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明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その3 宿場町 大蔵谷

2018年05月02日 05時52分13秒 | 神戸市以外の兵庫県
2018年4月29日、明石市大蔵谷を散策しました。このシリーズの第3回として
宿場町 大蔵谷をテーマに書いていきます。

大蔵谷散策シリーズのこれまでの目次とリンク

第1回 明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その1 大蔵院

第2回 明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その2 法華塔

明石城下町の東側に位置する大蔵谷は古くからの明石の宿場町でした。
大蔵会館のある場所付近がかつての山陽道大蔵谷宿の本陣があった場所になります。
現在は旧西国街道沿いに僅かに残る家並みがその面影を伝えています。


上の写真は大蔵八幡神社の近くの家並みで左(東側)から大塩邸、卯月邸、服部邸
3つの邸宅は明石市都市景観形成重要建築物に指定されています。

また大塩邸は神戸学院大学 地域研究センター 明石ハウスとして活用されています。
大塩邸は明治30年(1897)代後半(口伝)頃の建築


上の写真は卯月邸(明治初期の建築)を中心に撮ったものです。


上の写真は服部邸(幕末から明治初期の建築)を中心に撮ったものです。








上の4枚の写真は古町並みを撮りました。個人宅なので詳細は記載しません。


上の写真は大蔵会館の建物外観


上の写真は大蔵会館の前の説明板。
『明石の史跡』(明石市芸術文化センター)によると
宝永元(1704)年の記録では枝村である太寺を含めた312軒の内、本陣広瀬治兵衛と
60軒の下宿・旅籠・茶屋があり馬は46疋、かご問屋2軒に駕籠かき80人とあります。
山陽道の宿場として繁栄してきた大蔵谷ですが明治中期以降は鉄道敷設などで賑わいを
失い現在は所々にかつての宿場の雰囲気こそ残すもののほぼ住宅街となっています。


尚、大蔵谷本陣であった広瀬治兵衛邸は文久2年(1862)頃、大蔵谷脇本陣であった 
龍宮屋(住野家)へ本陣の座を譲っています。
                       
江戸時代の大蔵谷村は明石藩領で、宝永元年(1704)の指出帳によれば、屋敷294軒
人口1781人、本陣1軒、旅篭屋60軒、庄屋2軒、山廻り2軒、社家2軒、医師2軒、
大工桶屋2軒であった。

稲爪神社は「稲積」とも伝えられています。「大蔵」と結び付けて古代の「屯倉(みやけ)」
との関連も推定できます。

大蔵会館の前には大蔵市場がありましたが2017年10月25日午後3時45分頃
出火し、木造2階建ての店舗兼住宅約30軒、延べ約2600平方メートルが全焼した。
大蔵市場には10世帯23人が居住していたとみられるが、けが人はなかった模様。
(テレビで何回も報道されていました。)

 火は近隣の民家16軒にも燃え移り、うち4軒が全焼。約6時間半後にほぼ消し止められた。


上の写真は江戸時代後期の大蔵谷です。(播磨名所巡覧図絵 文化1年(1804))

大蔵八幡神社、稲爪神社、休天社、両馬川、腕塚などが名所

また、明石市立図書館では最近、宿場町として栄えた、明石市東部の大蔵谷、
中部の大久保、西部の清水の絵図や古文書の調査結果がまとめられ
ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステムで「明石の宿場」として
公開されています。リンクを貼らせていただきました。

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/2820305100

ADEACのトップ



上の写真は上記のADEAC(アデアック)の資料から文久2年(1862)頃本陣となった
龍宮屋(住野家)の外観です。

明治3年(1870)の本陣制度廃止、明治5年(1872)宿駅制度廃止後も住野家は
宿籠屋として機能していたが明治14年(1881)8月廃業届を出しています。


上の写真は文久年間(1861-1863)の大蔵谷御本陣旅籠屋宿割附図に
久保直明氏が当時の住人の名前を付したものです。
本陣付近の絵図(部分引用)。 出典:ADEAC(アデアック)の資料
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