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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

老いてますます希望に生きる

2014年07月04日 | 示されたこと

 いつの間にか、50代をとうに越え、どうどうたる?60代になっていた。自覚はないが、どう見ても若い人からは、灰色髪の「おじいちゃん」の部類に入りそうだ。年甲斐もなく青年ともテニスで勝負しているが、自分がもはやあたらしいショットと覚えたり、パワーある打ち方ができるとは考えてはいない。ただ私はサービスが得意なので、困った時はサービス頼みで切り抜けようとする特徴は変わってはいない。しかしそれもだいぶんあやしくなって来ている。衰えは隠せない。

 いずれにしろ、運動はしないよりし続けた方が健康や体力、ひいては気力に大きく影響すると思うし、終末に役立てるように示されているので、やり続けているのだ。
 

 体が柔軟性を失い、体力の低下を感じるのは、おそらく50代から60代であろうと思う。人はこういうとき、何を、どう思うのであろうか。この逃れ得ない人生の下り坂から人は何を学ぶのだろうか。

  それは自分の体がやがて朽ち、先祖のように灰になっていくことの準備なのだ。現に私たちの年代は、親を暫時看取って行きつつあり、次は自分たちの番だと認識させられている。避けられないこの死について、あなたは「できるだけ考えないようにしている」のだろうか?それとも「そんな、死を考えさせるような暗いことを言うな」と、気分を害されるのだろうか?Heaven_23


 今から4年前になるが、私は死を覚悟した。ほぼ「進行性の結腸ガン」だと診られ、私自身も自分の諸症状から「100%そうだ」と思わざるを得なかったからだ。覚悟したその夜、私は「ついに 来るべきものが(予想よりずいぶん早かったが)来た」と思うと同時に、喜びがこころに満ちあふれた。たとえこの世で、やらなければならない己の計画が未遂であったとしても、それはもうよい。天の愛する父、神に会える喜びで興奮した。

 死ぬこと以上に希望が優っていた。死は恐くはなく、出産のような一時のもので、それから生まれる新しい生活に希望が高鳴った。「信仰があってよかったね」ではない。これは、その時確信した、私に起こった事実だ。

 体が衰えて行くにつれ、体が滅んだ先にある、神の国が近づいてくる希望がある。だから老いを見つめ、受け入れることが出来る。失礼だが読者の皆さんにお願いしたい。あなたは、老いの先にある避けられない事実に、いつまで目を背け続けられ、生きている間にしかできない「イエス様を信じる」という、せっかくのチャンスを棒に振ってしまわれるのだろうか!

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ福音書 11:25)    ケパ

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聖会前夜

2014年06月16日 | 示されたこと

20140617b  いよいよ明日はGiftsのゴスペルコンサートと船橋カリスマ聖会。そのための準備をドルカスといろいろとする。案内板やチラシ(右はその一つ)の作成と大量コピー、スタッフの飲み物、スケジュール表、各種連絡調整など。メッセージの準備もだ。しかしそのために一番大切な祈りを犠牲にしてはならない。

 


 と言う訳で、これからの時間、祈りを持って行くことになっている。明日のメッセージも心配だが、何を語るか、それは祈りの中で示されることだろう。
 祈り・・・・これこそ私たちの生活の中心であり、ちょうどそのことを本日の早朝でも示された。

 

 「何か願い事ばかりをしようとするのではなく、<主はすPhotoべてをご存知なのだから>主にゆだね、静まって神と交わり、黙して神の御心を聞こうとすることが大切だ」と。

 

その通り・・・・だ。私の特技は悔い改めだ。だからさっそく特技を活かして、「神に聞こうっ」と。  ケパ

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自分の「嫌い」感情について

2014年05月24日 | 示されたこと

 ときどきタイトルのような、「嫌い、嫌」という場に出会う。他の人とか自分の心に。そんな時、私の子どもから青年期を思い出すのだ。
 たとえば小学校で入院していた時、見舞いに来てくれた友だちを、自分がなんだか哀れまれているようで、嫌で嫌で、そうそうに追い返した。今思い返しても穴があったら入りたい、最低の子どもだった
T_img_3417と思う。また青年期まで、とにかく他人の欠点を見つけ、批判しないではおられない実に傲慢不遜な人間であった(と過去形で言いたいところなのだが・・・・)。

 でもドルカス流に言えば、三度目の成人式などかなり過ぎて思うに、原因は次の二つであったと思う。一つには「(求めても)愛されていなかった」こと。そして自分の存在の小ささ、逃れようもない自己否定の感情から、「嫌う」という自分以外の他を否定する条件反応をしていたことだ。だから私は子どもの時から「探し求め ての旅」をした。プライドふんぷんの自分と、どうやったら仲良くやっていけるのか、と。

 このような「嫌い」感情にとらわれている人は、自分の経験から言って、悪い人ではないのだが当然感情の浮き沈みが激しい。みずみずしい感性があると美化して言いたいが、実は周囲の人にとっては、いつも気を遣って配慮していく必要のある存在なのだ。また自分を守る為の「嘘」も、忍び込みやすい。

  今私はこのような「嫌い」感情から、ほとんど解放されたと思うが、どうしてか?まず自分自身を受け入れることができたからだ。親がダメなら異性に求めた。しかし所詮、人に求めてもそれはムリというものだった。なぜなら求める前に、まず与えるということができていなかった。いやその前に、相手を真に知らず、愛さず、自分勝手に作り上げた愛に酔っていただけのダメ人間だった。だから求めても、自分を与えたと思っていても、空回りしたのは当然であった。

 人は自分が愛されるということに、全存在がかかっている。愛されていないから自分を愛せないし、愛してくれない世界を嫌い、憎む。世界中の誰がそんな人を愛せるだろうか?敵意が置かれて、いきおい、傲慢にもなるし、プライド高くなる。どうやったらこの縄目、苦しみから逃れられ、自分を愛せるようになるのだろうか?

 昨夜、TrueVineが歌った曲のほぼすべてに、その答えがあった。「永遠の愛であなたは愛されている・・・・曲:永遠の愛」「あなたのことを、真に愛してくれる人(神)がいるから、泣かなくていいよ。あなたの存在は尊くて美しい。あなたは愛されている・・・・曲:Lay Your Burdens」などなど。私は聴きながらあらためて、この神の愛にしか答えはなく、解決もなかったことを思い出していた。だいたい世界を、人間を創造した本
Dove_67 人(神)が、人間の為に人の形になってまで自分を落とし、裏切られあり得ない苦しみの十字架に、<この自分のために>かかってくれた・・・・愛。
 愛されて人は、その愛されている中に自分を受け入れ、自分自身を愛することができるようになる
 。あわれでみじめな自分だが、それでこそ神の愛、あわれみが豊かに注がれる原因になった。なら、これでいいんだ。この情けない自分は、神のあわれみの愛をゲットした勲章なのだ。これで私は解放され、進んで自分の恥と愚かさを証言する者とされた。神の愛がすばらしいために、もはや自分を愛する必要まで感じなくなった。たとえ体の死がやって来ても、これを奪うことはできない。永遠の愛なのだ。   ケパ

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競走

2014年04月26日 | 示されたこと

 土曜日の今日、船橋市の運動公園に寄る機会があって、ちょうど市内の小学校陸上競技大Photo会が開かれていた。写真はその一コマである。以前はまさに当事者であって、休日を返上、子どもたちを率いてその成績に一喜一憂していた。 だから現役の時代を思い出し、気楽な気持ちで見ていることはできなかった。

 このスタートのシーン、実はフライングでやり直しとなった。で今思い出すのは、聖書の次の一節である。
「競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。(Ⅱテモ 2:5)」


 私たちも世にあって、神から与えられた使命を立派にまっとうして走りきらなければ、神からお褒めの言葉に、その栄冠にあずかることができない。   ケパ

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ゼロつづき&死にきれない不幸

2014年01月12日 | 示されたこと

 夏に宮崎駿の「風立ちぬ」を見た。第二次大戦での名戦闘機「ゼロ戦」の開発リーダーだった堀越二郎にちなんだ映画である。「こんな映画が出きるほどに、戦争も回顧できるようになった」、そう感じた。
Photo ところがこの度の「永遠の0」である。ゼロ戦を作った人の映画に、これはゼロ戦に乗った人の映画である。なんという偶然だろうか。しかもこの作品は徹底的に当時の戦争というものの時代を「証言」という形で綴りながら、「風立ちぬ」とは真反対の形で、生きるということを描いた、強いメッセージ性のある映画である。

 私は二回もこの映画を観たし、原作の文庫本や漫画本を買った。命をかけて戦う者には、命をかけてまで守るものがあった。当時としては公にあまり口にはできなかった、「家族」のためにがこの映画のテーマなのだ。家族のために生きようとしたが、最後はその意志を部下に託しながら、散っていった教え子の分も締めくくるように自分も特攻死で精算した。

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Silent  私は特攻について論じる資格は無いが、話はかなり変わる。高校生の時、遠藤周作の「沈黙」を読んだ。ちょうどクリスチャンとして洗礼を受けようと思った時だった。しかし、もしクリスチャンになって迫害に遭ったら、自分はあの神父のように転ぶかも知れないと怖くなった。転ぶくらいなら、いっそ信じない方が罪が少ない。そう思ったのだ。

 大学生になって、少し学生運動をして、そして挫折した。それでもう一度神を信じることができたのだが、「死んでまで信仰を貫けるか」はずっとふたをしたままだった。
 それから30年も経って、深刻な悔い改めをし、神の声を聞き、新生を体験して・・・・・いっぺんに吹っ切れた。「神はほんとうに生きておられる!」そのことがわかったとたん、死を超えられた。
 どうも人間って、大切なものを見つけたら、そのためには死ぬことができるのだ。「永遠の0」での宮部久蔵もそう。逆に自分の命が惜しい人は、自分の命以上のもの、その存在を、まだ見つけることができていないで、死にきれないのだ。これは不幸だ。   ケパ

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権力に近づくと言うこと・「利休にたずねよ」から

2013年12月26日 | 示されたこと

Photo

  映画にもなっている、表題の「利休にたずねよ」(山本兼一著)を読んでみた。どうして今頃「千利休」なのか、気になった。知りたいだけなので、すぐ読めて本より安く、処分に困らない電子本は都合が良い。

 読み進めていく内に、わび・さびの世界を小説にしようなどとは非常に難しいことで、所詮、男女の肉的なもの、権力と暴力にストーリーが落ちてしまうのはご愛敬だった。ただそれを、いかに名品の知識と「わび、さび」風のカムフラージュをして、風情を装わせるのか・・・・そんな風に見えた。

 学ぶこともあった。戦時には武人が命をかけて戦うが、平時には茶(今でいう外交)を通して、武人ならぬ茶坊主たち(=今で言う外交官・・・・+僧侶、商人たち)が戦っているのだ。
 中でも時の権力者と結びつくと、たちまちに栄華を得ることになる。しかし同時にそれは、恐ろしいことでもあるのだ。

 北朝鮮の金正恩氏も、この本による「秀吉」もそうだが、権力の体現者と結びつくことは、同時に平時の戦いではあっても、敗れれば惨めで過酷な運命が待っているのは同じだ。利休自身も、あれほど秀吉に重用されながら最後は処刑された。北朝鮮でNo2だった張氏も同様である。権力は自分に勝る者、超える者をゆるさない。

Photo_2
 聖書を読む限り、イエス・キリストは権力に魔性が伴うことを知り抜いていた。そして時が来るまでは、ご自身がなさった驚くべき癒しや奇蹟を、受けた人に対し、大きく吹聴しないよう注意を与えられていた。しかしながら、当時の宗教的権力者である祭司長や律法学者たちの偽善ぶりには腹が据えかねてのことか、幾度も安息日の癒しをあえて行われた。

 この結果イエスも処刑されたが、イエスは権力者に近寄り、おもねって殺されたのではなかった。かえって彼らの偽善をあばき、正されたために殺されたのだ。彼らは、自分たちをはるかに凌ぐキリストを、受け入れることはできなかった。しかしキリストは死からよみがえって勝利をとられ、神の右の座に座られている。

 権力や表舞台、ひな壇に近づく時、それは本当に神に聞き従っての無私のことであるのか、それとも自分が用いられたいためなのか、自分はどちらなのかよくよく吟味しなければならない。たとえ世の権力者からどのような処分、迫害を受けようとも、たとえ殉教しようとも、神に聞き従ってことなら肉体の命に優る永遠の霊の勝利者なのだ。

 ゲッセマネの園で、神に聞き従ったイエス・キリストに続く者の結果は、天と地ほど異なった酬いがある。   ケパ

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静かに話ができるレストラン

2013年12月20日 | 示されたこと

Photo_4  つい数日前、時々使っているレストランでささやかなお祝いをした。もちろん心からお祝いしたのだが、この日はいつになくレストランそのものに気づくことが一つあった。

 

 それは目の前に置かれたロウソク(写真)、ではない。このロウソクは水で満たされた瓶の中で、直立して浮上しており、ロウが減るとその分だけ自重分が浮かび、いつも最適な炎を演出している優れものだが、このロウソクにではない。

 実は天井の高さのすばらしさに気づかされた。それはこのレストラン、着座時には満員だったのに、どういうわけか人々の話し声があまり気にならないのである。確かに方々で話がはずんでおり、ふだんならざわめく、時に「うるさいなあ」と思える人混みのはずなのに、どういうわけか声がこちらまで響かず届かず、何か途中でスッと小さく消音されている感じなのだ。不思議だ。

 

 そこで気づいたのだが、天井の高さ(写真)なのだ。このレストラン、やけに天井が高い。このレストラン、通常のようなビルの中にあるのではなく、レストランだけのこだわった建物であり、一階は入り口と駐車場、二階以上がレストランである。目立つこの建物には二階建てでしかないが、十分三階建て以上の容量がある建物だ。二階は中央から窓際に向けて半分のフロアーには結構な段差があって、平面から変化をつけた、立体的な客席になっている。特筆すべきは天井の高さで、これは高い斜めの屋根裏へ、一気に吹き抜け構造になっている。つまり人々の談笑のボリュームは、横にではなく上へ上へと上がって行き、上方の大空間で吸収されてしま2っているようだ。だから満員のお客でも、互いの声がよく聞こえるし、全体の声も響かないのだ。

 

 ヨーロッパの教会の建物は天井が高い。パイプオルガンや聖歌隊の声は、いったん上に上がり、次にたてに長い天井を這って他方に行く。そうすると音の位相差が生じ、独特の残響音のある、いわば荘厳な音になる。このレストランは教会堂のような高さはあっても、位相差を生じさせるような長方形ではなく正方形に近い。だからすべての音が上方で混然し、抵抗のない小さめの、その場の環境音にされているのだと推し量られた。

 

 私たちの船橋キリスト教会が将来、大きな会堂を持つとしたら、このような音にも御心の、細心最適な音になるようにと、その時祈らされた。   ケパ

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自分を守ってしまって、メッセージを見逃す

2013年12月09日 | 示されたこと

Calldec  今朝のことである。少々寝ぼけ気味で、ぼーっとした起きだちの身をソファーに沈めると、そのとたんに、猫のコールがいつもの通り私の足めがけて噛み攻撃してくる。普段なら私にもその意味がわかるのに、今朝は寝ぼけていたのか噛み攻撃と受け取ってしまい、避けているとだんだんコールも本気になって噛んでくる。それで少しだけ反撃をしたり、足を毛布でくるんで防御に徹してしまった。


しばらくしてとドルカスが起きてきて、「餌が欲しいのよ!」とコールに餌を与えた。小躍りして餌にありつくコールを見て・・・・・「(∋_∈)シマッタァ、そうだったのかぁ」と後悔しきり。「どうして自分は、それがわからなかったのか」と。


 自分の守りに入ってしまうと、主人たちが起きてくる朝まで、いっしょうけんめい空腹を耐えていたコールのメッセージ「朝ご飯をちょうだい」にいつまでも気づかない。コールもよけいに必死にいつも以上に「噛んで」行かざるを得ない。険悪な状態になってしまった。

 これとよく似た人間の出来事を、わたしはこれまでいろいろと経験してきた。教師をしていて、子どもの暴力や意地悪、いじめなどの多くは、この種のできごと・・・・子どものサイン・・・・であった。はじめは子どもの声にならない声、その本心の訴えに気づかないで、さんざん空しいモグラ叩きをしてきた。その累々たる屍(しかばね)の上に、ようやく気づくようになった。問題行動を罰することは簡単であるが、ただそれだけに終われば、問題をさらに根深い大問題にしてしまうものである。罰ではなく、すべての土台に「愛」が前提でなければ、解決は難しい。

 今朝もであるが、自分にはその愛が乏しいことが最大の課題である。唯一の救いは神を信じる者であることだ。自分には「愛」がなくとも、神には無尽蔵に尽きない愛がある。自分はその愛を流す「通りよき管(くだ)」であればよいのだ。キリスト教教育のミッションスクールの意義はここにあるはずだ。自分を守ってはいけない。自分はどのようにされようと、たとえ傷つけられようと、その行為の背後にあるメッセージを真摯に受け止める者でありたい。ただ神の力によって。   ケパ
 

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偏っている自分に気づかない

2013年11月27日 | 示されたこと

  自分の体で、困っているとか、ちょっと手間が要って面倒というようなところがいろいろあるものだ。私の場合、吸盤足というか、足の裏の多汗が気になっていた。夏などは日に何度か靴下Foot を替えたくなるし、その靴下はすべて五本指ソックスである。もちろん靴、ソックスもメッシュタイプが多い。電車でもレストランでも、少しの時間ででも靴を脱いでいたくなる。 家の中を素足で歩こうものなら、コロコロ粘着ートみたいにホコリを吸着してしまう。

  最近のように寒くなって乾燥してくると、この悩みから解放されてホッとする。ところがドルカスは逆に、この時期からひび割れなどで悩みはじめる。私にはまったくそういうひび割れなどがいっさいないので「足して二で割ればいいね」と笑って、ハッと気づいたことがある。「困りものの足の裏でも、冬場にはそれが良いところもあるんだ」と。また最近はiPhoneなどタッチパネルで操作することが多い。「タッチしてもなかなか反応しないわ」と困るドルカスを横目に、こちらはスイスイである。

  嫌だとしか思わないので、その長所にはなかなか気づかないことが、どれほど多いことだろうか。教師をしても、我が子を育ててみても、子どもの欠点ばかりにほとんどの目を注いでしまい、良いことがあることに気づこうとしない。これは著しくバランスを欠いた視点ではないか。良いところもちゃんと見つけ、公平に自分を見つけよう。そしてこの体をつくってくださった神様に感謝をしよう。   ケパ

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船橋の源

2013年10月27日 | 示されたこと

  水の起源というものは、とても意味のあるものだと思う。Photo

 

  今現在、私の住むことになった所は、祈りと聖霊のあふれる泉になる示しが与えられている。聖書では「いのちの水」が時の来た時、エルサレムから流れ出て、地をうるおすとされている。

 

  船橋に赴任が決まった時、市の中心部と東西南北の最端点まで歩いて行き、そこで賛美して祈り、聖書による神の言葉の宣言をしたことを思い出す。さらに同様なことを、市内にある主な施設を洩れなくした。そして今回、源である。この度は水の「源」へ行くことになった。

  

  「船橋」の名前の由来は、市街地の中心を流れる海老川が今よりはるかに大きく、橋を建てるのが困難であったようだ。そこで、川に小さな舟を数珠つなぎに並べ、船の上に板を渡し、橋の代わりにしたことから「船橋」という名がついたらしい。それなら、と今回、その当時の人々に親しまれた海老川の水源地に行って祈ることにした。

  

  結局、海老川というのは下流のなまえであって、三つの小さな川が一緒になってできている川だった。その中でももっとも長く、奥深い川をさらに調べることにした。・・・・・・苦労して探し当て(写真)て、とうとう判明した。その結果、川はなんと里山のきれいな流れが水源かと思いきや、団地また団地の谷間にある排水の調整池から流れ出る所・・・・・それが源であった。Photo_2


  私はよろこんで、臭気のただよう水源で賛美し、神の言葉を置いた。また私は、船橋という地域に対し、ますます伝道への意欲をかき立てられたとも言える。昔からの遊郭や遊興の地、今でも盛り場は非常に多い。

  また二つの競馬場や競輪、競艇などがある町でもある。船橋の港は東京湾の最北部に位置する。そして源はかつてはきれいな水だったかも知れないが、今は排水川である。このような地こそ神の前に悔い改め、キリストに拠って立つことで、驚くべき変身をする地だと思う。なぜなら、キリストが「多く許された者は、多く愛する」と語られているのである。その町が船橋であると。   ケパ

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