私たち聖霊派のクリスチャンは「聞き従い」とよく言います。もちろん、神の計画に従って、その働きを担うことがクリスチャンの最大の使命であり、喜びです。地上でのイエス・キリストもその語る一言ひとこと、そのワザについてまでも徹底して神に聞き従われました。ですから師にならう私たちクリスチャンも、同様に神に聞き従うのは当然です。
ただ注意すべき点が二つあるのではないでしょうか。
一つは聞き従うことが、イコール人に従うことと同一視されている場合があることです。個人崇拝は偶像崇拝につながり、カルトそのものになってしまいます。その場合、その人は神から聞けていないので、吟味することができていないからだと考えられます。したがって、自分は本当に聖霊のバプテスマを受けているのかどうかを確認されてみたら如何でしょうか。確信に立つことは大切ですが、誤った確信は砂上の楼閣、避けなければなりません。
もし聖霊のバプテスマを受けた確信が無いのであるなら、当然ですが、聞き従いは不可能です。熱心に求めていただきたいと思います。それは、みこころですから、叶えられます。
私の場合、聖霊のバプテスマは長い年月かかり、高名なエパンジェリストとかが来日すると欠かさず集会に行きましたが、そう簡単には受けられませんでした。それにはお一人お一人、整えられての最善の神の時があるようです。個人的に罪の深さと惨めな己を知らされ、ただ神にのみあわれみを求める、砕きが伴うようです。その点、私はあまりにも罪深く虚栄心の塊で、そう易々と恵まれるものでなかったのは当然ですし、そのことを今では心から感謝しています。
次なる注意すべき点ですが、当然ですが聞き従いは、すべて聖書の枠内であって、聖書を土台としていることです。一例ですがヨハネ伝とかエペソ書のように、聖書の神が聖霊様を通して語ってくださっているのです。開かれて間もない時ならともかく、祈り親しんだ神の語りかけならば、聞き間違って結果的に多くのことが実現しなかった、間違っていたということは、基本的にあり得ないことです。
それは神と自分の肉の声が入り混じっているからです。神からさも聞いたようなことを語る前に、それは聖書から見て祈りつつ、妥当かどうか、謙虚にチェックをするべきです。間違って言うなら、それは受け取り手の問題(吟味責任)と責任転嫁をするのではなく(それも打たれる原因になりますが)、今一度神だと偽ってしまった言葉への悔い改めを、相手と自分とにしなければならないでしょう。一度放った言葉は、そのままでは決して消去されるわけではありません。天に記録されているのです。