ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

イスラエル、エルサレムの平和を祈る

2017年10月02日 | 祈り
昨日、新宿で「エルサレムの平和のために祈る集会」に参加してきた。そこでは世界各地から祈っている人たちのライブ中継があった。そのひとり、チェコのマレックさんのスピーチが心に残った。彼とはほんの数週間前にスロバキアなどで会っていた。彼は言う。「エルサレムの平和のために祈っており、具体的に祈ろうとしているが、情勢が目まぐるしく変わるのでどのように祈ったら良いのか、分からなくなっています」と言いながら、実際には力強く祈ったのだった。確かに数週間前には神殿の丘で、イスラエルの警察官が二人殺されたりしている。(オリーブ山から現場の神殿の丘を望む)

そこで今日は私なりに、エルサレムの平和はどういう事で、今、何を祈ったら良いのかを整理してみたい。

先ずエルサレムの平和とは二つの意味がある。それは首都としてのイスラエルの国、ユダヤ人の事を意味している場合と、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という世界宗教の聖地ー神殿の丘を巡って場合である。通常はこの二つの事柄が混合して祈られている。つまり現実の国と神の国とが入り混じっているわけだ。だから何を祈っていいのかと戸惑う。(左がジャック・ヘイフォード牧師)

昨夜の集いでのこのお二人のビデオメッセージを観る限りでは、もともと発起人のロバート・スターンズ牧師(右の人物)は現実の国派であり、ジャック・ヘイフォード牧師はいずれの側にくみしない、神の国派と見えた。当初からこの「エルサレムの平和のために祈れ」は二人三脚だったのだろう。一方、同じ流れだがヨーロッパECI代表トマス・サンデルさんのビデオメッセージにおいては、この両方を体現していた。つまりエルサレムの平和は、メシアがエルサレムに入場される時に実現すると言ったので神の国派かと思ったが、それ以外は徹頭徹尾現実の国派であって、イスラエルを支援すべき義務がクリスチャンにはある、と言った。確かにこれが今の私たちの現況なのだと言えよう。(サンデルさん)

ここからは現時点での全く私的な解釈である。
ユダヤ人が描いているエルサレムの平和が実現するのは、それは神殿の丘に今在る黄金ドームを何とかして、第三神殿を建てた時であろう。なぜならユダヤ人はそれまでは決してあきらめないからであり、その時まで「嘆きの壁」で嘆き続けることになるからだ。
六日戦争で神殿の丘を含め旧エルサレムを手に入れたイスラエルは、隠忍自重かつ、虎視眈々とすべてを整えてひたすら第三神殿建設の時を待っている。今や丘は警察権を含めてイスラエルのものである。それでも今回警察官が殺されたように、イスラム側からは占領であって決して容認されているわけではない。
イサクを捧げた岩の上に(つまり昔のイスラエルの神殿の在ったところに)真上にイスラムのモスク(黄金のドーム)が光り輝いている。ムハンマド(マホメット)がメッカから一夜のうちに飛んでここに立ったという聖地である。これに手を付けるならば、イスラエルは全イスラム諸国と、そしておそらくは全世界が戦う第三次世界大戦に突き進む可能性が高い。これはイスラエルもよく分かっている。

そこでこの不可能を可能にするのが、反キリストであると聖書の黙示録は示唆している。中東和平条約の実現、つまりユダヤ人にとってのエルサレムの平和とは、反キリストの時代にあり、それはクリスチャンにとっては艱難時代の始まりと同時に、本格的なリバイバルの始まりをも告げる終末の時を告げることになるものだ。
そして、おそらくは反キリストの偽りは、束の間の和平を吹き飛ばし、エルサレムは北を中心とする周辺の国々から攻められていく。第三神殿を願うユダヤ人の平和は、決して成就しないようだ。

では真のエルサレムの平和は、やはりイエス・キリストの再臨の時しかないのであろうか? その通りだと思う。ただ、この艱難時代の始めの三年半、おそらくユダヤ人のほとんどがメシアが実はイエス・キリストであったことがわかり、ことごとく悔い改めてクリスチャンになるはずだ。私たち日本人とかがクリスチャンになるのは、唯一の神とはどういう事か、聖書は・・・などかなり大変だが、ことユダヤ人に限って全然楽である。
なぜなら、もともと同じ神を信じている。ただイエス・キリストが本当にキリスト(メシア=救い主)であったこと、そして律法ではなく信仰義認を受け入れれば良いだけなのだから。

神の知恵と計画は、到底人知の及ぶところではない。だから私の思いなど浅はかなもので、後にそれを思い知ることになる。けれども愚か者の一つの道程として述べてみたい。エルサレムの真の平和は、ユダヤ人がメシアニック・ジュー(イエスがメシアであることを受け入れたユダヤ人=つまりユダヤ人クリスチャン)になることである。これは聖書で預言されている。
そうなればもはや神殿は絶対的なものでは無い。第三神殿を取り壊すか、あるいは神殿の存在にこだわらなくなるはずだ(クリスチャンがそうであるように)。そうなればこの聖地をイスラムとの共存のシンボルにすることが可能になる。私はまた、イスラムの人々が、唯一の真の神を求める願いを持って祈ってほしいと願う。
多くの人が再臨は混乱と争いの決着をつけるべく起きると思っているようだが、果たしてそうだろうか? そうではなく、地上に争いではなく、神の到来を待ち望む平和がもたらされており、つまりすっかりお膳立てができた上で、そしてラッパの音と共に、輝かしいキリストが再びオリーブ山に再臨され、エルサレムに入城されるのではないかと。

だから私たちの祈りは、再臨後の完全な平和である「主よ、来たりませ」と神の国の到来を祈り、またかつそれまで激しい争いが確実な舞台ゆえに、どうにか少しでもエルサレムが、血を血で洗うことにならないように、現実が平和的に推移して行くことを切に祈ることになるのではないか。祈りのポイントはユダヤ人のメシアニック化である。これは決してイスラエルという国だけを支援するのではない。なぜなら一方にくみすることは一方に敵対することになるからである。

ジャック・ヘイフォード牧師がビデオメッセージで「ユダヤ人とクリスチャンの親睦が深まっていること」がどんなに望ましいことかを述べ、繰り返し「ユダヤ人、アラブ人のどちらかが好きとか」では決してないと語られていた。それは神の定めたエルサレムの平和=ユダヤ教徒がキリストを信じて後のキリスト再臨まで、いたずらに血が流れることが無いように、一人でも多くの人がキリストを信じるように祈ることであると思いたい。また平和を願うクリスチャンは、神殿を再建させようとする反キリストに目を光らせ、反対することになるだろう。すると結局、艱難時代に迫害を受けることになるのかも知れないのだが。

エルサレムの平和のために祈れ。
「おまえを愛する人々が栄えるように。おまえの城壁のうちには、平和があるように。
おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」

[詩篇122:6-7]

ケパ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする