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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

神の声に聞き従う注意点

2020年06月12日 | 示されたこと
私たち聖霊派のクリスチャンは「聞き従い」とよく言います。もちろん、神の計画に従って、その働きを担うことがクリスチャンの最大の使命であり、喜びです。地上でのイエス・キリストもその語る一言ひとこと、そのワザについてまでも徹底して神に聞き従われました。ですから師にならう私たちクリスチャンも、同様に神に聞き従うのは当然です。

ただ注意すべき点が二つあるのではないでしょうか。


一つは聞き従うことが、イコール人に従うことと同一視されている場合があることです。個人崇拝は偶像崇拝につながり、カルトそのものになってしまいます。その場合、その人は神から聞けていないので、吟味することができていないからだと考えられます。したがって、自分は本当に聖霊のバプテスマを受けているのかどうかを確認されてみたら如何でしょうか。確信に立つことは大切ですが、誤った確信は砂上の楼閣、避けなければなりません。

もし聖霊のバプテスマを受けた確信が無いのであるなら、当然ですが、聞き従いは不可能です。熱心に求めていただきたいと思います。それは、みこころですから、叶えられます。
私の場合、聖霊のバプテスマは長い年月かかり、高名なエパンジェリストとかが来日すると欠かさず集会に行きましたが、そう簡単には受けられませんでした。それにはお一人お一人、整えられての最善の神の時があるようです。個人的に罪の深さと惨めな己を知らされ、ただ神にのみあわれみを求める、砕きが伴うようです。その点、私はあまりにも罪深く虚栄心の塊で、そう易々と恵まれるものでなかったのは当然ですし、そのことを今では心から感謝しています。

次なる注意すべき点ですが、当然ですが聞き従いは、すべて聖書の枠内であって、聖書を土台としていることです。一例ですがヨハネ伝とかエペソ書のように、聖書の神が聖霊様を通して語ってくださっているのです。開かれて間もない時ならともかく、祈り親しんだ神の語りかけならば、聞き間違って結果的に多くのことが実現しなかった、間違っていたということは、基本的にあり得ないことです。
それは神と自分の肉の声が入り混じっているからです。神からさも聞いたようなことを語る前に、それは聖書から見て祈りつつ、妥当かどうか、謙虚にチェックをするべきです。間違って言うなら、それは受け取り手の問題(吟味責任)と責任転嫁をするのではなく(それも打たれる原因になりますが)、今一度神だと偽ってしまった言葉への悔い改めを、相手と自分とにしなければならないでしょう。一度放った言葉は、そのままでは決して消去されるわけではありません。天に記録されているのです。

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神学校

2020年05月08日 | 示されたこと
今日は神学校です。
金曜日の学びは二科目受講します。


最初に、海外宣教2
この授業は、海外宣教に出るために必須の学びです。1.2を学んで初めて、実践宣教チームに加われます。更に宣教師として海外に示され出て行く為にだ必要を学びます。

今日は、iPadを使って受講しました。

神学校を卒業した後にも、この学びは必須です。いつでも宣教に行く為に学んでいる必要があるのですね。


今現在TLEAから、アメリカはNewYork、Los Angeles、San Diego、Denver とチェコ、イスラエル、ザンビア、カンボジア、ブラジルへと遣わされています。
更に全世界へ出て行くと言うビジョンが語られてますから、これからも出て行くでしょう。

そして2時間目には、この群れの特徴でもある、「預言」を受けます。
✝️コリント第一 14章を開きますと、

愛を追い求めなさい。
また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。
聖書 新改訳2017 参照

と、書かれています。TLEAではこのみ言葉から愛を追い求める事と同じように、賜物である預言を、熱心に学び求めています。
ですから、学びの時間には実際に預言をして行きます。
今日も30回預言をしました。

ドルカス   








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Instagram

2020年03月17日 | 示されたこと
このケパドルブログは、2010年10月から書き始めましたので10年ですね。
目標は毎日必ずどちらか書こうでした。
二人で書くので何とか続いてますが、毎日はやはり欠けてしまう。

それでもやっぱり続けるのは、読んでくださる方がいる事の励みがあるからです。
感謝します。

さらにブログは他の分野へと、導かれ、礼拝メッセージをまとめたブログ「ケパのメッセージ」と、船橋ゴスペルクラブ「ピースフル」   の活動に関するブログが有ります(こちらは今動きが無し)
さらに、教会員の日々を綴るブログの準備中

また、別口で、Facebook、Instagram
を書いていますが、こちらは動画が使えるので便利です。
Facebookでは、礼拝配信を中心にですね、また、日常の自然を動画や写真に収めてます。

Instagramもぜひご覧くださいね。


今は特に、お弁当話題ですね〜。

今日はお知らせブログでした。ドルカス   



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聖餐のパン

2020年03月06日 | 示されたこと
教会が引っ越して、聖餐のパン作りを新たにI姉に奉仕をお願いした。
久しぶりにパン作り講習〜

と言っても。私も久々に作るのだけれどね。
今日は180gの全粒粉をこねて二人で作って冷凍保存する。
まだ少人数なのでこの大きさで充分。
わずか8g程の丸めた全粒粉

既にこの奉仕もされたことがあるので、中々いい感じです。
一枚を実際小さな専用フライパンで焼き、試食会〜写真撮り忘れました。
しっかりと焼いてパリパリで、私好みかな〜
これからどのようにか焼いてくださるのか楽しみです。焼き方までレシピにはありますが、後はお任せです。

あっ ネットでオンライン礼拝される方の為にレシピ貼りますね。参考になさって下さい。


因みにぶどう酒は、赤玉スイートワインを使います。昔は赤玉ポートワインと呼ばれてましたね〜そしてワインの飲めない方用には100%のぶどうジュースを探しましょう。

ドルカス   



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エデンの東と親子関係

2019年11月12日 | 示されたこと
親子の関係とは「大草原の小さな家」のように麗しいものがあれば、同時に手の施しようがないほど、こじれ愛憎入り混じったものがある。その例を言うなら「エデンの東」がある。


私はこの映画で一躍スターになったジェームズ・ディーンがあまり好きではないし、悲しい映画だ、の記憶しかなかった。しかし聖書のエデンの園の話はあまりにも有名だし、楽園の追放を意味するこの映画には、聖書に対するかなりの造詣が必須である。だからいくらクリスチャンでも若い時にはこの作品のメッセージ性がまだよくわからなかった、と言うのが本当だろう。

【本題】
聖書の話は置いておいて、要はこれは親の愛をめぐっての兄弟の相克の映画である。聖書の通り、アダムの息子キャル(カレブ=カイン)はアロン(=アベル)を売春宿の実母に引き合わせ、心の傷を負ったアロンは折からの第一次大戦に応召して戦死してしまう。戦地行きの列車で、頭でガラスを割るような自暴自棄アロンの姿を見た父のアダムは、ショックで脳梗塞なような半身不随になってしまう。


聖書と違うのはこの後、キャルがアロンの婚約者アブラの取り成しで、楽園追放される寸前で父から「そばに居てくれ」と許しを受けることである。



私は歳を重ね、七十近くなり、映画の父役アダムよりもさらにひと回りぐらい上になってしまった。そこで思うことだが、親子がうまくいかないとかの問題は、第一に親と子のどちらが悪かったという不毛の論はさておき、不仲、うまくいかないことに勝者がいないことである。子の不従順だろうと、親の育て方が悪かろうとともだ。

勝者とは親子の対立、問題を克服して仲良く助け合い、共に暮らせることにある。だからそのためには、たとえ親が子に膝まづき、詫びてでも互いの平和を勝ち取ることである。十字架の神の恵みを受け、互いに許し合って、心のわだかまりを解くこと、これ以上の祝福がどこにあるだろうか?

親たちよ、プライドを捨て、詫びてでも実質を取りなさい。


聖書 新改訳©2017創世記 4章7節
"もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」"


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見えなくされている

2019年11月04日 | 示されたこと
この前、出がけにiPhoneが見つからなくて大変だった。最後の手段、私のiPhoneに電話して音を探した。何のことはない、さっきまで座っていたテーブルの上に、紙一枚を挟んで鳴っていた。
iPhoneのように答えてくれれば良いが、さっきまで使っていた消しゴムとか、クルマの鍵は困る。消しゴムは転んで物陰に、クルマの鍵は何とその時履いていたズボンのポケットにあった。

そう言えば私の母はいつも探し物をしていた。おそらく人生の何分の一かの時間を探し物で浪費してるんじゃないか、そう私は見ていて思ったものである。しかしその息子の私も、徐々にその域に近づいているようだ。

探し物で思うことは、神様のことである。見える世界だけしか信じない人、「神なんていない」と思っている人には、神はいない。霊、魂もないと思ってれば、それらも無い。目をウロコか一枚の紙が覆っているのである。
サタン、悪霊は霊的な存在であり、肉眼では見えない。見えないだけでなく、自分の存在すら宿主から隠し続ける。人を支配する究極的なやり方である。しかし心の目で自分を見るならば、自分を虜にしている物的欲望、性的欲望など気づき、それらは本来の自分の願いやかくありたいと思っていることとかけ離れていることに気づく。

それら自分の願いをひきづかききに一つの意思、方向性があることがわかったら、断固、戦って追放すべきである。
しかし肉の体を着ている私たち、、人間の力でやろうとすると、必ず失敗する。神に頼り頼んでいることが大切になる。





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嫌韓と反日の狭間で

2019年08月28日 | 示されたこと
最近は韓国との関係が最悪な状況だ。私は経緯に関心を持っているため、詳しいことはさまざまなニュースや論説に譲るとして、非常に残念な思いを持っている。



こんな中で思い出すのは、チョー・ヨンギ(趙 鏞基)牧師の汝矣島(ヨイド)純福音教会を訪れた時のことだ。信じられないほどの立地と規模の大きさに驚きながら、別棟の教会付属ビルに日本宣教のための祈祷部があった。私はそこでオサンリ祈祷院への手配などをしてもらったし、少し話を聞くことができた。少し高齢者が多かった気がするが、日本をゆるし、日本のリバイバルのリバイバルのために、日々祈っているとのことだった。たたこのことはチョー牧師の意思でもあると言っていた。(ヨイド教会正面)



また別な日、チョー牧師のメッセージを聞くと、現在の文大統領などの親北とは全く異なった見解で、「もうあの国は同胞とは言えない。体制が違うだけではなく、今では心や文化、価値観の全てが全く我々とは異なった国になってしまった」と祖国統一を願う人々をはっきりと戒めていた。

現在私たちに伝えられる韓国の反日・克日の戦い・千年の恨とは全然違う韓国のクリスチャンの姿をはっきりと見てきた。憎しみというものは、それを入れる鞘(さや)が無い。つまり、それを持ち続けている本人がその憎しみにひどく傷つけられてしまう毒である。国と国の関係だけでなく、私たちクリスチャンたる者、許し合うこと、まずもって自分が心から《許す》ことが自分自身のの癒やしに直結する。

主イエスは明確に次のように教えている。
"もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。"(マタイの福音書 6章14~15節)

最後に、両国のクリスチャンは実の肉親や親族、さらに国民を超えて、それ以上に、永遠の天の国での共なる兄弟姉妹であることを忘れてはならない。この世の国同士の争いに巻き込まれるのは御心ではない。流されてはいけない。真の兄弟姉妹なのだから。


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されどイス

2019年06月27日 | 示されたこと
船橋聖会の事は、既にお伝えしましたが、
その時、用意したこのディレクターチェア
 
翌週から今週にあった全国の聖会では、
講師のために用意される椅子が、ブログを通してチラチラと見えました。
沖縄での会場で
今週は九州聖会でしたが、鹿児島で
この会場でも
熊本
長崎
各地では講師をされるP牧師の腰痛が、少しでも軽減されるのならと、座り良い椅子を用意します。
 
このディレクターチェアを持ち運び、5月の横浜聖会で使用したのを、聖会blogで見つけ聞いて来られた地方教会牧師がありました‥‥
 
この椅子は軽くて座り良さそう。何処でもすぐ用意出来からと。何処で購入できるの?と
さらに、その椅子を用意する必要がなくなることを願い祈りながら、です。
このように、愛の行動される教会を、主に感謝しました。気づきを感謝しました。
 
この椅子はケパさんが、知人から譲り受けた物でしたが、椅子の座り心地が良い事を自身で知っていたケパさんは、それを会場に持ち運びました。
その時、私はそこまでするの?と言う思いを持っことを恥じました。貧しい心を悔い改め、主に感謝したのでした。
 
いつも愛を持って主に祈る、それが主が喜ばれる事をすると言うことね。
そして示されたならそれを行う。それが
聞き従うと言うことね。
その事が分かりさらに私は、喜んでいます。
ハレルヤ〜
 
 
ドルカス
 
 
 
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映画「長い別れ」

2019年06月07日 | 示されたこと
映画「長い別れ」を観た。これは認知症を患った父を、妻と二人の娘が関わり、介護していく映画だ。
私は一人暮らしの母がアルツハイマーになり、放っておけないので2年と少し、介護を兼ねて一緒に住んだ経験がある。この映画では自分がしていることを忘れる、身辺自立が難しくなる、徘徊の気配が始まるなどが描かれていた。それら一つ一つ、私も母に重ねては思い出していた。私はこれに加えて、様々な押し売り業者のカモになっていたので、彼らとの対決なあった。
映画では三人の家族が支えたが、近頃の家庭事情では、そこまで家族が結集する家庭は少数派になりつつある。少子化が進み家族が力を合わせることが難しくなっているのかも知れない。
 
母のアルツハイマーを介助していて、一番つらく感じたことは、息子の私ですら忘れ、外に出るときは、幼子になったような存在になってしまうことだ。これは流石に辛かった。
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教会とは~会堂の罠(わな)

2019年05月17日 | 示されたこと

二日前の前回、「教会とは?」で教会とは建物では無く、神に呼ばれ、集められた人々のことを指す、と書いた。

建物である会堂は単なるその入れ物なのだが、今日はそのことと、教会とのことを考えてみたい。

 

私は15歳から求道生活、20歳でバプテスマを受けた者で、38年以上はずっと福音派と呼ばれる教会で生きてきた。その終わりの20年ぐらい、ずっと教会の役員(執事)に選ばれ続け、教会の執事及び、牧師に次ぐ立場であるCS(子どもから成人まですべての人が学ぶ)校長として、教会の隅から隅まで見てきた。その結果、言えることは、会堂は罠であることだ。なぜか。それは今の群れ、TLEA(The Life of Eternal Agape)という会堂を持たない教会に導かれて、はじめて分かったからである。

 

日本には宗教法人法というものがあって、会堂という不動産に対し、税金が免除される代わりに、責任を負う3名以上の役員と財産管理と教会員数などの報告する内部規定が必要だ(318,25条)。通常は洗礼を受ける(つまり、その教会の一員として加えられる)と洗礼証明書、教会を移動すると転会状を持たされるが、これは宗教法人法対応に則って、常に会員数の把握が必要だからという意味があるからだ。

 

特に問題なのが執事会とも呼ばれる教会の中心的な組織である役員会。私は役員会の内実について、その教会で置かれた高い位置に反し、振り返れば実に残念なものだった。総会はいつもシャンシャンと手打ちで終わるのに対し、牧師を招聘したり、伝道の計画を立案する教会の実質は役員会ですが、そのほとんどは会計報告と使い方の問題や、誰がどんな仕事を担当するのか、不毛の討議ばかりであった。時にはつかみかからんばかりのけんかも見られ、教会の台所関係での実に細かい無駄な時間と共に、心もからだもすさんでいく霊性ゼロの、まさに虚しい忍耐の時間であった。同じボランティアでも、今私の住んでいる管理組合の理事会の方が、はるかに穏やかで平和的な会です。

 

これはどういうことだろうか。最大の原因は、会堂があるからだ。そのために宗教法人法に縛られ、役員を選出しなければならない。教会が教会員によって維持される原則であれば、下の教会員が上に立つ役員を選ぶので、言わば権威の逆転が起こる。人々の目には立派そうに見えても、実際には神のみこころを反映したものとはならない。信仰ではなく、世で評価が高い人が役員になり、無意識に役員会を、教会全体を霊的に自分のレベル、地に引き落とすためだ。

教会は神が呼び集めた信徒の集会であり、その信仰告白の上に、キリストがかしらとなり、聖霊が満ちており実際的に働く所だ。教会とは神が立てたしもべによって、その霊的権威と信仰によって立てられる。一般教会員による選挙とかの民意に、決して拠るべきではない。また主イエスは牧者に対しては、わたしを愛せるように羊たちを愛し養いなさいと命令されたのだ。(長崎26聖人殉教聖会)

教会とはペテロの「あなたこそ生ける神の子、キリストです」という信仰告白の上に建てられ、内住ではない聖霊のバプテスマという、活ける神である聖霊の満たしによって生きたものとされた。それが宗教法人法という会堂を維持するための世の法によって、しだい次第に教会の内実が白い墓場と化したわけで、そのことを私は、会堂のない教会、この群れに来るまで分からなかった。すると法の縛りを受けないわけで、つまり会堂のない恵みと守りをこの群れに来てはじめて知った。

 

私たちの会堂を持たない教会は、信仰が弱く、確信がなくなったら、当然、即終わりになる教会でもある。信仰が命の教会であるからこそ、私たちには信仰があると確信をもって言えるのだ。(写真は長崎にある群れの殉教者用の墓)

何年か前、二月五日にある殉教聖会でのことだ。「この中で、殉教をも厭わない人、前に出てきてください」と群れのリーダーが言われると、その場の何百人という参加者のほとんどが立ち上がり、進んで前に歩み出ました。まるでこの招きを待ってたとばかりに・・・・。死を恐れないこの群れの信仰が、真の教会であるしるしが現された時でもあった。

 

 

 

 

ケパ

 

 

 

 

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