ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

沈黙(遠藤周作)ーSilence

2017年01月09日 | 映画•映像
英語でSilenceと言うと、①に静寂とか言う意味と②に喋らないという「沈黙」の意味がある。しかし日本語で「沈黙」と言うと、「黙して喋らない」という意図的な意味が’強くなる。

「沈黙ーーーSeilence」というマーティン・スコセッシ監督の映画がもうすぐ日本公開される。これは遠藤周作の歴史小説「沈黙」の映画化であり、ハリウッドの最高クラスの監督による原作に忠実な映画化であるという。個人的にはこれは日本キリスト教関係者にとって、未曾有の出来事であると思う。

ハリウッド映画というと、西部劇のように悪者VS正義というわかりやすい構図で描かれることが多いが、このアカデミー賞常連監督をもってしても、30年近くの年月をかけなければモノにならないほどの精神性が深く、突きつけられたもののようだった。それはそうだろう、主役のロドリゴはともかく、もう一人の主役に匹敵するキチジローをどう見るか、嫌悪すべきキチジローに己を投影し、キチジローに人間の弱さと神の視点をどう持っていくか? それは人類の永遠の課題だからだ。

小説「沈黙」に関して、私は平静ではいられない。確か高1か高2ぐらいで読んだと思うが、その頃の私は隠れキリシタンそのもので、親に隠れてはこっそり教会に通っていた。中1で読んだ「狭き門」で神を確信して15でやっと見つけた教会に通い始めた。親兄弟、親族はもちろん、近郷近在にキリスト教会は無かったし、家族にバレれば禁教令を受けてしまうのは肌身で知っていた。そんな中で、心の灯火のように聖書を貪り、神を求め、すでに心は信者であった。が、この作品は私を心胆寒からしめた。

「お前は、命をかけてまで本当に信じておるのか❓」
「もし生半可に信じ、それで転んでしまうぐらいなら、偽りの罪を犯すよりも信者にならぬがよい❗️」

私は怯えた。「お前は死ねるか」が何度も脳裏に何度もフラッシュのように光り続けた。卒業が迫ったある夜、末期ガンに冒された老牧師が私に、天国に行く前の最後の願いとばかりの勧め、「洗礼を受けませんか」を断ってしまった。その後、上京した大学で学生運動に挫折し、二十歳でバプテスマを受けたのだが、断った事の後悔はずっと尾を引いた。三十年経って、すべてが益とされる信仰、聖霊のバプテスマを受けて解放されるまでの、痛んだ過去と「沈黙」だった。

日本公開にあたって私は、この映画が原作に忠実というので、ぜひ次の諸点に注意して観ていただきたいと思う。映画でロドリゴが踏み絵を踏む時「踏むがいい‥‥‥‥‥」と聞こえたあの声は、神からのものでは決してなく、それはサタンもしくは本人の肉の声であるということ。それから、神がロドリゴに対して沈黙を守られたのは、ロドリゴの信仰がユダのような世的、肉的な神を引きずり落とすものであって、そのような信仰に神は答えられないのが当然であるということ。
この特に「神が答えてくださらない」というのは、神に聞き従う私たちの教会の群れでも、結構、問題になる点である。真に新生し、聖霊のバプテスマを受けなければ、困難なことなのだ。曖昧なままでは絶対済まされない土台であって、当時のカトリックにおいても、当然かなりの教役者(司祭以上)が、内住はあっても聖霊を受けていなかったのではないかと推察している。

次にキチジローについてである。キチジローへの見方は、信徒であるか、牧師のような教役者であるかによって、対応は異なるだろう。信徒としては裏切り者、軽蔑すべき弱さかも知れない。しかし己を厳しく吟味すれば、キチジローを責めるどころか、同じ弱さを持つ者としての哀しみを彼我に感じるのではないか。
牧師としてはどんなに自分を売ろうと、許し愛する人物である。だから踏み絵を踏まず、殉教できる人は、神に力を与えられ祝福された人である。己の人間的な力では、殉教は難しい。

さてここで見落としてはならないのは、聖霊の力である。ロドリゴは必死に神を求めたが、それはここまで尽くした自分のための神の奇跡を求めたのだったーー神は黙したままであった。殉教とは、霊が肉に勝る勝利であり、はかない現世よりはるかに勝る永遠のいのちが確かにあることの神の栄光である。やはり聖霊のバプテスマが決定的に重要である。それを裏付ける次の聖書の言葉がある。

✝️福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ1:13-14)


キチジローもロドリゴも、惜しむべきことに、聖霊のバプテスマを受けず、したがって神と交れず(=沈黙)、聖霊の力を知らず、聖霊の証印を得てはいなかった。その為すことは神からではなかった。使徒の働きに依れば、聖霊のバプテスマを受けないことは、初代教会からして大きな問題であった。聖霊のバプテスマが、初代一世紀だけのクリスチャン限定であるなどとは、聖書のどこにも書いてない。受けていないものが増え、自分たちの自己正当化のために、「あの時代だけの必要」で、「聖書がある今は必要ない」などと弁解し、なまじ教会で地位があるため、真のクリスチャンを迫害するーーこれはイエス様の受難と全く変わらない構図なのだ。

どんな時代でも神は不変である。つまり、この「沈黙」シリーズは、それが小説だろうと映画だろうと、聖霊のバプテスマを受けていない信仰者の、それがための(当然ながら)挫折した物語であることは、しっかりと押さえておかないといけない。聖霊を受けるなら、神の力を受ける(使徒1章8節)のだが。

聖霊のバプテスマがどんなに当然視されていたかは、まずもって聖書で確かめていただきたいと思う。ご参考までに三箇所をあげる。

1 ヨハネ伝20:20と使徒1:5 ・・・イエス「聖霊を受けなさい」これは信じていた人たちにであったこと。
2 使徒8:14-17・・・ペテロとヨハネが。
3 使徒19:1-6・・・パウロが。

最後に、gooのサーバーが不調で書ききれず、早朝にならないと記事をお届けできなかったことをお詫びします。

ケパ






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