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神戸・阪神歴史講座第17回「離宮と御用邸が設けられた時代」を聴講して on 2017-7-1

2017年07月07日 05時03分42秒 | 神戸情報
2017年7月1日、神戸・阪神歴史講座第17回「離宮と御用邸が設けられた時代」を聴講した。
内容について簡単にメモとしてまとめておきます。

講座の開催要項は以下の通り。

日時: 2017年7月1日(土)午後1時~4時
場所  神戸市立兵庫勤労市民センター

開会挨拶:木南 弘(神戸史学会代表)

講演:村上忠男氏「神戸に設けられた離宮と御用邸」

   高橋健司氏「御用邸と大津事件を追って」

司会:大国正美(神戸深江生活文化資料館)

主催(共催): 神戸史学会 サロン・ド・サモン
後援: 歴史資料ネットワーク、神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター


1.神戸に設けられた離宮と御用邸

 (1)神戸御用邸
  

上の写真は神戸御用邸の配置図


上の写真は神戸御用邸の平面図


上の写真は神戸御用邸の敷地を現在の地図にはめ込んだものです。


上の写真は明治中期の神戸御用邸周辺の地図


上の写真は現在も見ることが出来る「史蹟 明治天皇御用邸趾」の石碑です。
碑の背面には「大正13年9月建設 三菱倉庫株式会社」
碑の右面には「昭和14年9月移転 株式会社神戸新聞社」と記されています。

上記のように大正13年(1924)三菱倉庫が買い取り碑を立てたのですが、鈴木商店の焼き打ちの
巻き添えをくった神戸新聞社が三越百貨店横に移転、またそこからこの東川崎町に
三菱倉庫の土地を買い取り再移転しました。

神戸ハーバーランドのダイヤパーキングのあたりに建っています。

このあたりは昔、弁天浜と呼ばれていたので「弁天浜御用邸」とも
言われていたようで、この御用邸のことは「国際都市神戸の系譜」
楠本利夫著ーにとても詳しく書かれています。


上の写真は「史蹟 明治天皇御用邸趾」の現地説明板

楠本利夫氏は下記に添付の論文でも御用邸と大津事件について投稿されています。


また、今回の講演者でもある高橋健司氏は神戸史学会「歴史と神戸」52巻6号(301号) 2013.12
Page2~6「神戸御用邸の概観」 という論文で神戸御用邸について投稿されています。

神戸御用邸は明治19年(1886)6月 弁天浜の専崎弥五平邸を買い上げ神戸御用邸となった
                  当時の敷地は約4,000坪
以降明治40年(1907)5月東京倉庫(現在の三菱倉庫)に払い下げるまで存在した。
神戸御用邸の植木は約700本あり、そのうち500本は松であったそうです。

明治天皇の神戸への行幸は24回あり、上記の御用邸への行幸は9回あったそうです。
9回の行幸についての詳細は高橋健司氏はスライドで説明されました(下に添付)




 (2)有栖川宮舞子別邸








上の4枚の写真は有栖川宮舞子別邸配置図、平面図など

舞子ビラは明治天皇とゆかりの深い有栖川宮熾仁(たるひと)親王の別邸でした。
ここには日露戦争で、明治天皇大本営が置かれました。


上の写真は上記の「明治天皇大本営跡」を示す石碑で昭和9年(1934)史跡指定されたとの
記述があります。2008-10-18撮影。


略歴
 明治21年(1888)12月 東京電燈 矢嶋作郎より土地建物購入

 明治22年(1889)1月 改築工事始まる

 大正3年(1915) 3月 大温室、武庫離宮へ移設
 大正6年(1918) 7月 住友家に売却

 (3)賀陽宮須磨別邸

山陽電鉄の須磨浦公園駅の南側にかってあったそうです。(初めて知りました)




上の2枚の写真は賀陽宮須磨別邸平面図と車寄せ建物正面の図

略歴

 明治37年(1904)8月 新築落成 (土地は御料局)

 大正10年(1921)頃 建物撤去か移築


 (4)武庫離宮






上の写真は武庫離宮関連の資料


武庫離宮及び須磨離宮公園に関連した出来事を箇条書きしておきます。

明治19年(1886) 弁天浜の専崎邸を買い上げ神戸御用邸とする。
  関連ブログ 明治天皇御用邸跡の碑

明治30年(1897) 御用邸候補地として須磨高倉町・潮見台町一帯(6,900坪)
         明石城址が検討されたがどちらも不適切と判断

明治36年(1903) 西本願寺の大谷光瑞法主が須磨月見山別邸を建設

明治40年(1907) 大谷光瑞以下2名の宅地・山林 20,805坪を買い上げ

明治41年(1908)2月10日 離宮設置決定(宮内省告示2号)

明治44年(1911)11月25日 武庫離宮起工
        工事費総予算:571,393円 敷地:21ha 建築面積:約5千㎡

大正3年(1914)
12月25日 武庫離宮完成
     同年11月17日に大正天皇が摂河泉陸軍大演習の途時に初行幸

大正5年4月 裕仁親王行啓、行幸(九州地方陸軍大演習も途次)

大正8年11月 行幸(摂播地方陸軍大演習)大本営となる

大正11年3月 皇后陛下行啓(筑紫香椎宮参拝途次)

大正12年(1923) 御幸通り(現在の離宮道)を地元の交通の便のため神戸市に下賜

昭和10年(1935)
4月21日~23日 ラストエンペラー溥儀が宿泊

昭和20年(1945)3月17日 神戸大空襲で焼失

昭和21年(1946)6月 米駐留軍の射撃演習上となる 約10年館

昭和31年(1956)8月 米駐留軍接収解除 神戸市へ返還

昭和33年(1958)4月 皇太子殿下(平成天皇)ご成婚記念事業として公園整備に着手

昭和48年(1973)
 東の隣接地 旧岡崎邸用地を買収

昭和54年(1979) 神戸市市制90周年事業として植物園を増設

平成元年(1990) 日本の都市公園100選に選定される

当日持ち込まれた建設して間もないころの武庫離宮の模型と図面は分かり易かった
(下に添付)




下記のブログで最近の須磨離宮の様子を書いています
 須磨離宮公園に残る武庫離宮の面影 on 2014-11-17

尚、村上忠男しは神戸史学会で今回の講演の内容についていくつか論文を掲載されています
(下記に添付)




2.御用邸と大津事件を追って

前置きとして官営鉄道開業時の列車及び神戸駅(初代)周辺の話があった。
(下の2枚の写真)




明治7年(1874)大阪-神戸間で鉄道が開通し、新橋工場に次いで日本で
2番目の山陽鉄道株式会社神戸工場が開設されました。神戸工場ではR.トレビシック(兄)が
日本の技術者を指導したことが日本で初めての白紙からの機関車設計した森彦三を
生むことになった。


上の写真は860形式蒸気機関車(明治26年(1893)に製作された国産初の蒸気機関車です。)

明治24年(1891)5月9日正午、ロシアのニコライ皇太子はアドバ号で御用邸裏の桟橋から上陸
(ニコライ皇太子は前年の11月にロシアを出発し、途中従弟のギリシャ王子ゲオギリオスを
 合流させエジプト、インド、東南アジア諸国、中国を巡り長崎、鹿児島寄港後の神戸着)

5月9日は神戸市内を見物し16:00頃神戸から京都に列車で移動、京都の常盤ホテル泊

上の写真は神戸での見物コース

京都で宿泊した常盤ホテルについては下記ブログで書いています。
 諏訪山温泉 常盤楼 と兵庫津 常盤花壇


5月10日は京都市内見物

5月11日は人力車を連ねて逢坂山を越えて琵琶湖畔を訪れた。滋賀県庁から帰路についた時、
警護にあたっていた巡査、津田三蔵にサーベルで頭部を切り付けられた。(午後1時40分頃)

これがのちにいう大津事件である。

事件は大津から電報で天皇へ伝えられた。(午後2時30分頃)
連絡を受けた天皇は直ちに北白川宮能久親王を現地へ向かわせた。
すぐに御前会議が開かれ、天皇自身も明朝(5月12日)京都へ向かうことが決まった。
5月12日に新橋を出発した特別列車は当日の午後9時15分に京都駅に到着。
夜遅かったため天皇は皇太子に会わず5月13日の昼前に常盤ホテルで皇太子に面会
慰問の気持ちと旅行続行の希望を伝えた。
午後になってロシア側から皇太子は神戸港に停泊しているアゾバ号へ戻るとの連絡を受け
安全のため天皇も同行して欲しいとの要請があり特別列車で神戸に同行無事に皇太子を
アゾバ号に送り届けた。
これが6回目の天皇の神戸御用邸行幸である。

中途半端な記述で終わりましたが外出する準備の為この辺で筆を置きます。

最後に大津事件と神戸をテーマに書かれた資料リストを添付しておきます。







     この時、神戸の明治天皇御用邸やオリエンタルホテルに10日間滞在










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