ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

ムダな人生など、神を信じる者にはない

2016年08月06日 | 随想
最近とくに牧師として強く示されていることに、礼拝でのメッセージ(説教)について・・・。
シンプルに(つまり、ぶれずに)、イージーに(小学生でもわかるように)示された事を語るという事だ。私は約三十年小学校教師をした。小学校教諭にも専門があって、私は国語だった。だからつい、人の書き順や筆記具の持ち方などが気になる。

メッセージに関しては、私は仕事上、研究授業などをやり続けざるをえなくて、その事がすごく益になっていると感じる。つまり神学校での学びで、互いにメッセージし合って評価し合う講座があるのだが、そのためどうして辛口批評になってしまうようだ。決められた時間内で、対象を見ながらどのように展開して行くか、それは授業と恐ろしいほど共通しているところがあるのだ。良い授業とは必ずシンプルだし、全員が「わかった!」に到達できるイージーさの技というか、工夫に目を見張るものだ。

前の職業である教師が今役立っているのは、メッセージだけではない。牧会と言って、牧師としてどのように信者に接っし、どのようにフォローするか、そのことにも超役立っている。自閉症などのいろんな障害や集団の問題、幼いといえども人間関係の基本的な在り方。小学校教諭はおそらくこの世の職業の中で、牧師に最も近似した職業の一つではなかったかと感じる。すると大学卒業の際に献身するかどうかで随分悩み、結局は献身しない道を選んだ私だが、神は不思議な御手をもって導き、結局は無駄がほとんどなかった人生というわけだ。(※私は最初から教職を選ばず、3年会社に勤め、その後に教諭になった)

なおかつ言えることは、あの頃、熱心に燃えて信仰してはいたものの、神との霊的な交わりや牧師としての明確な召命もないままに献身し、牧者になっていたらと思うと、まさにゾッとする。それを考えるとこの人生が最善だったのだと心から思う。つまり神は、信じる者を最善の人生に導かれるのだ。

さて今は土曜日の夜。明日のメッセージのために主に祈り、語るべきことがらを示されて、シンプル、イージーに礼拝で伝えたいと心から思う。ケバ



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