ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

神が人に求められること

2016年08月01日 | 信仰
私たちの教会では、しばしば「(神への)聞き従い」が語られる。すぐ想像してしまうのは、イエス様は「主」で私たちはその僕(しもべ)だから、奴隷同然で、自分の意見を無にし、とにかく従うことだと。

しかしそれは違うと私は理解している。自分の意思を持たないのなら、ロボットと同じで、従うという意味に値しない。神様だってそんな隷従する人間が従ってくれても、電気スイッチを押して明かりが灯いたようなもので、至極当然で何の喜びもないことだろう。

そうではなく、肉にあってなかなか従えない者が、見えない神を信じ従うことこそ、神のこの上ない喜びであると。私が福音派からカリスマ派に導かれた時、真っ先に示されたのがこのことだった。従うとは「優先順位」に従って対応すること。つまり「従う」とは、血肉の体と心を持った存在である私たちが、肉の心を持ちながらもなおかつそれよりも神の御心、見えない神のご意思の方を選択することであると。これが最高に価値あること、サタンの敗北なのである。

このことをP牧師が「自分に死ぬ」ことを、「自分としては和食なのだが、子がカレーライスを食いたいと言えば、和食を我慢してカレーライスを食うことだ」と例えられた。聞き従いもこれと同じだと心に強く感じた。
ただ恐れ多くも一つ付け加えさせていただくなら、このことに、ただ我慢したというのでなく、喜びが湧いてくる。ますます神を愛するようになり、天の喜びが内に溢れて来るのだ。結果としてだが、神は応えてくださり、報いてくださる。

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11;1)
ケパ



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