ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

殉教の舞台裏

2017年08月02日 | 
遠藤周作の小説がテーマの映画「沈黙〜Silence」のDVDが出るようだ。殉教をテーマにしただけに、いろいろな見方があって、キリスト教界においてその評価が未だ確定しない。私自身は高一の時読んだこの原作のせいで、入信が五年近く遅れたと思っている。しかしそれは必要な回り道であって、すごく神に感謝した。

この、「回り道」というのはすごく大切だ。例えば今のドルカスとの結婚も、もし回り道をしていなかったら、「あなたは全く私のタイプでなく、絶対に結婚していない」と断言できる。これはドルカスからも同じ事を言われてしまった。しかし回り道をしていたため、最初とまったく逆に、ほとんど知らない相手にもかかわらず、ただ神の導きの確認だけを求めて祈り、御心と結婚したのだった。
その結果は‥‥‥「神様、最高の恵です。あなたは私自身よりも私のことをご存知でした」と心から神をほめたたえ感謝した。


話を映画「沈黙ーSilence」に戻すが、長崎に潜入した若き司祭、 ロドリゴは捕縛されて長崎奉行所の井上筑後守の沙汰を待つ身となった。二十六聖人のように、キリシタンは死を恐れず、むしろ喜んで殉教し、その結果ますますクリスチャンが増えた。だから、この後期になると、殉教させることよりも転ばすことの方が最優先事項となった。どうやって転ばすか? そこに井上筑後の守のサタン的な恐ろしい知恵が働く。

ロドリゴに同じ囚われのキリシタン一団を司牧させ、深い関わりを養わせるのである。こうして情を湧かせ、慈しみ合わせておいて、ロドリゴに「お前が転ばぬから、すでに転んだあの者たちも穴吊り刑なのだ。転べ、転んであの者たちの命を助けよ」と。愛する信徒たちが、自分が転ばぬために次々と拷問によって苦しみ死んでいく‥‥‥
なんという卑劣で残酷な刑罰なのであろうが。


それで私は思う。こういうケースでなら、自分に死んで転ぶことにより、信徒を救うための転びもありではないか?と。もちろん、司祭の信仰は揺るぎなく、世の権力をもってしても個人の心の中に存在し続けているのだ。それが映画の最後のシーン、火葬におけるシーンだ。

今、群れでは「永遠のいのち」〜殉教が語られている。大切なことは殉教とは、人間の力で選べるものではないこと。神によって選ばれ、神が力を与え、天に召してくださったという視点である。

また別な視点で言えば、神への愛の一つの形である。洗礼を受けて父として神と交わり、その人格的な交わりの中で、揺るぎない神への愛が築かれた結果なのだ。

昔、子供時代、けんかは泣いた方が負けであった。子供だってけんかはしない方がいいに決まっている。しかしどうしても大けんかをしなければならないことがあった。それは自分の母の悪行を相手から言い始めたら、であった。「やーい、やーい、お前の母ちゃん出べそ」と言われた殴りかかかって行った。「それだけは言っちゃいけないよ」の不可侵のラインを破った相手がどんなに強くても、引き退るわけにはいかない。愛する親の名誉をかけて戦うのだ。


殉教もこれとよく似た流れなのかも知れない。始めただけのことだが、神を愛する者には、なんでもできるのだ。



ケパ





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