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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

夏の雲とセミと

2017年07月21日 | 示されたこと
今日の昼過ぎ、東の空に、真っ黒い雲がニョキニョキと現れた。(写真はやや空が落ち着いた時間。)

それがおどろくほどまっすぐに立つ雲で、「ああ、夏の雲(黒い積乱雲)が出た」と自覚する。

そう言えば、夕方帰るとセミの死骸をドルカスが見たと言っていた。やがてその鳴き声を聞くようになるんだな、と。でも、今日はヒヨドリの鳴き声を聞いた。大きめの体に似合わず可愛い鳴き声であった。

一昨日の激しい雷も、夏の到来を私たちに教えてくれた。


みなさま、夏が来ました。



ケパ




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終末が近い

2017年07月10日 | 示されたこと
NHKなどではずっと、国会中継を流している。いやでも今国会では官邸関与をめぐって、二つの問題(森友学園、加計学園)がにぎやかである。政敵を倒すために言質取りの党利党略の限りを尽くしているように聞こえる。聞いているうちに、井の中の蛙の合唱のようでどうでもよいような気がしてきた。不正をないがしろにしていいわけではないが、国会なのだから、北朝鮮などより重要な日本を取り巻く喫緊の世界情勢、国家百年の施策があるんじゃないの?と思う。

こうして日本が平和ボケしている間に、実は世界は確かに終末に向かっていると思うことがある。たとえばアメリカのトランプ大統領である。かつてアメリカはこんな了見の狭い、近視眼的な人物を選んだことはなかった。アメリカは唯一世界の超大国である。第一次も第二次も世界大戦では、アメリカを味方に引き込んだ方が勝利を得た。
アメリカに刃向かったアフガニスタンやクウェート、イラク、リビアの国々はあっという間に滅ばされた。テロリストで9・11の首謀者ビン・ラディンも、結局はアメリカ軍のシールズによって抹殺された。同様にISISも国としては今終焉を迎えつつある。

しかしこの営々と築かれてきたアメリカあっての世界秩序の舞台、それをなんとアメリカ自身が自ら退場する道を選んだのだ。トランプを選んだから。それで合点したことがある。終末を語る聖書に、どういうわけかアメリカの記述がなかった。以前からそれが不思議であったが、トランプの登場によってそれが裏付けられたと言えないだろうか。世界は確実に混沌へ向かい、世界は新しいリーダーを待ち望む。こうして(おそらくはEUから)反キリストが登場する新たな舞台が徐々に整いつつあるのだ。(廃墟と化したイラクの街)

起こることは避けられないが、もし9・11や3・11が予測できたなら、その被害は驚くほど防ぐことができただろう。聖書で語られたことはことごとく成就してきたし、これからのこと・・・・・終末の時代への予告や預言も多く記されている。
終末の困難な時代の正確で正しい道しるべは、聖書しかない。聖書は平易な文で書いてあっても信仰の書だから、その内容は信じない者が読んでも、ちゃんと受け取ることは困難だ。確かにこれから起こる驚くべきことが聖書には記されている。それゆえ信じ従う者には、終末のどんな困難にも、聖書に従ってあらかじめ祈り備えることができるのだ。

特に週末はリバイバルの時代でもある。死に優る恵みを持って歩むクリスチャンの証の時、収穫の時が近づいている。




ケパ





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すべてが益になる

2017年06月05日 | 示されたこと
私はパソコン関係の相談をよく受ける。主に親族や教会関係からだが、微力でもお役に立てればうれしい。
私はもともとが文科系で本が好き、書くのも大好き人間だから、コンピュータが得意なのは突然変異である。というか、黎明期の三十年以上前からのパソコンを個人で持っていて、ずっと使ってきただけのことなのだ。
当時は今と違ってパソコンは「閉じこもりの根暗」とマイナーに見られ、自分的にも「これが何の役に立つのだろうか?」と疑問に思っていたのだが・・・。また、仕事で文書を作成した時、一太郎というワープロで作り印刷して持って行くと上司から「心が入ってない!」とバッサリ切り捨てられた。今では考えられないことだが、デジタルとかコンピュータとかを毛嫌いする人もいた。今は牧師という仕事に必須であり、また少しばかしの友人たちに役立つことができて、心から感謝している。

また、最大の試練、困難が最大の恵み、益となったこのことを触れずにはいられない。前妻の心の病との長い戦い・・・が、今はどれだけ益になっていることか、神の計り知れない深謀さに脱帽し、心から神に感謝している。
家庭も仕事も、意に反して何もかも壊れかけた時、まず私は、人生で何が一番大切であるかと言うことを知った。それで献身をし牧師に導かれた。それは見える世界ではなく霊的な世界が開かれたことによる。つまり求め続けていた聖霊のバプテスマをついに受けた。そして教会を求めると、神は全く耳にしたことのない「主の十字架クリスチャンセンター」へと、その日のうちに導いた。これらのことは人を通してではなかった。

すべてのことには、神の時がある。それが最善なのだった。神を愛する者には、何一つ無駄になること無く、すべてが益とされている。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)


ケパ





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すべてデジタルの時代へ

2017年05月15日 | 示されたこと
今の時代は、かつて経験したこともない数字のデジタル時代だと言っていいのではないだろうか。

最近私はFacebookをごく短い時間乗っ取られたが、調べるとそれは怪しげな日本語を使う某国からものもののようで、結局はLINEのプリペイドカードを買わせて儲けようとしたものであった。しかしどんなに乗っ取られようと、それでスマホを止めようは考えられない。(乗っ取られて、大勢の皆さんに配信されたメール)

例えば電車の中、みなさん一様にスマホに目を落とし操作している。朝起きて一番先に手を伸ばすのもスマホである。そしてどこに行く時も、寝る時まで片時も離せない。あらゆる知識と情報、人とのコミュニケーション、はてはテレビやゲームなどの娯楽に至るまでスマホである。言い忘れたが、スマホとは、非常に小さくなって通信機能をも兼ね備えたマルチコンピュータである。

おそらくこれから先はスマホの存在はこうなるだろう。一人の隣人のように私と会話し、執事や召使いのようにスケジュールを知らせ、実際の道案内だけでなく人生の選択の案内をしたりするようになって行くはずだ。つまりAI(人口知能)化が極度に進んで行く。すると車を運転すると逮捕され(自動運転が安全なので)、自宅でバーチャル(仮想現実)なショッピングを済ませることになる。もし私が法を犯せば、瞬時に私の居場所と顔判別で行動が照会されて容疑が固まる事になるのだろう。劇的な防犯対策となる。

結構なことばかりのように思えるが、私にはこのような時代が次のような大きな問題を引き起こしているように思えてならない。

失われていったもの。
◯生き甲斐、働き甲斐、作る喜び、リアリティ・・・。
◯家族、両親が共に力を合わせて働きの場と支え合い。
◯顔と顔を合わせてのコミュニケーション能力。

次に現れてきたもの。
◯物欲、収集欲の虜になる。
◯あらゆる心の病と発達障害の顕在化。
◯人間関係の希薄化と民主主義の限界。
◯ポピュリズムというかつての衆愚政治。

これからの世界はデジタルという究極の便利さが来るだろうおが、しかしその行き着く先の社会は、そうそう明るい世界ではなく、自然環境の悪化と共に何か、黙示録的な時代が来る夜明け前なのかも知れない。
ロボットに奪われて人の働き口が少なくなるだろし、所得の格差が強まる。愛が失われ冷たい心の世界となって行く。本当にやって来そうな予感がするが、ただクリスチャンであれば、暗い夜道の電灯のようなものがあって、それほど心配しなくても、神という導き手がいるので安心である。




ケパ








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アネモネ

2017年04月07日 | 示されたこと
一昨日の水曜礼拝は、いつになく特別な礼拝になった。先ず十年以上在籍していたドルカスの卒業証書授与式が行われた。次に水曜礼拝がはじめてオンラインで流された。これはたまたま、マイクの音質改善のために導入したプリアンプの調整テストを兼ねてのものだった。

次にメッセージのために調べている中で、ピリピでパウロたちの宣教を妨害した占いの女奴隷・・・・そのことをふくらませて物語りにして書いた日本人牧師がいて、なぜか私はその本を買いたい気持ちにさせられたことである。アマゾンで調べると、ほぼ送料だけで手に入る文庫本だったのだ。

その本は早速今日届いた。そして二つのちょっとした事が起こった。この作者である牧師は、私が大学院時代に通っていた教会の牧師であったことだ。それで「ヘエーッ」と驚いていると、ドルカスが「これも愛でてね。アネモネの花」と言う。ナント目の前の聖句入りの一輪挿しに、昨日までつぼみだったはずの咲いた花があって、アネモネらしき花(私はかなりの植物音痴である)かあった。何でもベランダの鉢にあったものの、強風で折れたのでさしてみると咲いたのだそうだ。これには連続して驚いた。

偶然はないので、このことの御心を祈って、ぜひ説きあかしを聞きたくなったわけなのだ。

※花言葉には注意しなければならないが、参考までに意味だけ。アネモネは、ギリシア語の「anemos(風)」に由来し、(英語での別名は、Windflower)。早春の風が吹き始める頃に花を咲かせるゆえだという。

ケパ




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信仰とスポーツ

2017年03月04日 | 示されたこと
☆錦織のコーチ、マイケル・チャン
錦織選手のコーチであるマイケル・チャンは16歳でイエス・キリストに従う明確な信仰を持ち、わずかこの数ヶ月後の17歳で全仏のチャンピオンになった。その授賞式での言葉は「主イエス・キリストに感謝します。イエスなしでは、私は何者でもありません」だった。(全仏当時のマイケル・チャン)

☆信仰とスポーツ
スポーツにおいて、大切なことは「勝つ」意志である。が、「勝つ」という明確な目標は、信仰者にとって一見、ふさわしくないように思える。だいたい、「敵を愛せよ」の精神に反する(笑)。それはともかく、勝つためには二つの方法しかない。すべてルールの範囲内でのことだが、第一に、自分の力を出し切って打ち勝つ。第二に相手の弱点を攻めて勝つ、これ以外にはない。

☆クリスチャンのメンタル
何もテニスだけに限らないと思うが、勝敗に関してはメンタル面が非常に大きい。力に大差が無ければ、勝利への意志力で八割方決まる。そしてそれは、眼前の争う相手というよりは、自分との戦いであると私は思っている。その時、クリスチャンの恵みを受けている。

☆最後の最後まで
恵みはいろいろあるが、一つだけ述べてみよう。
まずもって第一に勝負する者は、自分を信じなければならない。戦う前から「相手は強い」と恐れたならば、それは95パーセント敗戦する。実際にたとえ形勢が不利でも、マッチポイントの瞬間まで、必ず逆転できると信じ続けなければならない。あきらめた時、その瞬間、勝負の決着がついた時である。私はその瞬間まであきらめない。なぜなら負けたくないというより、集中を終わらせたくないのである。(ただ集中する)

☆感謝し集中する
クリスチャンは普段から自分と戦っている。自分の肉的な心とである。生活のすべてに神の恵みとあわれみを見出す。その上ですべての栄光は神、主のものである。
だから私は、自分を信じなければならないシーンではいつもその状況を感謝し、ただ集中することだけを祈っている。もし勝てたらそれは神の力であり、もし負けたら、それも神のゆるされたことであり、そのことにも大切な意味がある。すべてが益にされる(ローマ8;28)。だから勝負にこだわっているように見えても、実は感情やメンタルにブレが、ほとんど生じないで済んでいるし、勝てても主に栄光、負けても謙遜にそのことから学んでいる。「次に対戦する時、この相手にはどう攻めるべきか」と。力を引き出してくれる相手を、すべてを感謝している。

☆最後に
私たちは終末のリバイバルに召されている教会である。その時、むろん神によって力が与えられるが、普段からも肉体面、精神面においても訓練されている必要がある。クリスチャンのスポーツはそのやり方、方法は色々であろうが、ただ「備える」という一点において有用であると信じる。



ケパ



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窓ガラス拭き

2016年12月30日 | 示されたこと
晴天に恵まれ、年末掃除で、前から気になっていた窓ガラスを半年ぶりにきれいにした。
やる前はガラスの外の汚れが気になっていた。マンションの二階以上なので、少し危険な作業である。しかし無事に外を拭き終わってみると、今度は中の、内側の汚れが見えてきた。外ガラスをきれいにしなければ、内側の汚れなど、全く気がつかなかったことである。

他人のことを厳しく批判をする人がいるが、そういう人に限って、自分のことが見えていない人が多いように感じる。見えていないからこそ、辛辣な批判ができるのだろう。私がクリスチャンになるきっかけは、学生運動でノンポリ(=運動に無関心)学生を批判し見下していたのに、その運動に挫折したからだった。その時、自分の愚かしい内側が見え、逃げ回ったガード下から星々の運行を見上げ、ようやく宇宙万物を創造された神を受け入れることが出来たのだった。

ルカ伝の6:41には、
†---あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか---とある。

人を批判し、受け容れない人は、結局、自分と自分の周りの人をも不幸にしている。あらゆる問題を外ガラスの汚れのせいにして、自分自身の内側が見えていないのだろうと思う。だから神は、愛する子への試練をお許しになる。ただし、内側の汚れに気づき、それをどうするかは、その人次第なのではあるが。

最後に批判に似ているが、以て非なるものがある。それは愛する者をいさめ、忠告し、建徳する言葉だ。神と神に属する者は批判に受け取られることを恐れずにこれを告げる。
ケパ




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昨夜は

2016年11月19日 | 示されたこと
横浜の聖会に行って来た。
最近は姉を助けることをしながら、しっかりと恵まれて帰って来る。
日没が早くなり、すっかり暗くなったけど、湾岸線を走る夕闇の時が、とても美しい。助手席から景色をみるのも恵み。

会場の技能会館は、横浜の古きを知る事のできる展示物もあってね。早めに着いたのでちょっとうろうろしてた。

最近は義兄さんがいつも聖会にも来ているので嬉しいね。

姉のショートメッセージは、
上田教会に遣わされる前の父の思い出からの証しメッセージ。偶然このメッセージであるのではないのだけど、(2008年3月号の雲虹に証しがある)
昨夜は上田から来られた方があり、

姉自身メッセージに、神様のご計画があるすばらしい事を、思わされた事だろう。

一つ一つ、神の計画があることを感謝した。ドルカス


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老人の自覚

2016年08月31日 | 示されたこと
いよいよ明日から九月で、暦上は秋が始まるわけだ。台風一過の今日は、心なしか風も秋の気配を感じさせる。

ところで九月生まれの私が、遂に高齢者の仲間入りする日も近づいている。高齢者=老人のことでもある。日本では医療の確保に関する法律、およびそれに付随する各種法令で、65~74歳までを前期高齢者、75歳以上を後期高齢者」と規定している。
つまりテニスのシングルス対決で若い人と対戦すると、これまでの親子レベルの対決から、爺やと孫との対決にシフトしていくわけだ。これは体の衰えの自覚も多少はあるが、戦意という気力の方がちょっと萎え気味にならざるをえない。とは言え、これからも「年寄りの冷や水」と言われようと、爺ちゃんは頑張って若者の壁となってチャレンジするつもりだ。

日本はダントツ世界一の高齢者国という統計が出ている。そのためか年金額も、それだけでは生きていけないレベルである。五十代になるまで体の衰えは自覚しなかった私だが、さすがに五十代の後半、特に六十代になってからの体の衰えをたいそう感じるようになった。これは個人差があるとは言いつつ、自分がなってみなければ分からない性質のものだ。

私はクリスチャンなので、肉体が衰えれば衰えるほど、天国への希望が反比例して高くなる特典がある。「国籍は天にあり」なので、本国に帰れる喜びが強くなるわけだ。天国ではこの不自由な血肉の体とおさらばして、御霊(みたま)の体という超素晴らしい永遠の体が与えられる。滅ばないので老いることなく、子孫を残す必要もないため、性もない。サタンがいないので、苦しみや悲しみ、罪なども生じない。言語は一つで、食べたり飲んだり、自由な往来も出来る。全ては自由意思で喜んで神を崇め、称えるために生きる。まさにアブラハム以来四千年、神を信じ、いのちの書に記名された人々と共に暮らすわけだ。
素晴らしい天国という神の国へ、皆さん一緒に行きましょう。 ケパ
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キリスト教徒のお墓

2016年08月24日 | 示されたこと
昨日訪れた墓苑は、神奈川県のやや奥深い所に位置し、全体がなだらかな丘陵地帯にあった。施設は驚くほど広く、美しい公園風の墓苑でもあった。アメリカ人でもあるハワイ系二世が創業者と言われ、宗派を問わないというより、明らかにキリスト教に配慮した墓苑となっていた。創業者もクリスチャンであったのかなと思わされた。(写真は亡き妻に花を捧げて)
ここではキリスト教信徒のものや、教会所有の墓地が、左手の一角にずらっと集められていて、名の通った教会名のものが並んでいた。見た限りではカトリックのものはなく、プロテスタントの墓苑のようでもあった。墓標などもいろいろな形に趣向を凝らされていたので目を惹いた。
いずれ私たちの教会も、ひょっとしたら墓地が必要になるかも知れないので、少し参考までに見て回った。その中でも私が非常に気に入ったのは、特異な十字架の形そのものと、十字の入った自然石風のこの墓標だった。皆さんはどっちが良いと思われるだろうか?
またもし、私の教会でも作るなら、どんなものが良いだろうかと、想像をたくましくしてみた。聖書そのものを墓碑の形にしたものがあったが、それはデザイン的にイマイチであった。かと言って十字架では月並みだし、カトリックのような像、キリスト像はもってのほかである。うーん、難題である。やはり神に聞き続けて行くしかない。

ケパ
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