長年、タイで農業指導などに取り組まれた谷口巳三郎さんが、
タイの農場で88歳で亡くなられました。
菊池市泗水町出身で、県立農業大教官退職後の1983年
59歳のとき、単身タイへ渡り、「21世紀農場」を開設。
農業指導だけでなく、青少年教育や高地民族救済、
エイズ患者らの支援に取り組まれ、98年にはタイ国立
メ・ジョー大学から名誉農学博士号を受けられました。
10数年前、谷口さんの活動を知り、自宅を訪ねたことがあります。
失礼ながら、家は傾きかけ、ほんとにここに住まれているのかと思ったほどでしたが、
ご主人の要請に、生活を切り詰め、せっせとタイへ支援金を送られていたのです。
自分たちだけで支援をされていたそうですが、5年ほど経ったとき、
新聞勧誘に来た人に「新聞を取るお金がありません」と事情を話されたところ
新聞社がそれを記事にしてくれたことで、ようやく支援の輪が広がったそうです。
奥様は「タイとの交流の会」を立ち上げ、ミシンを集めて送り、女性が仕事をすることで
身売りをしなくてすむように、また里親を募り、子どもたちの教育支援をするなど
地元から支援されています。
私も3人の男の子の中学校3年間の里親になったことがありますが、
よく手紙をくれて、感謝の言葉を書いてくれていました。
谷口巳三郎さんが帰国されたときに、講演を聞きにいったことがあるのですが、
そのとき70歳過ぎで、すごくやせていらっしゃいました。
何度も体調を崩されて、医師からはドクターストップがかかる状態でも
みんなが待っているから、とタイに戻られていたそうです。
どこにそんな体力があるのか、なぜそこまでするのか、不思議でした。
「いずれ日本が食糧不足になったとき、タイの人たちから助けてもらえるよう
そのために、私は今、頑張っています」と言われた言葉が印象的でした。
自分の身は顧みず、日本の将来を心配されて行動されていたのです。
88歳まで本当にお疲れ様でした。
心よりご冥福をお祈りいたします
タイの農場で88歳で亡くなられました。
菊池市泗水町出身で、県立農業大教官退職後の1983年
59歳のとき、単身タイへ渡り、「21世紀農場」を開設。
農業指導だけでなく、青少年教育や高地民族救済、
エイズ患者らの支援に取り組まれ、98年にはタイ国立
メ・ジョー大学から名誉農学博士号を受けられました。
10数年前、谷口さんの活動を知り、自宅を訪ねたことがあります。
失礼ながら、家は傾きかけ、ほんとにここに住まれているのかと思ったほどでしたが、
ご主人の要請に、生活を切り詰め、せっせとタイへ支援金を送られていたのです。
自分たちだけで支援をされていたそうですが、5年ほど経ったとき、
新聞勧誘に来た人に「新聞を取るお金がありません」と事情を話されたところ
新聞社がそれを記事にしてくれたことで、ようやく支援の輪が広がったそうです。
奥様は「タイとの交流の会」を立ち上げ、ミシンを集めて送り、女性が仕事をすることで
身売りをしなくてすむように、また里親を募り、子どもたちの教育支援をするなど
地元から支援されています。
私も3人の男の子の中学校3年間の里親になったことがありますが、
よく手紙をくれて、感謝の言葉を書いてくれていました。
谷口巳三郎さんが帰国されたときに、講演を聞きにいったことがあるのですが、
そのとき70歳過ぎで、すごくやせていらっしゃいました。
何度も体調を崩されて、医師からはドクターストップがかかる状態でも
みんなが待っているから、とタイに戻られていたそうです。
どこにそんな体力があるのか、なぜそこまでするのか、不思議でした。
「いずれ日本が食糧不足になったとき、タイの人たちから助けてもらえるよう
そのために、私は今、頑張っています」と言われた言葉が印象的でした。
自分の身は顧みず、日本の将来を心配されて行動されていたのです。
88歳まで本当にお疲れ様でした。
心よりご冥福をお祈りいたします
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます