ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

ピアノ~の話

2014年12月02日 | 示されたこと
ピアノの恩恵
確か小学三年ぐらいだったと憶えている。ある日、家にピアノがやってきた。DIAPASONというピアノで、弾いてみると、おそろしく鍵盤が重い・・・ある時これは、指の腱のトレーニング用なんじゃないか、とすら思えた・・・ピアノだった。
すぐに姉とピアノ教室なるものへとやられた。それまで面白がって叩いて、遊んだことを後悔したものだ。けれどもピアノの音は、大好きではあった。

さて、医師の娘さんによる練習は、間違うとむちで指を叩きかねない厳しさで、男子がたった一人の発表会の後、間も無くわたしは行かなくなってしまった。
不思議なことに高校生になって、またやりたくなって一年半続けたが、これもそれだけでお終いになった。いったい、ピアノがどれだけ自分の人生に意味があるのか、大いに疑問だった。
強いて言えば十数倍の教員採用試験のオルガン演奏実技で、合格に多少貢献したことだろうか。またパソコンのキーボードを打つのに、すぐ十本の指で入力できて、とろい私でも早打ちができたぐらいである。

ところが、四十年以上経ってである。主の十字架という教会に導かれてから、俄然必要になった。ここは、毎年新しい賛美曲が加わり、次々に覚え、歌う所だった。先ず曲を覚えるのに、メロディーを弾いて歌うのにピアノ(キーボード)が役立った。音程が怪しい私にとって、練習の必需品となった。

それだけではない。船橋の牧師となってからはなんと、コードを憶えて礼拝賛美の伴奏まですることとなった。路上とか礼拝では制限つきだが、弾き語りもする。まるでウソみたいな展開である。げに神の備えは用意周到で、その計画は計り知れない。牧師をすると、教員であったことも、おそろしく用いられている。こうしてみると、人生に無駄なところが何一つないことに気づく。

このように、神に心から従うならば、その人生は、神に大いに祝福されると確信できる。まだその実を見ていない人ならば、従う歩みを決して降りないことを強くお薦めする。それは確実だし、無駄にするにはあまりにももったいない恵みなのだから。 ケパ
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