ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

愛ってなに? 再考

2012年05月02日 | 示されたこと

  一昨日と同名の題でアップした。なぜかと言うと、肝心なことが抜けていると思うからである。

  「星の王子さま」では、王子さまの小Rose1さな星に一粒の赤いバラの種が落ちて、咲いて、それから いろいろな関わりがあって、特別な花になったわけだ。しかしそれでは、単なる偶然性に過ぎず、必然性がない。偶然性ではその偶然に恵まれなかった人や、偶然そこに生まれ育った地縁、血縁がすべての決定要因とされてしまう。そうなると人生が他律的で、意味あるものとなっていかないように思う。自分の人生が納得できないのでは、まずい。


   私という人間はどうも変わっているらしく、最初の妻とはこんな出会いをした。
   私は小学生のものごころついた頃から、自分の伴侶とはこういう女性だと、イメージ化していた。中学生になると、まるで生きていて、私のそばにいる存在であり、絵を描かせるとたちどころに描けたことだろう。だからずっと、ただ探し続け、待ち続けていた。神を信じる前のことである。
  ハタチの時、神を信じクリスチャンになった。その頃、ある日の礼拝が終わって、途端に賑やかになった会堂の後ろの方から、初めての聞く声だが、あのイメージの中でいつも聞いていた声、低いアルトを聞いた。その瞬間、それが肉の形をした私の伴侶だと分かったものである。戦慄が走るとはこのことである。恐る恐るゆっくりと振り向いて、目をその人物に移して見た時、まさにイメージそのままだったことに驚いた。その後七年して結婚した。このような出会いは、偶然とは言い難い。


  ドルカスの時はもっとだ。神の言葉がまずあった。それは家族が崩壊して、希望を失った私が今の信仰に導かれて半年たった頃だった。「あなたは結婚します」と。はじめは何のことやらわからなかった。しかし身を持ち崩すことからは守られた。何しろ、やがて結婚するのだから。その後、神の備えてくださる人生、神が導かれる相手こそが最善であることが明確にわかるようになって、相手の選択を完全に神に委ねた時に、「この人だ!」とされたのがドルカスだった。言葉があってから五年がたっていた。これには人間的な愛とか、偶然は全く無い。
  だから、ドルカスは私が選んだ相手ではなく、御心の相手というわけだ。これは素晴らしいことだった。「星の王子さま」は放浪の末、悲劇的なカムバックを果たす。「too late」(遅すぎた)の虚しさが残るが、私たちの場合、霊の一致が人間的な思いより優先して結ばれた二人なのだ。私達の人間の選択は、まったくの過ちだらけだが、神は違う。この世に体をもって創造される前からの、一つを二つに分けての互いであることがよくわかるのだ。だから、いつもその発見をする。神の導きを賛美する。「神様、あなたは素晴らしい方、あなたは完全。あなたに従う者は失望することがありません。」
  御心の結婚は、ただ感謝、感謝の二人であり、生活なのだ。

  必然は偶然に勝る。   (ケパ)

 

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