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草野藤次先生の歌碑 in 敦盛塚 on 2014-3-8

2014年03月13日 06時15分22秒 | 神戸情報
2014年3月8日(土)、神戸市須磨区の敦盛塚の傍にある草野藤次先生の歌碑の
写真を撮ってきましたので紹介します。


上の写真が草野藤次先生の歌碑です。


歌碑には下記のように歌が刻まれています。

須磨のうら 波の音
あはれ吹きたへし
葉の笛の
昔おもへば 藤次


この歌は大阪朝日新聞懸賞で当選したもので、
歌碑に字は草野藤次先生の直筆だそうです。

草野藤次先生は神戸市中央区の開業医だったそうです。




敦盛塚には松瀬青々先生の歌碑もあります。(下の写真)



「雨中 敦盛そばへ去りし夜客や後の月」

昭和44年10月26日神戸漁火会により建立されました。
松瀬青々先生は関西の高浜虚子とも言われた有名な俳人である。
松瀬青々は大正11年8月から11月まで西須磨23の平井隼之助氏の西隣に仮寓されて
おりこの句はその時の作である。
尚、そばは塚として松瀬青々先生が主宰した倦鳥誌に掲載されている。
松瀬青々は本名を弥三郎、明治2年(1869)5月15日大阪船場の薪炭商加賀屋の長男
として生まれた。
北浜上等小学校を卒業後、丁稚奉公や呉服行商をしたが、そののち、第一銀行大阪支店
に入社した。第一銀行では荒木井蛙、渡邊葉齋らと俳句をつくる活動をしていた。
蓼生園中村良顯に和歌を学ぶ。
幼少のときから漢詩、詩歌を学び、俳句を新聞や「ホトトギス」なとに投句していた。
28歳の頃から俳句を学び「ホトトギス」に投句したのがきっかけで子規と会い、
勤めていた第一銀行を辞めて明治32年(1899)上京し「ホトトギス」の編集にあたった。
明治33年(1900)に帰阪後は朝日新聞社に入社。大阪朝日新聞社の会計部に勤めながら、
朝日俳壇の選句を担当、東の子規、西の青々と言われ大阪に活況をもたらした。
明治34年(1901)「宝船」(のちに「倦鳥」と改題)を創刊し、没年までこれを主宰した。
明治39年の年の瀬に、生地の大川町(中央区の北浜4丁目)から八坂神社の近くに
(現在の住所で大阪市福島区海老江4-10-17)移り大正10年まで住んでいた。
さらに没年まで大阪周辺に住み青木月斗(明治32年に車百合を創刊し、からたちを主宰した)
や山茶花を主宰した野村泊月雑と並び大阪俳壇の基礎をきづいた。

また、句集「松苗」「妻木」「鳥の巣」などを発刊した。昭和12年(1937)1月9日没。

松瀬青々の俳句には
「はすのあめおぐらひとつにいきおそし」 宇治の小椋池での蓮見学の様子を詠む。
「甘干に軒も余さず詩仙堂」
のように固有名詞(地名など)を使用されている句が多い。



上記文章は以前の小生のブログ記事より転記。

http://seiyo39.exblog.jp/10470278/
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