「差不多」的オジ生活

中国語の「差不多」という言葉。「だいたいそんなとこだよ」「ま、いいじゃん」と肩の力が抜けるようで好き。

蟹工船

2008-10-18 | 
格差社会、貧困が世を覆っている社会の中で、昨年あたりから売れている小林多喜二のプロレタリアート文学作品「蟹工船」。最近はますます話題になることが増えました。というか、いまや蟹工船は連帯のためのキーワードともなっているようで、貧困関連の集会やシンポでは必ずといっていいほど言及されたり、プラやコスチュームに使われたりしています。先日、映画「フツーの仕事がしたい」を観て、久しぶりに、なにせ大学時代以来なので約30年ぶりに、蟹工船を手にとって読んでみました。

懐かしいですね。けっこうこうした本を読みまくっていた青春時代、社会の不公正さに憤りを覚えていた学生時代がよみがえります。ただ、あのころは社会のなんたるかも知らない、頭の中で構築した「社会モデル」に対して、いわば頭でっかちの憤りでした。

いまのロストジェネレーションとも呼ばれる20代から30代を中心とする貧困社会に生きる若者には、まさに現実感、日々の生活の中から感じる矛盾が戦前の書物にも記されていたことに対する驚きと共感が感じられるのではないでしょうか。先に現実があり、それを代弁する書があった、という感じでしょうか。切実さという意味では私の青春時代とは天と地ほどの差がありそうです。

読み返すと、悲惨、陰惨な内容ですよね。目を背けたくなるような惨状。それを生み出す資本の論理と労働者の無力感。でも、先日の映画もそうですが、小さな一人ひとりが団結、連帯することで思いもかけない力が得られる。現実を変えることができる。蟹工船の蛇足とも思える「あとがき」が現実になる可能性を、いまの若者は感じているのでしょう。そんな、ある意味、とんでもない世の中なのでしょう。

東西冷戦の終結で共産主義・社会主義が負けたという無力感が、資本主義をここまでずうずうしくむき出しの資本の論理に走らせてしまった。暴走する資本主義に待ったをかける新たな思想が生まれない限り、また弱者切捨ての「勝ち組・負け組み社会」が続いていく。少なくとも社会主義はそうした観点からまだまだ有効性を失っていないと、改めて信じられる気がしています。

人間が人間として当たり前に幸せを追い求めることができる社会、笑って老後を過ごせる社会、社会的弱者がきちんと保護される社会。もちろん、ズルをして甘える人だっているでしょう(実際にいましたよね、こんな社会になる前の「一億総中流」などと自嘲気味に語られていた時代に)が、いまの生存権すら脅かされている、人間としての尊厳のかけらも無視されてしまうような世の中より数百万倍もマシだと思っています。蟹工船はそんな社会を目指すための第一歩として、現代に蘇ったのでしょう。

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