定が行われた加古川城跡の称名寺(しょうみょうじ)訪問記 on 2014-5-12

2014年05月17日 07時24分21秒 | 神戸市以外の兵庫県
2014年5月12日、加古川評定が行われた加古川城跡の称名寺(しょうみょうじ)を訪問した。
主に写真で紹介します。

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では2014年4月13日放送の第15回「播磨分断」の官兵衛紀行
で称名寺が紹介されています。
官兵衛紀行(http://www9.nhk.or.jp/taiga/kikou/kanbe/map01.html)

称名寺の基本情報
住所:加古川市加古川町本町313 TEL:079-422-2262
宗派:真言宗  御本尊:阿弥陀如来 山号:佛頂山
開山:聖徳太子(伝) 開山当初は西光寺と号す


加古川城初代城主の糟屋有教(?年生まれ~1268年4月14日(文永5年3月8日 (旧暦))没が
糟屋氏の菩提寺とした。

加古川観光協会のHPで動画の紹介も含めて詳しい解説あり(下記サイト)官兵衛と光ゆかりの地

  http://kanbee.kako-navi.jp/spots


上の写真は称名寺の正面玄関。


上の写真は山門。山門の前に加古川城の名残りの堀の遺物が残っていました。

加古川城についてWikipediaより引用させていただきます。
 概要
  加古川城は、糟屋有教によって築城され、播磨では白旗城についで古い城であった。当時の城は、石垣を高くして、中央に物見櫓を設けられていた。城壁には、矢、鉄砲の発射のための大小の孔が空けられていた。外部は、塹壕をめぐらして、逆茂木を設ける事により、敵が容易に接近出来ないようにした。1577年(天正5年)羽柴秀吉らによる毛利討伐の軍議がこの城で開かれた。その後、1615年7月10日(元和元年6月15日 (旧暦))に破却された[2]。現在、城跡は称名寺となっており、遺構は皆無と言って良い状況だが、付近には堀と思われる水路が存在するなど地形に微かに痕跡を留めている[3]。城のあった場所は、加古川町本町字城開地と表示されていた。

 沿革
  1184年(寿永3年)に平氏追討の戦功により糟屋有季が、源頼朝から播磨国印南郡南条郷を与えられた[4]。承久の乱(1221年6月、和暦:承久3年6月)後、糟屋有教がこの地に築城した。鎌倉時代には加古川城は播磨守護所で、守護代糟屋氏が在城した。

1577年(天正5年)羽柴秀吉が播磨に入り、毛利討伐の軍議がこの城で開かれた。この時の12代城主であった糟屋武則は秀吉につき従って小姓頭となり、賤ヶ岳の戦いで武功をあげ七本槍のひとりに数えられるなどの活躍を見せ、最終的には12,000石の大名に出世した。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に付いたため、領土を没収された。その後、糟屋氏は断絶し、1615年7月10日(元和元年6月15日 (旧暦))破却された。


 毛利討伐の軍議(加古川評定)
  織田信長が秀吉に中国毛利攻めを命じ出陣させた。秀吉はまず播磨国に下向し、別所氏らの協力を得て1ヶ月足らずで播磨の大半の豪族を掌握した。秀吉は、背後の脅威である但馬や毛利の勢力が浸透している福原城(佐用郡)、上月城(佐用郡)を武力平定し、戦果報告に帰国した。

改めて秀吉は播州入りすると加古川城に国内諸城主を集め軍議を行った(加古川評定)。三木城城主の別所長治の代理で出席したのは、毛利びいきで、名門意識の強い叔父の別所山城守吉親(賀相)、であった。賀相は、下層から立身した秀吉を見下すところがあり、評定で秀吉の問いに応じて別所氏の家系から代々の軍功を語る長談義に及び、秀吉の不興を買う事になった。賀相は憤懣を抱いたまま三木城へ帰ると、長治を説き伏せ、信長からの離反を決意させた。この決裂により、三木城、及び別所氏一族の諸城を秀吉が攻める事となる(野口城、神吉城、志方城、御着城など)。最後に、三木城を落城させた(三木合戦)。


 歴代城主
  初代 有教 - 1268年4月14日(文永5年3月8日 (旧暦))に没した。
2代 季方 - 生涯風月を楽しみ、数多くの和歌を残した。1298年9月21日(永仁6年8月15日 (旧暦))に没した。
3代 久祠 - 守護職赤松則村に属し、1334年4月24日(元弘3年3月10日 (旧暦))の瀬川合戦にて戦死した。
4代 保連 - 守護職赤松則祐に属して戦功多い。1381年10月(永徳元年10月)西宮で戦死した。
5代 保久 - 河内森口その他諸処の戦に功績があり、1392年5月6日(明徳3年3月20日 (旧暦))に没した。
6代 秀長 - 守護職赤松義則に属し、1400年(応永6年12月)堺ノ浦にて大内義弘との戦いで死去した。官位は、民部小輔。
7代 武貞 - 守護職赤松満祐に属し、1441年(嘉吉元年9月)満祐の子赤松教康を奉じて伊勢に赴き自害した。官位は、豊前守。
8代 有範 - 守護職赤松政村の重臣となった。1511年(永正8年8月)船岡山合戦にて戦死した。官位は、左近衛将監。
9代 武久 - 細川高国に属し、1527年(大永7年2月)桂川原の戦いにて戦功をたて、1539年(天文8年)三木の戦で戦死した。官位は、左衛門尉。
10代 朝貞 - 細川晴元の重臣となり、1576年(天正4年)没した。官位は、豊後守。
11代 朝正 - 別所長治に属し、1579年3月3日(天正7年2月6日 (旧暦))三木平山役に戦死した。子朝員は隠居した。官位は、玄蕃助。
12代 武則 - 豊臣秀吉に属し、戦功多く活躍した。晩年については諸説あり[6]。



上の写真は加古川市が最近(2013年?)作製した説明板です。
スタンプラリーの問題も入っています。
説明書きには称名寺の説明に加え天正5年(1577)加古川城での加古川評定の話(注1)
また、糟屋(内善正)武則(12代加古川城主)が、黒田官兵衛の推挙により豊臣秀吉に仕え、三木合戦では
箕谷ノ上付城(三谷ノ上付城)に布陣して活躍した話
さらに後述する七騎供養塔の、寺のシンボル 銀杏の木の話などが書かれています。

(注1) 信長軍と毛利軍が戦うきっかけとなった会議 


称名寺の文化財(石棺など)の説明板です。


上の写真は「わがまち加古川60選No.6」の説明書きです。



上の写真は山門前左手の石碑。


上の写真は本堂です。本尊の阿弥陀如来が安置されています。


上の写真は本堂右手の毘沙門堂。


上の写真は不動堂。不動明王が祀られ護摩法要が行われます。



上の2枚写真は不動堂前と大師堂前の宝篋印塔と大師像。


上の写真は大師堂。


上の写真は庫裡。


上の写真は境内の銀杏(いちょう)の木で加古川本町のシンボルの木でもあったようです。



上の写真は七騎供養塔。南北朝時代、出雲守塩冶高貞が京都を追われ出雲への道中、加古川で
足利尊氏の追手に襲われた際、主君を守ろうとして奮死した塩冶高貞の弟塩治六郎重貞及び
従臣6名の計7名を供養するため地元の人々により文政3年(1820)に建てられたものです。
写真のように7名の名前が刻まれています。
後に塩冶高貞は、人形浄瑠璃等の代表的な演目「仮名手本忠臣蔵」に登場する塩冶判官の
モデルとして取り上げられ、忠義話として紹介されました。


七騎供養塔は八幡宮の前にあります。



上の動画は2014年4月17日に三木市法界寺で行われた三木合戦絵解きです。
加古川評定の様子がよく判ります。

称名寺についてWikipediaより解説を引用紹介します。

称名寺は、聖徳太子により開山されたと伝えられる。開山当初は西光寺と号した。鎌倉時代、雁南庄(今の印南郡の一部)領主であった糟屋有教が、加古川城を築いた時期から糟屋氏の菩提寺とした。1358年9月(延文3年8月)に大洪水により七堂伽藍がすべて流失したが、1363年5月頃(貞治2年4月)有教の曾孫である保連が再建した。その後、戦乱の火災に遭ったが、武則が客堂を寄進した。1603年4月14日(慶長8年3月3日)、高野山遍照院の寛海上人が勝名院に改名したが、後の時代に称名寺と再度改名された。1606年10月28日(慶長11年9月27日)、池田輝政、奉行中村主殿介により、上田三段の寄付を受けた。1619年11月27日(元和5年10月22日)板倉勝重は、寺領6石を寄付した。その後、再度火災に遭ったが、1691年(元禄4年)に現在の伽藍が再建された。



  
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八かく庵 ミント神戸店 でのランチ on 2014-5-9

2014年05月16日 05時19分26秒 | 神戸情報
2014年5月9日(金)、兵庫県立美術館での銅版画(エッチング)の教室の帰り奥様と三宮で待ち合わせ
とうふ百珍で有名な八かく庵 ミント神戸店でランチをいただきましたので写真紹介します。

久しぶりの訪問です。


八かく庵 ミント神戸店の基本情報
住所:神戸市中央区雲井通7-1-1 ミント神戸8F
TEL:078-231-3510
料理ジャンル:とうふ料理


公式HP



まず、そば茶と供物がでてきます。


出来立てのおぼろ豆腐。おかわり自由です。


上の写真は奥様が注文したのは九菜の彩りランチ 1,674円です。


上の写真は私が注文した親子鍋膳 1,566円です。


上の写真は 八かく庵 ミント神戸店の外観です。

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内田栄行氏の彫刻作品 「交」 in JR加古川駅交番前 on 2014-5-12

2014年05月14日 08時06分17秒 | 神戸市以外の兵庫県
2014年5月12日にJR加古川駅交番前の彫刻作品 「交」の写真を紹介します。






上の2枚の写真はJR加古川駅交番前の彫刻作品 「交」の近景と遠景です。

作者:行動美術協会 内田栄信 埼玉県志木市在住  山本隣江(りんこう)氏=加古川市在住が書の部分担当

加古川中央ロータリークラブ創立20周年記念を記念して建立
平成5年(1993)11月20日

内田栄信氏の作品を紹介したサイトへリンク
  
  http://kodo-art.jp/chokoku/03-u/001/0.html

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永昌禅寺(永昌寺)の石棺仏 on 2014-5-12

2014年05月13日 06時02分27秒 | 神戸市以外の兵庫県
2014年5月12日、永昌禅寺(永昌寺)の石棺仏の写真を撮ってきましたので紹介します。





上の写真が永昌禅寺の石棺仏です。もとは完全な石棺の蓋であったが浸蝕により現在の状況(上のほうだけ)
になっています。


昭和60年(1985)2月に加古川市教育委員会が作成した説明板がありましたので
そのまま引用させていただきます。かすれて読めない部分あり間違った部分もある?

石棺仏
 この石棺仏は凝灰岩(竜山石)製の家型石棺の蓋に阿弥陀三尊像を彫ったものである。
 向かって左の縁に康永二年(1343)南北朝時代前期の銘があるが相応に原形が潰れ
 読めない。なおこの石仏は県道ばたに面していたが道路の拡張に合わせ今の
 位置に移されました。  昭和60年2月 加古川市教育委員会」


中村和男著 「播磨の石棺と石棺仏」Page16他から補充説明をします。
別名:寺本の地蔵 阿弥陀如来の蓮華座は大ぶり
下方両端に脇侍2体の立像が刻まれていた。
長さ:164cm 幅:94cm 厚さ:28cm 出典は小野市好古館発行の「播磨の石棺仏」



永昌禅寺(永昌寺)の基本情報

住所: 兵庫県加古川市神野町西条828-1  TEL:079-438-5354
宗派:臨済宗 妙心寺派 山号:金城山
創建:永正年間(1504-1520) 御本尊:薬師如来



Google地図はこちら 


上の写真は 永昌禅寺(永昌寺)の本堂です。

毎年11月の紅葉の季節には本堂が開放されるそうです。
約25年前に植えられたドウダンツツジ約500本の紅葉が素晴らしいようです。
この季節に再訪したいなと思っています。


上の写真は本堂の金城山と書かれた扁額や蟇股などの装飾品です。


上の写真は本堂に隣接している庫狸。


上の写真は本堂の右手の地蔵堂の地蔵尊。


上の写真は水子観音。

参照サイト
 加古川市の石棺仏と石造物~(7)東部 (神野町・西条山手・八幡町)-2


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三木 上の丸公園(三木城跡) 四百年祭記念之碑 

2014年05月12日 04時58分08秒 | 神戸市以外の兵庫県
三木市上の丸公園(三木城跡)の四百年祭記念之碑の写真を撮りましたので紹介します。
撮影:2014-4-6



上の写真が四百年祭記念之碑です。

下記のように書かれています。



四百年祭記念之碑
村上天皇を祖とし東播八郡を領した三木城主別所長治公が、織田信長の命により中国進攻に当たった
羽柴秀吉の大軍を迎えた1年10カ月の長きにわたり三木城に拠り応戦。
将兵とともに果敢に戦ったが、天正8年1月17日ついに諸人の生命に代わって、一族とともに自刃し
三木城を開城、再びこの地に平和をもたらしたのである。時に長治公は若干23歳であった。
想うに、当時の中央勢力に対し、敢然と戦い播州武士の面目を示した勇武と、これを最後まで支援
した一族家臣の忠誠心は、他に類を見ないところである。
ここに別所長治公四百年祭にあたり、思いも新たにしてその遺徳を顕彰し、併せて三木合戦において
散華した彼我物故者諸霊位の御冥福を祈って建碑の辞とする。


  昭和56年5月3日
 別所長治公四百年祭実行委員会
 名誉会長・三木市長 大原義治   会長 鈴木信次」


撰文は 進藤白楊氏

裏面には別所長治公四百年祭実行委員会のメンバーの氏名さらにこの事業に援助された方(104名)の氏名が刻まれた。


別所長治公没後400年にあたる昭和56年(1981)の3年前の昭和53年(1978)別所長治公四百年祭実行委員会が組織
され城壁建設、記念誌発行、記念行事(時代懐古行列、稚児行列、献茶献花、別所公遺品展、奉賛文化まつり、
テレビ放映、奉賛スポーツ大会など)が行われました。


上の丸公園の説明板から三木城想像図を添付しておきます。









上の3枚の写真上の丸公園からの三木市街地の眺望です。


上の写真は四百年祭記念之碑のある位置の遠景(写真の中央付近に四百年祭記念之碑があります)



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神戸市垂水区 多聞寺の杜若(かきつばた)今が見ごろ

2014年05月10日 18時15分45秒 | 神戸情報



動画は2014年5月7日撮影の杜若(かきつばた)です。

今が見ごろだと思います。

多聞寺の基本情報
住所:神戸市垂水区多聞台2 TEL:078-782-4445 
山号:吉祥山 宗派:天台宗
多聞寺は空海の弟子・慈覚大師が開基した古刹で開基年は平安時代のはじめ
貞観5年(863)と伝えられています。
寺の説明書きでは貞観2年(860)に開創と書かれています。
下の写真本堂で正徳2年(1712)の再建と伝えられています。
最盛期には本堂、坊頭が23坊もあったそうです。
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別所公春まつり on 2014-5-5

2014年05月08日 05時46分36秒 | 神戸市以外の兵庫県
天正8年(1580)1月7日(新暦換算では1580年2月12日)、羽柴秀吉との戦いに敗れ、自らの生と
引き換えに城兵の命ごいをした、三木城主・別所長治の遺徳をたたえる「別所公春まつり」が
2014年5月5日、三木市の上の丸城址公園(三木城址)周辺で開かれた。
歌碑祭、寸劇、のろしリレー、スタンプラリーや武者行列など、別所長治にまつわる多彩な催しが各所で
繰り広げられ、23歳で散った名君をしのんだ。


写真と動画で紹介します。

10時から行われた歌碑際の祝詞奏上の様子を動画で紹介します。
 https://www.youtube.com/watch?v=FOS6IcPeyPY
「今はただ恨みもあらじ諸人の命にかわる我身と思えば」との辞世の句が刻まれた歌碑の前で実施。

11時からはのろしリレーがおこなわれました動画でその様子を紹介します。
 https://www.youtube.com/watch?v=Fq0sXhiHj_0

 https://www.youtube.com/watch?v=ic6YWSiEPbE







上の3枚の写真は11時半から行われたみき演劇セミナーの皆様による寸劇です。
     演目は 時節到来 ~長治が下した決断~



上の写真は武者行列の様子です。


武者行列の動画も紹介します。
  https://www.youtube.com/watch?v=fwkA9n1xKpA


上の写真はナメラ商店街で、三木高校の皆様による武陣太鼓の演技です。


武陣太鼓の動画も添付しておきます。
  https://www.youtube.com/watch?v=9jkpdoWlAgE


 三木市ではみっきぃ夏祭り、夏の義民際さらに秋には市制60周年の屋台大集合、秋祭りなど、はイベントが目白押しです。




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禅昌寺 on 2014-5-2

2014年05月04日 15時28分37秒 | 神戸情報
2014年5月2日に禅昌寺を訪問しましたので写真紹介します。

禅昌寺(ぜんしょうじ)の基本情報
住所:神戸市須磨区禅昌寺町2丁目5-1 TEL:078-732-2590
山号:神撫山(じんぶさん) 宗派:臨済宗南禅寺派(大応派)
通称:雀のお宿(スズメ寺)や紅葉寺として知られています。
本尊:十一面観音。
創建:延文年間(1356~1361年)月庵禅師宗光により創建
   後光厳天皇(1338-1374 在位=1352-1371)の勅願による


禅昌寺は下記の摂津国の五山十刹制度の諸山(五山・十刹に次ぐ「諸山」格の幕府公認禅宗寺院
宝満寺(開基法燈国師) 南禅寺派 (法燈派) 神戸市長田区
福海寺(開山在庵禅師) 南禅寺派 (宗覚派) 神戸市兵庫区
廣厳寺(開山明極禅師) 南禅寺派 (明極派) 神戸市中央区 
福厳寺(開山佛燈国師) 南禅寺派 (大覚派) 神戸市兵庫区



Google地図リンク 



上の写真は現在の庫裡(方丈)。

室町時代には幕府から寺領三十六石を寄進したと言われる。
天正8年(1580)の豊臣秀吉の三木城攻撃時に焼かれ、その後桃山御殿の豊国亭を移して
方丈としていた。しかしこれは明治12年(1879)に火災で焼失した。
現在の方丈建物は大正4年(1915)に再建されたものである。
江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられていた。


上の写真は歴代の住職のお墓です。


上の写真は禅昌寺の中興で大正時代に住職を務めた 嶋田菊僊(1872-1959)後に336世南禅寺管長のお墓。
嶋田菊僊(しまだきくせん)大禅師の号が雲龍であることから雲龍塔と書かれています。

嶋田菊僊(しまだきくせん)は禅昌寺の住職時代に村人が雀に田んぼを荒らされて困っているという話を聞き
禅昌寺に雀を呼び寄せれば雀も村人も安泰であろうと考え開山堂の軒下に瓢箪を吊るして「雀のお宿」と
しました。下の2枚の写真は開山堂の遠景と軒下の瓢箪です。






上の写真は鐘楼。鐘には前述の嶋田菊僊大禅師の名前「雲龍菊僊」の銘が刻まれています。



上の写真は禅昌寺の境内社です。


上の写真は左甚五郎の作と言われる山門。読みづらいが「神撫山」の扁額が掲げられています。



上の写真が伊藤博文詩碑です。

「聞通老僧移錫処延文遺跡
尚存留満山紅葉無人稀
風色蕭々古寺秋 」
と書かれています。


明治初年、伊藤博文が若くして初代兵庫県知事のころ、
秋の一日この禅昌寺に観楓に来たときの作です。

裏面には昭和26年3月 武貞一族大法要 と書かれています。

禅昌寺の床の間に同じく伊藤博文の詩(下記)が飾られています。
「清時不用問桃源携酒来尋紅葉邨
 漫擬当年狂杜牧青尊相対到黄昏」

境内には句碑がいくつかあり過去にブログ記事を書いていますのでリンクしておきます。

滝瓢水(たきひょうすい)(1684~1762)江戸時代中期の句碑 in 禅昌寺

瀬川露城の句碑 in 禅昌寺 on 2012-5-16

境内の墓所には地元の武井家、武貞家、秋宗家などの板宿の旧家の墓に混じって有名な地震学者の
関谷 清景(せきや きよかげ/せいけい、安政元年12月11日(1855年1月28日)- 明治29年(1896年)1月8日)
博士の墓もあります。下の写真



Wikipediaより関谷博士の略歴を引用紹介します。

関谷 清景は日本の機械学者、地震学者、火山学者。

明治時代に、地震観測網の必要性や震度階を提唱するなど、現代に通じる地震学の基礎を作り上げた。
日本初の地震学の教授。また、磐梯山噴火の際には、現地でアンケート調査を実施するなど、詳細の記録を収集した[1]。

1854年: 岐阜県大垣市に生まれる。
1876年: ロンドンに留学(機械学)。
1877年: 結核により帰国。
1878年: 東京大学理学部機械工学科助教になる。
1884年: 『地震報告心得』を取りまとめる。
1886年: 帝国大学理科大学地震学教授になる。
1888年: 磐梯山現地踏査。
1892年: 震災予防調査会創設。
1896年: 結核が悪化し死去。

明治28年(1895)結核療養のため禅昌寺に寄宿されていたようです。


関谷教授のあと、帝国大学の地震学教授の席は一時田中館愛橘が受持ち、ついで大森式地震計や大森公式で
名高い大森房吉が座ることになります。

地震学事始―開拓者・関谷清景の生涯 (1983年) (朝日選書〈237〉の中に禅昌寺で
次のようなエピソードが書かれています。

死の前年(1895年)の秋、療養の住居、須磨の禅昌寺の美しい楓を見物に来て酒宴をしていた人たちが、
枝を盛んに折るのを見かねて清景が制止した。
しかしその言葉を聞かないばかりか、車夫の数人が清景に悪言雑言を吐いた。
怒った清景は、この狼藉者を打ちのめしてやるから棒を持ってこい、と寺の小僧に命じたと言う。
歩行も不自由な体で、屈強な車夫を相手に立ち回りをしようとする、前後の見境もない行動にでようとするのは、
よほど激しい気性であったと推測されます。

















 
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板宿八幡神社春季例大祭(板宿八幡神社春祭り) on 2014-5-3 と板宿八幡神社

2014年05月04日 06時54分06秒 | 神戸情報
2014年5月3日、恒例の板宿八幡神社春季例大祭(板宿八幡神社春祭り)が開催されました。
初めて見させていただきました。当日の写真や動画を紹介します。

板宿八幡神社の写真も紹介します。



上の写真は春祭りの御案内(板宿八幡神社の境内に展示)


上の写真は上記の案内より神輿の巡業コースとお稚児行列のコースをピックアップしましや。


上の写真は板宿八幡神社春季例大祭のハイライトのイベントを紹介した看板(ダイエー 板宿店)



上の写真は猿田彦と三基神輿。

You Tubeへ投稿の動画もご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=3j7YLbBcdcw

https://www.youtube.com/watch?v=tSZSEvCrCO8




上の写真は滝川太鼓。

動画もご覧ください
https://www.youtube.com/watch?v=2MYsumwTsyA

板宿八幡神社春祭り on 2014-5-3 その4


上の写真は稚児行列。
稚児行列の動画をご覧ください。
板宿八幡神社春祭り on 2014-5-3 その10


次に板宿八幡神社の写真を紹介します。

板宿八幡神社の基本情報
住所:神戸市須磨区板宿町3-15-25  TEL:078-731-3161
御祭神:譽田別尊(もむだわけのみこと)=応神天皇、菅原道真公、
    大日霊女命=明治40年(1907)1月26日合祀
創設:永延元年(978)1月
例祭など:1月18日~20日 厄除大祭
       5月3日 例大祭・神幸式
       8月7日 夏祭
       9月15日 秋祭り



上の写真は板宿八幡神社の遠景。



上の写真は拝殿と本殿。


上の写真は拝殿に向かって右手にある飛松天神社

飛松と板宿八幡神社の由緒について少し記載しておきます。
大正時代に松は枯れ死。現在は飛び松天神社内に切り株が祀られています。
「大宰府の飛梅」 と並んで 「板宿の飛松」 として人々に慕われてきております。

板宿八幡神社は菅原道真公(845-903)が藤原時平の陰謀により大宰府に
流される途中(901年)にこの土地に宿泊された。
板宿という地名は菅原道真公が宿泊の折、村人が板で囲って簡単な宿泊所を設置した
ことから「いたやど」という地名になったという説もあるようです。
正式には板井戸村がなまって板宿になったと考えられています。

かっての道真公の人徳を慕い、永延1年(987)1月 武神八幡大神
(譽田別尊(もむだわけのみこと)ー応神天皇)と菅原道真公とを
鎮守神として創始されました。
明治40年(1907)1月26日現在の明神町に鎮座していた鳴滝明神を合祀して今日に
いたっています。

菅原道真公は京都で松、梅、桜を大切にされていましたが、梅は旅の途中香りを届け
松は左遷を悲しみ枯れてしまいました。しかし、「松は何と情け知らずの木なのだろうかと、
生めは飛び 桜は枯るる 世の中に 何とて松の つれなかるらむ」という歌を
読まれました。
すると一夜にして菅公の後を追って京都からこの地まで松が 飛 んできたと
伝えられています。
この松 に 「飛松」 の地名が由来するそうです。板宿八幡神社の西に続く丘陵を
飛び松が丘 または松岡と呼ばれ、勝福寺の背後の松岡城も上記の伝説に由来
してつけられた名前のようです。





上の写真は稲荷神社。扁額には元延稲荷、富成稲荷、船津加稲荷と書かれています。


コメント
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