ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

放蕩息子の話から

2012年05月29日 | 聖書

Church_08  聖書のルカによる福音書の15章11節から、有名な「放蕩息子」の話がある。
 ある所にふたりの息子がいて、弟の方が財産の生前贈与を求めて、その財産で放蕩し、結局みじめな思いをして、父の所に帰ってくると言う話である。

 小学生の頃、私は何度も入水自殺を試みていて、すべて未遂に終わったが、生きていくのが辛かった。そんな私はまったくの仏教の家に育ちながら、一冊の本でキリスト教の神が自分の求める神であることがわかった。その時まだ12歳だった。
 けれども教会というのが、一番近くても20数キロ離れていたので、高校生になってからようやく教会通いができるようになった。高校時代は、神のことばを学びに毎週熱心に教会に通ったという、つくづく変わった子どもである。
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 ところが大学生になってはじめの2年間、ナント学生運動をした。学外ではヘルメットをかぶってデモり、大学封鎖では立て籠もった。あの第四機動隊にヘルメットを割られた経験もある。今思い返せば、ノンポリ学生を日和見と切り捨て、有頂天になって自分の青い屁理屈に酔っていた。封鎖が行き詰まってようやく目が覚め、神に回心した訳なのだが、この2年間はまさに神から離れた放蕩の時代であって、人生の汚点だった。

 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」Hymn_34

 今60歳になってから、この汚点のような自殺志願の小学生時代と、共産理論を振りかざしていた2年間を思い出すと、恥ずかしくて正直、穴があったら入りたい。しかしながら実は、これら放蕩をしなければ、どんなクリスチャンになっていたか?と思うと、先の御言葉「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ことが分かるのである。
 つまり「死にたい」と言う人の気持ちが分かることや、年頃になって自分がもう二度とそのような気持ちになることはなかったということ。また人間中心のヒューマニズムの偽善性に、体験的に気づかされたということである。人間の本質は自己中心という罪なのであって、人間そのものに希望がないと言うことを知った点である。キリストの十字架だけが、罪に染まった哀れな人間を救うことができる。

 神を信じる者にとっては「すべてのことが益とされる」この恵みを、多くの人と分かち合いたいのが私の心からの願いである。 (ケパ)

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