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浦賀でのペリー提督と戸田伊豆の守の交渉風景と通訳「仙太郎」

2018年02月11日 04時39分03秒 | Weblog
嘉永6年(1853)7月8日(太陰暦6月3日)に、旗艦で蒸気推進艦であるサスケハナ号と
ミシ シッピー号をはじめ、帆船のサラトガ号、プリマス号の4隻からなるいわゆる
「黒船」の艦隊を編成して、江戸湾の入り口で日本の 喉元にあたる浦賀沖に姿を現した。

総指揮をとるのはマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)提督
ペリー提督は1852年11月にミシシッピー号単独でバージニア州ノフォーク港から、
大西洋からアフリカ最南端のケープタウン経由で日本を目指し 出航した。
1853年4月7日香港に到着します。途中で僚艦と合流しながら上述のように
浦賀沖に姿を現した。

ペリー提督はフィルモア大統領からの親書をあくまでも江戸近郊で渡そうと強硬姿勢で
迫った結果、老中首座の阿部伊勢守の決断で親書の受け取りを長崎ではなく江戸近郊
で開催と決まった。浦賀近くの久里浜に 応接所を作り、1853年7月14日(太陰暦6月9日)
戸田伊豆守と井戸石見守が、オランダ語と中国語の翻訳が添えられた親書等書簡類を受理。

上記のシーンを明治11年(1878)12月16日の近世年代略記(下の写真)が
伝えています。



中央は通訳のジョセフ・ヒコで「日本播磨国産船頭彦三當時亜国通弁」と
書かれていますが、この時にヒコはアメリカに居たので誤記、ペリーと一緒に
来航したヒコと同じ永力丸の漂流民の仙太郎(サム・パッチ 倉助 倉蔵)
であろうと思われます。

仙太郎について簡単に紹介しておきます。

仙太郎(サム・パッチ Sam Patch 千太郎 倉助 倉蔵)
     18歳で漂流  安芸国沼田郡生口島 (1832生-1874没)
            現在の広島県豊田郡瀬戸田町福田
     1853年4月8日ペリー艦隊のサスケ ハナ号に残り
     1853年7月8日ペリー艦隊側から見た由一の日本人となる。
     1854年3月31日の日米和親条約調印のときもアメリカの水兵として
      働いています。また1855年からアメリカの大学に入学して1860年
      3月31日に日本に戻ります。
     1863年からバラー氏の下で、1871年から静岡藩の学問所の教員として招聘された
      クラーク氏の下でコックとして横浜、江戸で働いた。
     1874年10月8日、脚気により死去。中村正直の計らいで、中村家の菩提寺
      である法華宗の本伝寺に葬られた。墓碑にはサム・パッチの音を取り、
     「三八君墓」と刻まれている。
      因みにかれは日本最初のパブテスト派受洗者で聖書摩太福音書の翻訳に
      協力し完成に尽力した。

  本伝寺(日蓮宗)の所在地とアクセス
   住所:東京都文京区大塚4-42-23  地下鉄丸の内線新大塚下車

仙太郎の肖像画



上の写真は横浜美術館蔵の仙太郎の肖像


上の写真は米国紙のILLUSTRATED NEWS 1853年1月22日付に掲載された肖像画

彼の生涯を描いた本「仙太郎―ペリー艦隊・黒船に乗っていた日本人サム・パッチ」
もあるようです。(未読)

参考サイト:http://shimoda100.com/storys/storys22/



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