久しぶりで電報を利用する事になった。インターネットで調べているケパさんの後ろから覗くと、祝電とか、弔電、誕生日とか、何々の祝い、などいろいろな文例があって、さらには文字数による金額の違い。そしてその文章を包む台紙がそれはそれは種類があって、さらに生花などを添える商品もある。
私たちはクリスチャンなので、きれいでも台紙の飾り物にはおもむきを置かない、言葉も決まり文句で長々と飾ることもしない。心を込めてしかし、言葉使いには気をつけて文章を選び手直しをして、さらに料金設定も考えこれがよしと!
そしてこれが最善だ^^と決定してenterキーを押したケパさん。
昔よく電話で申し込むとどうしても、相手側のペースに乗ってしまって、ついつい予算以上を選んでしまった。文章も他より際立つようにと考え、文字数を考えて書くのだけれど、ついついオーバーしていた。
このことにお金を掛けても、私の心が測れる物ではない。見栄だったり世間体だったりでしょうと、気がついたのは、私自身が弔電を沢山受け取って、事が済んだあとだった。 中には写真を飾るようになっていたり、メロディー付きなど、余りにも立派すぎて棄てられない。それを前にして、ため息つきながらむなしく思ったのだった。
送る人はそのようなつもりは無いと思うけれど、今の私の価値観はそのようものです。だから新しい門出の人に送る時も、辛い別れの人に送る時も、どのようなお祝いにでも、まず私は祈ることをお贈りしたいと思うのです。そうよね神さま・・・ ドルカス