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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

神の愛

2013年10月22日 | 示されたこと

 夫婦で外泊を伴う場合、いつもコールを動物病院に預けて行く。だから普段の外出と違って、戸口を出るときコールの見送りはなく、ようやく帰って家の玄関を開けても、コールのお出迎えは無い。人気の無い自宅に入って、少し淋しい思いをすることになる。

 

 たかが猫一匹と言うなかれ、そういう時にコールの存在の大きさを特に感じるのである。確かに、猫は役立たずな存在である。トイレで紙が無くなって困ったとしても、コールに頼むわけにはいかない。それどころか基本的に妨害者であって、自分の「食う・寝る・遊ぶ」を人を使って満足させるのが仕事である。しかしこの何の役にも立たないコールから思い知らされるのが、「神の愛」だ。

 

 コールがやってきて3年。最近ではコール語をかなり解するようになり、表情や仕草でもだいたい要求や意思疎通ができるようになった。以前も猫を飼っていたのだが、これほどの理解はできなかった。この違いはなぜか?単純だが、関心を持ち続け、見続けているからだ。つまりそれは、愛しているからだ。

 

 私は聖書からビッグ・バンからはじまる全宇宙の誕生は、それは地球というかけがえのない一つの惑星を創るためであったし、その星に人という肉と霊とのハイブリッド被造物を置くためであったと理解している。おそろしく壮大なお膳立てである。
 神を信じない人々は、宇宙とその中にあって希有な地球のいう水が包む奇蹟の星、あり得ない生命の誕生、何億年かかけての進化という実に絶対あり得ないことを信じている。ダーウィンは牧師の息子で、聖書と肉の父と天の父に反抗するために進化論を唱えた。が、中間的な種は存在しても、何一つ種を超えるものは未だ人類は発見することはできてない。たといそうでも神の創造を否定する人は、進化論を信じる以外には地球と生命と人間の存在との拠り所が無いのだ。Photo

 

 神と人との話に戻るが、これほどまでに神がお膳立てしてくださったのは、ひとえに私たち人間を愛してくださっているからだ。そのために神の独り子イエス・キリストまで世に送られ、十字架に架けてまで愛してくださった。罪から逃れられない人間をあわれんでの、愛ゆえの(償いの)行いに他ならない。どこの宗教に、神々に、教祖がこれほどまでのむごい死に方をしてまで、自分を犠牲にされたところがあるだろうか?
 コールは私が自分を愛してくれているのはもう当たり前であって、実に好きなことをする。腹が減ったりして、思う通りにならなければ
噛んでくるし、排出の世話をするのは当然風である。私たち人間は神にとって、コール以上の存在である。少なくともコールを私は創り出せないで、ペットショップで買ったのであり、時々えさを切らして噛まれてしまう。神は創り、私のようなうっかり忘れは無い。

 

 私たちはめとり、飲み食いし、好きに振るまっているが、神の愛を当然視し、無視している。神は愛によって忍耐されておられるが、いつかご自分の愛に気づいてほしいと願っておられることを私は知っている。高慢な人間には難しいだろうが、人生で弱くされた時がチャンスである。愛に気づき、悔い改めて父なる神の元に帰ってほしい。

(写真はケパの足にくっついて眠るコール)  ケパ

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テニスからも学ぶ

2013年09月26日 | 示されたこと

 18歳までの私は、いつも本を小脇に抱え、図書館と本屋にばかり居て、書いては消し、読んでは眠りの、誰の目からも「青なり瓢箪」だったはずだ。だから運動すると、まるで時代遅れのコンピューターか蛍光灯のような所作だったと思う。
 大学に入る時、私には一つの決心があった。「脳みそまで筋肉」と遠ざけていたスポーツに、人生最後のチャレンジをしよう、と。これはごく内輪にいつも語るのだが、最初「硬式庭球部」室に入っていくと、みんな私を見ない。連続して三日通った時、初めて先輩が私に口をきいてくれた。「おまえ、隣の『ESS』と間違ってきてるんじゃあ、なかったのか!」と。なんと言うことか、私は間違って部室に来ていると、何日間か思われていたのだ。それほどスポーツとおよそ無関係の風に見えていたのだ。

 でも私は、それからテニスに夢中になってしまった。夢になんども自分の
Photo プレーで目が覚め、また壁と芝がかなりはげるほど、壁打ちの鬼になっていた。その後何年かして昔の仲間とバレーをする機会があった。しばらくプレーした後、彼らが寄って来て、私を取り囲み、しげしげと見て「おまえは本当に中村か?」と訊ねるのだった。別人に見えてしかたなかったらしい。

 テニスを始めてすでに43年以上も経った(写真は今日の対戦相手たち)。18歳の時の、あの決心がなかったら、「私はどんな人間になっていたのだろうか」とふと、そう思うこともある。テニスがあればこそ、私は目先の勝負に勝つとか負けるかと言うことと、その先にあるものを見続けることができた。真の勝ちは相手ではなく、自分自身に勝つことなのだ。それは自分の持てる力を出し切ることであり、出し切らせてくれた相手への感謝である。だから強い相手を、恐れながらも待ち焦がれるのだ。

・・・・・<ここからはクリスチャン向けです>・・・・・

 私たちの群れに今、「Self-image(自己像)」の学びが投げかけられている。肯定的な自己像を持つことこそ、信仰に矛盾しないばかりでなく、クリスチャンとしての成功と達成感があるという主旨だと私は理解している。確かに戦いの時に、自己を肯定的に見る、有為なものとして位置づけないと(つまり自信を持ってないと)戦う前にすでに敗北している。しかし逆に、試合後は反対である。自分を肯定するのではなく、たとえ勝ったとしても戦略の反省とか、メンタルな面での反省は尽きない。勝って喜ぶなどということはない。問題を見つけ、次回には繰り返さないように心がけるのだ。

 信仰でも順番は逆だが似たところがあり、悔い改めなど試合後のような反省とか訓練があり、その上に神からの(この「神から」というのが信仰の信仰たるところなのだが)肯定的評価と勝利が与えられるのだ。すべては神の器として、神の栄光を現し用いられるための、聞き従いの道程なのだ。まず自分に死に、己があってはならない。著名なスポーツ選手は一様に謙遜であるのと同じだ。つまりこれが「Self-image」の学びとどれだけ共通しているのか、それが今最大の関心事で、祈っている。  ケパ

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人生の成功とは

2013年08月28日 | 示されたこと

 初めに急に得た相続財産は、終わりには祝福されない(箴言20::21)。

 

 これは聖書の言葉である。ここでの「財産」もそうだが、「幸せ」「成功」「栄誉」など何でも当てはまると私は思う。若い内の財産はためにならない。美貌や人気も同様である。むしろ不幸であるとすら思う。

 

 私はイケメンではない。本当は性格の方に問題があったのだが、とにかくモテるということとは無縁God_49な人生だった。それが幸せだった。ドルカスと結婚できて、幸せだと思い、当然他に目が向かない。これだから昔から、異性関係で過ちを犯したことはなかった。もしイケメンだったら誘惑が多く、意思の弱い私は罪を犯したことだろう。これは牧師として、幸せである。

 そんな風に見てみれば、出世コースに乗りながら出世できなかったこと・・・・・退職して地位を失っ
てから、へりくだりへの、つらい下り坂がそうとう緩和された。現在のあらゆる肉体の衰え(目・耳・歯・運動能力などの老人化現象)・・・・・・命尽きるまでに、神からの使命を果たす残り時間、つまりチャンスの有限時間を知らせてくれている・・・・・・などなどすべてが幸せにつながって行くではないか。

 決定的に私は祝福されていると思うのは、実は死後の世界、これを最高の希望だと託しているからである。イエス・キリストを心から信じる者は、これが目当てで生きている。だから内村鑑三が娘の死を「万歳・ハレルヤ!」と言ったように、死は\(^O^)/ヤッターなのである。実際クリスチャンの葬儀に行くと、みな笑顔で逝っている。

 「初めに急に(つまり自分の力ではなく)得た財産は」、実は不幸の始まりなのだ。    ケパ

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牧師になる方法

2013年08月15日 | 示されたこと

 今日は昼からなつかしい杉並のテニス仲間と、たっぷり4時間テニスを楽しんで、その後、東府中の駅前で懇親会を持った。会えばいつも率直で楽しい会話がはずむ仲間だ。わたしはこのようなノンクリスチャンとの自然なつきあいも、大切な伝道の機会だと示されている。

 

 ところで4人の話が煮詰まったところで、話題は個人的な話になる。わたしが抜けた後、仲間に加わったらしい方(今日初めて会った)から、「早期退職までされて、どうして牧師になったのか?牧師になるには、どういう道があるのか?」と質問をいただいた。もっともな質問である。

 

 そこで「普通は神学校を卒業して、それから教会に招聘されてなりますが・・・・・・、ならない方もおられます。牧師は神さまからの召命がないとなれません」と答えた。「召命」がわかりにくいと思ったので、「神様がある人に、あなたは牧師となってわたしに仕えなさい」と語られることだと説明した。しかしもっと怪訝な顔をする。やっぱり「神が召す(人に語って自分の働きに用いていく)」ことがPhoto_2、理解の壁になっているようだ。

 

 わたしも二十歳からのクリスチャンであったが、もし自分自身がしたような召命の説明を受けたら、さすがにクリスチャンだから意味は分かるものの、「怪しい・・・・うさんくさい」と感じたと思う。まして今日の彼はノンクリスチャン、わたしが真顔で言うので、非礼なことをしなかっただけだと感じた。

 

 しかしキリスト教の土台である聖書自体、神からの啓示を受けた人の手を通して書かれた書物である。そこに描かれている三位一体の神とは、アブラハムに語りかけ、ヤコブと相撲をとり、モーセに語り、紅海を渡る奇跡を起こさせた神である。新約聖書に至っては、神ご自身が人となり世に下ってあらゆる奇跡と癒やしをし、多くのことを語られた。創世記には「言葉は神であった」とさえ言っている。
 だから神は、最初の人であったアダム以降、常に人に語られる存在である。まずそれを信じなければならない。クリスチャンであっても、過去のわたしのように信じていなければその声も聞こえるはずがないのだ。しかし信じたとき、わたしは聞くようになった。「主よしもべはここにおります。お語りください」とサムエル少年のように。

 

 もし神の召命なくして牧師になったらどうなるか?それは考えるだけで、恐ろしいことである。どんなに熱心に教会に通い、信仰を持ったとしても、この召命だけは神の計画でありご意志であるので、自分の希望や理想を捨てて、ただ従うことが最善なのだ。今日の新しいテニス仲間には、伝えきれなかったことだが。 ケパ

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心に愛がなければ

2013年06月30日 | 示されたこと

心に愛がなければ
心に愛がなければどんなに美しい言葉も相手の心には響かない。

 

これは市場の某食堂(魚の煮付けが,超美味しかった)の壁にあった教訓である(写真)。

 

その通り大切だ! しかし、と思う。では愛は、どうやって豊かにするんだ・・・・
辛い経験や悲しみを山ほどして、それで少しは、人の痛みが分かる人間になれた。とても他人事とは思えない経験も、少しはある。しかし私の根本にあるのは自己愛であることは、本当だ。

 

私は祈っている。私には無い愛の心を、主イエスの十字架の愛、神の愛が満たし溢れて行くように。これは真剣に、いつも祈っている。  ケパ

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キャットタワー

2013年06月11日 | 示されたこと

Photo  二軒の家(うち、一軒は仮住まい)をようやく一軒にあたらしく統合した暮らし。やはり落ち着いた暮らしができるようになって、心から神に感謝している。ただそれぞれにキャットタワーを置いていたので、なんと二つのキャットタワーが立つことになった。それはまぁ、良いのだが、もう一度この家で立てようとして二週間、大きな難問にぶつかっていた。

 それは、それぞれに部品が足りなかったり、逆に余計あったりしてどうしても元のようには組み立てられない。「え-っと!元はどうなっていたんだっけ?」まるで超難関のパズル状態で頭をひねるばかりであった。

 昨日とうとう製造元に問い合わせ、組み立て図をFAXで送っていただいた。そしてわかったことは、どうも他の余っている部品1つを、もう一方に回せば何の問題もないらしいことだ。
「そんな、馬鹿な」
 そういう思いだったが、実際にやってみるとはたしてその通りだった。なぜ「そのようなことはありえない」と思ったか。それぞれ別々にあったのものなので、きちんと異なる運び方をしてきた。混ざることなど考えられなかった。しかし事実は混ざっていたのである。これは推量だが、おそらく引っ越し業者が何らかの理由で外れて落ちていた部品を、異なるタワーに取り付けてくれたもだと想像できる。想像もしていなかったことだけに、眼前の事実になかなか気づいていなかった。

 私の人生においても、思い込みでかなり失敗してきた。結婚は好きな人とするのが1番だとか、お肉を食べて元気になる、パソコンはウィンドーズがよいとかetc・・・・これらは、みな間違いではないだろうが、私の場合、少なくとも失敗だった・・・・・。人間の思いとか、良かれとか思うことが本当に良いものか、それとも自分の選択があてにならないものであることを認識するのか?

 実は信仰は、自分自身が当てにならない存在であることを認識することから、絶対者を探すところからはじまるのだ。  ケパ

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新しい住まい

2013年06月02日 | 示されたこと

  Worship_44 船橋に引っ越して、十日あまりが過ぎた。途中広島へ帰らなければならなかったので、実質一週間だ。だいぶん片付いてきたが、まだ段ボールはたくさんある。引っ越しというと、いつもわくわくしていたが、今回でそれも最後だと思うと、単なる珍しさでは済まず、かなり本気で地域を見ている。

  だから私は、通り行く人々の顔が気になる。幸せな顔、疲れた顔、不満そうな顔、輝いている顔etc。そんな風に見ていると、地域の特性なのか、なぜか「怒りっぽい顔」が多いように感じる。それだからこの船橋の地に、神様の愛と恵みを伝えるために 脳天気な私たちが遣わされたことは、みこころだったとあらためて感じる。 ケパ

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ツツジが咲く頃、せつに祈ること

2013年04月30日 | 示されたこと

Tuzuji  今年もツツジが咲いている。東京の方が故郷広島より、ずいぶん早く咲いているような気がする。たぶん当たっているだろう。広島では5月のゴールデンウィークがちょうど見頃だった。

 ツツジの花咲く季節になると、決まって思い出すのは、青年時代、教会の仲間と瀬戸の音戸に観に行ったことだ。平の清盛が、陸と島との浅瀬を開いて海運に寄与したと言われ、わたしはこの高台のパーキングからツツジ越しにらせん状の橋と海峡を観るのがなぜか好きだった。

 桜は春を知らせるがおおむね、まだ寒い時期だ。日本人の季節感はせっかちで少し早とちりだと思う。しかしツツジは、ほんものの春のさ中で咲く。春の暖かさを堪能できるうれしさがツツジにはあるからなんだろうと思う。(写真は今日の蚕糸の森公園)

 いつも不思議に思うのだが、植物には目も耳も脳みそも、もちろん時計とかカレンダーとかネットや携帯は無い。それなのに彼らは実に正確に時を知り、咲くべき時に一斉に咲く。どのようにして「時」を知るのだろうか?大不思議である。
 もちろん植物も神が造られたのだが、この緑の生き物をまずもって地球に生えさせられた。どんなに人間や動物が「動けるぞ」「脳みそがあるぞ」と威張ったって、食物連鎖の最下部は例外なく植物であり、酸素の製造も植物に依存している。いわば頭が上がらない相手なのだ。

 人間社会においても、もっとも下働きの人々こそ、その社会の成否を決める、教会においても、牧師や伝道師というプロより、普通の教会員がどんな信仰をもっているかの方が決定的に重要だ。新しく教会に来た人々は、指導層も見るだろうが、その結果である信徒の有り様こそ「論より証拠」で見抜けるからだ。それは生命の土台、植物のように、大きい。だから教会員一人一人の信仰が堅くされ、実際的にも幸福にされ豊かになれるよう、心から神に祈る。また教会としての有り様は「互いに仕え合える」教会形成だと思う。 ケパ


 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。(ガラ 5:13)

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人と生きるよう造られた動物

2013年04月25日 | 示されたこと

 わが家に猫がいる。以Call4前もいろんないきさつがあって猫を2匹飼っていたことがあるが、今は住まいのサイズとか、夫婦そろって家を空けることが多いので、1匹だけである。すると夫婦の視線は、いつも人間の庇護を必要とする猫に集中することが多くなり、猫の方も構ってもらう相手がほかにいないので、いつも関わり合う濃密な関係である。(上は最近のコール。キャットポール台上で)

 それで以前にも増して猫のことを知るようになったのだが、これまでは犬より自立型(あまり手はかからぬが、気分屋の薄い関わり)的な存在だと思っていた。ところが今はだいぶん見方を変えた。すばらしい人間のパートナーである。深い関係にもなれる。

 今はコールの「ドアを開けて」「餌がないよ」Calldorcus「遊んで」とかが即座にわかる。それだけでなく、しだいに目つき一つで、ほぼ何を考えているか分かるようになった。たとえば「ベランダの外へ連れて行ってよ」「あの高い窓の上に行って、いつものように景色を見ていたい」「ボクは今日は外出したくないよ、連れて行かないで」というぐらいの、ちょっとだけ複雑な意思の疎通である。

 こうなるともう、猫は完全に家族の一員で、いつも周波数を合わせて生きるようになった。いつも一緒に寝て、食べて、休む。関心を集めて止まないコールのおかげで、夫婦間喧嘩も余り目立たなくなっている。こんな猫を造ってくださった神さまに、感謝します。

 ・・・・しかし、コールの愛情争奪戦には敗れたケパ(>_<)でした 

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「不幸せ」って、どうして分かるのか

2013年04月17日 | 示されたこと

「不幸せ」って、どうして分かるのか
  このポスターは、電車に「13才で結婚、14才で出産、恋は、まだ知らない」のコピーで貼られている、要は寄付を募る広告だ。 確かに先進国日本で、もしこんな事があったら大問題だろう。だから有効な広告だと思われているのだろう。
   しかし、例えばインドとかでは、全くおかしいことではなく、普通なことであるはずた。つまり民族や文化、あるいは価値観の違いから来る幸福観の違いを全く無視している。 広告主は、日本人から「えーっ、恋も知らないなんてかわいそう!」を期待してるようだが、恋を知らないから不幸だとは、絶対に言えないと私は思う。 これは七年もの恋を成就させた幸せな結婚と、その没後、恋と言うより使命を第一にした結婚をした私だから言うのだ。

 

  人間は愚かで、自分と言うものが実は1番分かってない。だから使命婚の妻との、はためにはいわば愛なき結婚が、どれほど祝福され豊かにされたかは、想像を大きく超えていた。その恵みは語り尽くせない。 だからこの手の価値観の押し付けは実に一面的で、妙に引っかかるのだ。
 

かつてチェ・ゲバラが南米の最貧国ボリビアで、その「貧しさ」にゲリラ決起を期待して立ち上がったものの、ボリビア国民は全く反応しなかった。結局不発に終わった彼は終焉を迎えたのだが、これも貧しさ=不幸を読み誤った固定観念の例だ。幸せは、富や金で買えるわけでなく、恋を成就させたからあり続けるわけでもない。目に見えない魂の、霊の問題なのだ。capha

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