昨日は失った歯の再創造を願っていたが、実際にはインプラントになったことを綴った。それは結果的には再創造と同じような恵みになった。
しかし自分的には、これはほろ苦く貴重な学びになった。この意味がすぐには理解できなかったが、問い続けて行くうちに、次第に、癒やしについて、祈りについて、自分の肉的な思い違いについて、知らされたからである。
クリスチャンなら「何でも祈ってよい」と思っていた。御心なら叶うし、御心でないなら叶わない。とにかく祈らないとあたかも【損する】かのようである。祈らなかったために得られなかったことが無いように、と。しかしこれは正しいのだろうか?
"あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」"(マタイ 21章22節 ©2017)
確かにクリスチャンは、常に祈る。祈ることは正しい。問題は祈りの方向性である。自己責任とは言え、歯を失った、それで不自由している、だから神にまた得たいと再創造の奇跡を求めて祈った・・・・これは自己中心、100%肉の祈りではなかったか。たとえはひどいが、まるでドラえもんのポケットではないか。このことをつきつめれば以下にも通じていく。
病になった、その病の癒やしを求めて祈る。失業し経済がなくなったので祈り求める。いじめにあっている、その解決を求めて祈る。愛する人が死んだ、そのよみがえりを求めて祈る・・・これらは当然の祈りのように思える。確かに祈って、願いを神に知ってもらうのはよい。何の問題があろうか、いや、あるのである。まず第一に、この個人的な緊急事態を神はとっくにご存知であるということだ。
私たちクリスチャンは、この許された事柄に、まるでこれは受け入れられないと拒否反応のごとく、すぐさまその癒やし、神の手、回復、わざを求めて祈りに入る前に、静まって、許された神の御心を求めなければならないのだ。
病になることにも、失業にも、堪え難い死すら神の御心があること、許されたことを先ず感謝して祈る信仰が試されるのです。なぜなら、神を愛する者は、主イエスよりもはるかに軽いとはいいながら、苦難の恵みにも預かるからです。
それは肉を捨てるための唯一の道であって、実は愛の訓練です。人間の弱さと限界を神はよくご存知であるだけでなく、御子イエスを通しての取り成しも聞き入れてくださるからです。ですから、拒否するのではなく、もっとよいことのためだとして、感謝して受け取るのです。
苦難を通り、真実の自分の姿を知り、悔い改めて神のものとされた人にとっては、死すら解放であり永遠のいのちの喜びです。(最下欄の御言葉を参照のこと)
その上で御心を求めましょう。自分の歯は与えてくださいませんでしたが、神はインプラントを与えてくださいました。インプラントなので、前と変わらなず歯科医院に通う結果となりました。それでその後の十二年間、今日まで私の歯全体が守られる結果になりました。
また癒やしと祈りについて、これをきっかけに黙想するようになり、御言葉を求め、現時点では「何でも祈り求める」とはこのことであることに導かれました。
"何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。"(ヨハネ 第一 5章14節 ©2017)
この御言葉は、一切を神に委ね、その上で御心がわからなければ、つまり肉がとり去られての祈りでなければ、熱心な祈りでも【何事も】神は聞いてくださることにはならない。反対に「最善にしようとしているわたしの計画がわからないのか」とばかり、残念に思われるだろうことを私は知るのである。
考えてみればすぐわかることであるが、思慮の浅い年行かない我が子が、「お父さん、僕は自転車に乗れるようになったよ。だからお父さんのバイク、僕に運転ささて!」と願ったとして、それを許す父があるはずがない。私たちの願いとはそんなレベルで、最終的な結果が見えてないのだ。神はご存知である。神は愛する子に、最善しかおできにならない。
神が祈りを聞いてくださらないと呟いてはならない。最善は神との交わり、永遠のいのち、天の宝である。一言で言えば、神を愛する心なのだから。だから世のものを失うことは私の益である。また世で祝福されるならば、それは神の栄光を証し、そのご計画に用いてもらうことであって、決して自分の栄光にしてはならない。ここにその責任と恐ろしさを自覚したい。
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"試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。"
(ヤコブ 1章12節 ©2017)
"私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。"
(ローマ 6章6節 ©2017)
"試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。"
(ヤコブ 1章12節 ©2017)
"あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。"
(エペソ人への手紙 6章18節 ©2017)
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ケパ