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乙巳(いっし)の変と甘樫丘東麓遺跡

2018年04月16日 04時39分04秒 | 奈良情報



上の写真は談山神社に残る多武峰縁起絵巻で、蘇我入鹿暗殺の場面と首以外の胴体の
遺骸が運び出される場面です。所謂、乙巳(いっし)の変を描いたものです。


明日香村に史跡として残る板蓋宮は、645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)
に発生したクーデター(乙巳の変)の舞台となった。
この日、皇極天皇の眼前で大臣の次期後継者である蘇我入鹿が刺殺される
という凶行がなされ、翌日(6/13)蘇我入鹿の父蘇我蝦夷が自邸に火をつけて
自害したことで蘇我氏宗家は滅亡した。ここから「大化の改新」と呼ばれる
政治改革が始まることになる。

「日本書紀」には皇極3年(644)に蘇我蝦夷(そがのえみし)と入鹿(いるか)親子の
邸宅があったと記録されており、その場所とされているのが奈良県明日香村の
甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡である。
蘇我蝦夷の舘は「上の宮門(うえのみかど)」、
蘇我入鹿の舘は「谷の宮門(はざまのみかど)」と呼ばれていた。

2018年4月4日(水) 午後10:25~午後11:10 放送のNHK「歴史秘話ヒストリア」
発見 蘇我入鹿の棺 よみがえる“大化改新”」でも
乙巳の変と蘇我蝦夷、入鹿の邸宅に関する番組があったことから表題のような
テーマで話を進めていきます。

まず、私の新聞スクラップ(下の写真)より甘樫丘東麓遺跡の発掘調査を担当している
奈良文化財研究所の2014年の紀要に下記表題の検討がなされました。
14C年代ウイグルマッチングによる甘樫丘東麓遺跡の年代学的検討 第171次
新聞はこの結果について結論が紹介されています。

甘樫丘東麓遺跡の炭化材の年代(95.4%の確率)は605年~645年であった。

結果の詳細は下記サイト。
 https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/6381/1/BA67898227_2014_123_126.pdf




次に、奈良文化財研究所の過去の発掘調査結果の成果をまとめていきます。


上の写真は177次調査現地説明会資料で書かれた発掘調査の行われた場所です。

1993年度からの発掘調査
第71-11次(1993年度)が初調査、国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区の整備に伴い
遺跡の有無や状況を確認するために発掘調査が行われた。
第75-2次調査では7世紀中頃の焼土、焼けた壁土、炭化した木材、多数の土器を確認
7世紀後葉から藤原宮期に大規模な整地が行われたことも確認
報告書:藤原概報25

2005年度の発掘調査(第141次)
国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区の整備にともなう試掘調査で2005年8月~11月に実施。
調査地は丘の麓から北西に入り込む約6,000mの平坦な谷地で幅5m、長さ145m
の調査の結果、大規模な整地層と6棟の掘立柱建物、3条の塀を確認

建物や石垣などの遺構は、7世紀前半のもの(Ⅰ期)、7世紀中頃~後半のもの(Ⅱ期)、
藤原宮期(7世紀末期)のもの(Ⅲ期)の、3時期に分かれるようです。
「紀要2006」で報告

2006年度の発掘調査(第146次)
2006-10-4~2007-3-14に調査 
7世紀代の3時期(上記)にわたる大規模な整地と建物が検出された。
7世紀前半(Ⅰ期)の石垣を確認。
今回検出された建物は規模が小さく焼けた痕跡も見られなかった。
日本書紀によれば蘇我氏は滅亡時に天皇記などを燃やしているが邸宅が燃えて焼失した
との記述はない。今回の調査ではⅡ期、Ⅲ期の整地層に焼土や炭を含み、工房関係の
遺構、建物も出土している。焼土は工房に由来している可能性もあり、注意が必要
建物配置の全容解明が課題。

現地説明会(2007-2-11)の様子を詳細に記載されているサイトがありましたのでリンク
 http://sendo.fc2web.com/flame02/20070211amakasihigasi/amakashi146.htm

奈文研ニュース No.24 Mar.2007にも概要が記載されています。

2007年度の発掘調査(第151次)
2007-11月~  建物跡を確認 現地説明会は2008-3-29
奈文研ニュース No.29 June 2008に概要が記載

2008年度の発掘調査(第157次)
2008年12月17日~  
現地説明会資料は下記サイトよりダウンロードできます。
 http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14909
第146次(2006年度)の石垣の検出を含め7世紀前半から中頃の石垣遺構34m
が確認された。このほか石組の溝をめぐらせた石敷き50点を超える土師器、須恵器
建物跡なども確認。

2009年度の発掘調査(第161次)
2009年12月~2010年6月  現地説明会:2010-3-20

斜面の中腹に7世紀の柱穴を確認。丘陵上部の遺構が広がる可能性
調査区南端の下層調査で7世紀前半の谷の造成や炭・焼土層の広がりを確認

2011年度の発掘調査(第171次)
2011-9-22~2012-?-?    現地説明会:2012-3-4

工房的な施設の一部が谷入口部付近の存在

2012年度の発掘調査(第177次)
2013-1(C区)~2013-?    現地説明会:2013-9-7

7世紀半ばごろの2棟の建物跡が見つかったと発表されました。2棟の建物跡が
確認されたのは、邸宅跡の中心部とみられる場所の北約100m地点。
1棟は東西4.5m、南北3.9m。柱穴の配列から高床式の倉庫跡などとみられるとの
ことです。別の1棟の規模は東西5.4m、南北3m。建物の性格は不明とされています。
敷地内では、谷を最大で5.5m以上も埋め立てる大規模な造成工事がされており、
飛鳥盆地を見下ろす丘を広範囲に邸宅として利用していた可能性も考えられると
コメントされています。

現地説明会の詳細は下記サイトで確認で確認できます。
 http://www.gensetsu.com/20130907amakashi/index.htm


上の写真は上述のNHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」からのもので
甘樫丘東麓遺跡の蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅跡と小山田遺跡と菖蒲池古墳が
描かれています。


上の写真も上述のNHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」からのもので
番組では蘇我氏一族の古墳が主要道路の要所に配置されたとの解説がありました。

さらに番組では中大兄皇子と中臣鎌足が初めて出会ったとされる槻の木の広場
(飛鳥寺西方遺跡)蘇我氏初代の蘇我稲目の屋敷跡とされる向原寺内の豊浦宮跡の
紹介がありましたので写真を添付しておきます。




また、同じく番組で蘇我蝦夷・入鹿の親子の家形石棺が菖蒲池古墳に安置され
石棺が蝦夷・入鹿親子の邸宅を模したものだという仮説を紹介されていたので
写真を添付しておきます。





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