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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

その祈り聞かれる祈りだろうか?

2019年10月10日 | 祈り
昨日は失った歯の再創造を願っていたが、実際にはインプラントになったことを綴った。それは結果的には再創造と同じような恵みになった。


しかし自分的には、これはほろ苦く貴重な学びになった。この意味がすぐには理解できなかったが、問い続けて行くうちに、次第に、癒やしについて、祈りについて、自分の肉的な思い違いについて、知らされたからである。

クリスチャンなら「何でも祈ってよい」と思っていた。御心なら叶うし、御心でないなら叶わない。とにかく祈らないとあたかも【損する】かのようである。祈らなかったために得られなかったことが無いように、と。しかしこれは正しいのだろうか?
"あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」"(マタイ 21章22節 ©2017)

確かにクリスチャンは、常に祈る。祈ることは正しい。問題は祈りの方向性である。自己責任とは言え、歯を失った、それで不自由している、だから神にまた得たいと再創造の奇跡を求めて祈った・・・・これは自己中心、100%肉の祈りではなかったか。たとえはひどいが、まるでドラえもんのポケットではないか。このことをつきつめれば以下にも通じていく。

病になった、その病の癒やしを求めて祈る。失業し経済がなくなったので祈り求める。いじめにあっている、その解決を求めて祈る。愛する人が死んだ、そのよみがえりを求めて祈る・・・これらは当然の祈りのように思える。確かに祈って、願いを神に知ってもらうのはよい。何の問題があろうか、いや、あるのである。まず第一に、この個人的な緊急事態を神はとっくにご存知であるということだ。

私たちクリスチャンは、この許された事柄に、まるでこれは受け入れられないと拒否反応のごとく、すぐさまその癒やし、神の手、回復、わざを求めて祈りに入る前に、静まって、許された神の御心を求めなければならないのだ。

病になることにも、失業にも、堪え難い死すら神の御心があること、許されたことを先ず感謝して祈る信仰が試されるのです。なぜなら、神を愛する者は、主イエスよりもはるかに軽いとはいいながら、苦難の恵みにも預かるからです。

それは肉を捨てるための唯一の道であって、実は愛の訓練です。人間の弱さと限界を神はよくご存知であるだけでなく、御子イエスを通しての取り成しも聞き入れてくださるからです。ですから、拒否するのではなく、もっとよいことのためだとして、感謝して受け取るのです。

苦難を通り、真実の自分の姿を知り、悔い改めて神のものとされた人にとっては、死すら解放であり永遠のいのちの喜びです。(最下欄の御言葉を参照のこと)

その上で御心を求めましょう。自分の歯は与えてくださいませんでしたが、神はインプラントを与えてくださいました。インプラントなので、前と変わらなず歯科医院に通う結果となりました。それでその後の十二年間、今日まで私の歯全体が守られる結果になりました。
また癒やしと祈りについて、これをきっかけに黙想するようになり、御言葉を求め、現時点では「何でも祈り求める」とはこのことであることに導かれました。



"何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。"(ヨハネ 第一 5章14節 ©2017)

この御言葉は、一切を神に委ね、その上で御心がわからなければ、つまり肉がとり去られての祈りでなければ、熱心な祈りでも【何事も】神は聞いてくださることにはならない。反対に「最善にしようとしているわたしの計画がわからないのか」とばかり、残念に思われるだろうことを私は知るのである。

考えてみればすぐわかることであるが、思慮の浅い年行かない我が子が、「お父さん、僕は自転車に乗れるようになったよ。だからお父さんのバイク、僕に運転ささて!」と願ったとして、それを許す父があるはずがない。私たちの願いとはそんなレベルで、最終的な結果が見えてないのだ。神はご存知である。神は愛する子に、最善しかおできにならない。

神が祈りを聞いてくださらないと呟いてはならない。最善は神との交わり、永遠のいのち、天の宝である。一言で言えば、神を愛する心なのだから。だから世のものを失うことは私の益である。また世で祝福されるならば、それは神の栄光を証し、そのご計画に用いてもらうことであって、決して自分の栄光にしてはならない。ここにその責任と恐ろしさを自覚したい。

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"試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。"
(ヤコブ 1章12節 ©2017)

"私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。"
(ローマ 6章6節 ©2017)

"試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。"
(ヤコブ 1章12節 ©2017)

"あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。"
(エペソ人への手紙 6章18節 ©2017)
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             ケパ


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インプラント

2019年10月10日 | 健康・スポーツ
今から11年前、私はインプラントの手術を受けた。左下大臼歯三本をインプラントにした。

その五年前、何年も求め続け、ほとんど諦めていた聖霊のバプテスマ突然受けたので、俄然私は奇跡を信じる者になった。そこで切に祈るようになった奇跡は、失ったこの三本の歯の復活、再創造だった。

私は生来、歯が弱い。今と違って、一昔前はまともなブラッシングの指導など皆無だった。痛くならないと歯医者に行かず、削って被せて、それでダメなら抜歯というパターンだった。だから虫歯、長じては歯槽膿漏というさんざんな繰り返しも、入れ歯をして喋りもフガフガ、食べるにも不自由するようになって目が覚めた。

歯に関してこれまで逃げ腰で、その結果放擲し、ここに至ったなんと愚かな人間だろうか。体の管理者として失格である。将来牧師としての召命を受けたというに、これでは説教一つすら、フガフガの入れ歯ではまともに出来ないではないか!取り返しがつかなく、悔やんでも悔やみきれない。

、そこで神の奇跡を信じる者として、歯の再創造を熱心に祈るようになっていた。再創造、つまり失った歯がまたそっくりそのまま生えてくる願いの祈りをするようになっていた。
  祈り始めて五年あまり、この祈りはまったく届かなかった。諦めてはいなかったが、心を入れ替え、熱心に通っていた歯科医師がインプラントを勧めて来た。そのことを結婚したばかりの妻、ドルカスに相談すると、一言「受けたらいいんじゃない」と。「おいおい、すごく費用もかかるし、未だ100%うまくいくとは限らないんだぜ」すると「大丈夫。祈ってOKが出たら私がプレゼントする」と言ってくれた。

その後、受けるべきかインプラントのことで祈っていると、「あなたはなぜ、再創造を祈るのですか? インプラントは不信仰ではありません」と言う示しが来た。それで私は受けることにし、手術は成功して、まるで自分の歯が生えてきたような三本のインプラントになった。



インプラントは素晴らしい。ただインプラントはやみくもにできるわけではない。その土台となる顎骨の厚さや密度の硬さ、形の問題がクリアされる必要があるようだ。

以下は素人ながら、実感していることだ。インプラントにするとそれで終わりではなく、それから維持するケアが始まることになる。だからその後も、自分の歯を詳しく知っている歯科医院を軽々しくし変えてはならない。インプラントそのもの、またその両隣りの歯を守ってこそ成功なのだ。もちろん全体的にも。

私の怠惰によって失われた歯は、あたかも再創造されたかのようにインプラントによって取り戻せたかも知れないが、そう喜んでばかりはいられないようだ。悔い改めつつ、感謝しつつ、歯磨きにいそしんでいよう。

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