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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです

2013年04月11日 | 示されたこと

  朝起きて、Suzume 晴れた時にはよくベランダに出る。朝日の中、澄んだ空気と通行する人の、今朝も仕事場へと急ぐ姿がいい。「さあ、今日も始まるぞ」と思うからだ。けれども一つおまけが付く。猫のコールが「ニャーオ(ぼくだって見たいよ)」と。それで戸を開ける前にコールに手を伸ばすと、さっと抱かれてくれる。こうしていつもコールの両足を右手の平に、上体を左手で包んでベランダに出る。

  今朝のコールは目でじっと追うものがあった。猫は優秀なハンターでもある。その視線の先には、電信柱に止まったたくさんのスズメたちがいた。どうも様子を見ていたら、若いスズメが多いように感じた。あらためて春は、生きものの命がはずむ季節だと思った。同時に聖書の次の一節を思い出していた。

 --烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。(ルカ 12:24)--Bible_31

  本当にこれら鳥(生き物)は、神によって寒く餌の乏しい冬を養われ、乗り越えてきたのだ。まして私たち人間は、鳥よりもはるかにすぐれた存在だと神が教えておられる。
  だからもっと神を信頼し、心を騒がせず、つつましく平安に暮らすべきなのだと思う。逆に「経済や病気など、これからどうなるのだろうか」という要らない不安や焦りは、不信仰であるとも言える。

  そのことを、スズメたちが教えてくれている。  ケパ

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焦りを感じた時に・・・・・

2013年04月08日 | 示されたこと

   最近、「(後輩が熱心になって進歩しているのに)自分にはそれがなくって」と相談を受けた。これは信仰の世界の話である。御言葉にも「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」とイエス様の言葉がある。だから追い上げられた焦りも、この方には少しあるのかもしれない。

 実はこの私だって、少々情けなく思うことがある。それは、いつまでたっても自分の「肉」が亡(な)くならないことである。これまでは「身体が世にある限り仕方ないのかも」とか思うことにしていたが、最近になってこれは、「身体があるための止むを得ないものというより、自分の内にある霊的な悪しきモノもそこにある」と感じるようになった。無論、聖霊様が私を支配していてくださるように私は祈り、実際そうなっているのだが、それでも私の肉なる自我は確かにFire有って、完全には滅ぼされてはいない。それどころか隙あらば・・・とチャンスをうかがっており、霊性が落ちたりした際には、プツ、プツンと出てくるのである。明らかに回復しようと窺っている。

 うっかりすると、本当に乗っ取られそうになるので(その度に私は自分の現状を思い知らされ)、「神様助けてください!」とヘルプコールを要請する。するとまるで火事場に駆けつけた消防隊のようにたちまち、鮮やかに鎮火されるのである。この手の熟練度を上げると、何事も、まだ火勢が弱い時に、気が付き次第神さまに119番するのが肝要であると分かる。教訓、「初期消火第一」(写真は3日前、近所で火事があった時の様子・・・・本文とは関係がありませんが、見事に即鎮火となりました)

 今朝、祈りの中で、私がいつまで経ってもこのような対応に追われる状態であることに少々焦りを覚え、
「神様、これが私の高慢を砕かれるためなら、どうぞこのままに。けれども、何か私の霊に不忠実な悪しきものがあって繰り返しているのでしたら、どうかそれをお取り扱いください
Photo。そしてこの幼子状態から、少しはあなたに安心していただけるような年長の者にしてください」と祈った。・・・・しばらくして次のような示しがあった。
 「無論、悪しき思いは私からのものではありません。それで、神からの助けを、今以上に徹底して求め続け、いささかの悪も思いの内に入らないようにしてみなさい。(う~む、初期消火活動に徹することか・・・・)そうすると開かれるところがあります」と。

   閑話休題

 この日の午後、テニスの壁打ち場に行くと、何年ぶりかだろう、工事中だった橋が部分開通して(写真)おり、これから遠回りしなくて済むと感激して渡った(写真)。また済美運動Photo_2公園(写真)という広大な公園も開通しており、さらに快適に壁打ち場にまで行けるようになっていた。「何という良き日、やった!」と喜んで壁打ち場に着くと、何と肝心の壁打ち場が今日は閉鎖してあった。「な、何だあ」とガッカリし、感謝して帰った。が、「待てよ、これは偶然ではない」と途中で思うようになった。
 今朝の祈り、それが橋の開通とか公園の開園であり、それは素晴らしいことなのだが、どうもそれだけで即開かれるという風にはならない感じだ。そんな示しに思わさせられた。いずれにしても、到達する目標が目に見える所まで行ける希望がわいた。しかし本当に到達するためには、さらに忍耐も今後必要なようだ。感謝。   ケパ

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気になることが続く日・・・・・過去を思い出して

2013年04月05日 | 示されたこと

日常、何気なくすごしていると見過ごすことがおおいことがある。最近、そのことが気になるようになった。なぜか?神を信じる者に<偶然はない>からだ。

 数日前、街を自転車で走っていると、先のブログに書いたように、交通違反がやたら目についた。青梅街道の信号無視で車に轢かれそうになったシーン。逆に小路では、赤で止まっている私を、他の人たちはためらわずに次々に渡った。この日の最後は、交差点での車の指定進路無視の暴走で、横断中の私たちは恐怖の一瞬を味わさせられた。

Hear
 今日は今日で声がポイントだった。役所では待合室で呼吸が苦しそうなぜんそくの声があり、モスでは自閉症青年の自分を落ち着かせる独り言があった。いずれも私は過去担任をしていた時代のAさん、Bくんを思い出していた。

 偶然はないから、目から、また耳から入ってくるこれら一連の出来事は、「いったい何
Prayを意味し、何を示しているのだろうか?」と私はつい自問する。祈ってみると、「危険から守られていること。その過去における神の守りを感謝し、とりなすこと。特に関わってきた弱い立場の一人一人を覚えて・・・・・」という感覚が示されてきた。

 恥ずかしい話なのだが、仕事で熱心に関わってきた子ども達とも、「担任を離れ、転校して」しまえば、ときどき思い出す程度だった。彼らの霊と心、体が危険から守られるよう、今後は祈りたい、そんな気持ちにさせられた。障害児教育経験者として、「あれも・・・・これもetc・・・・もっともっと取り組めたら」と私自身はたくさんの反省ばかりである。その子たちを思い
祈りによって少しでもカバーできたら、と思わさせられた。  ケパ

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偶然はない

2013年04月01日 | 示されたこと

 この度の派遣で、恒例のジャンケン大会が行われたが、なんとドルカスが120人の中でチャンピオンになった。それはかなり印象的なシーンであった。Azusa_st

 まず準決勝、決勝戦の相手が、地元L.A.の人だった。これは非常に暗示的なことであり、自分には次のように見て取れた。ここL.A.は使徒時代以降、1900年近く鳴りを静めていた聖霊の著しい働きが再び始まった歴史的な地である。いわばペンテコステ運動の発祥の地である。私たちはシーモア牧師のそのアズサ街(写真はその通りの表示)近くのホテル(旧キョートホテル、現ダブルツリーヒルトンホテル)に宿泊していて、まさに100年少し前の出来事を追体験できる絶好の摂理を得ている。今回その方たちに続けて勝ったということは、聖霊の著しい働きが今後L.A.から日本、そして船橋へと・・・(かなり(^_^;)我田引水)わたされるのではないか、と。

 そして次に印象的なことは、チャーチ・オン・ザ・ウェイ(ジャック・ヘイフォード牧師)教会のプレイヤーズチャペル(下の写真)が再び開かれたことだ。聞くところによると、10年ほど前までは誰にも開かれていて、私たちの群れがしょっちゅう行けて祈っていたらしい。しかし言われなき中傷批判により、ここが閉ざされてしまっていた。ところが、である。今回大川牧師のご配慮により、ようやく再び開かれ、このタイミングで祈れたことである。

Prayers_room 私たちは偶然を信じない。神の計画がすべてにあることを信じている。ジャンケンにドルカスが強運でチャンピオンになれ、そしてその相手がたまたまL.A.の人であったということはない。ジャンケンでの私の個人的な見解はともかくとして、次にプレヤーズチャペルが開かれたことも偶然ではない。神の大きなご計画がそこにあることがはっきりしている。

 これら神の計画に今から胸をわくわくさせている私である。主に期待する者は、失望することがないからである。  ケパ

 

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カールじいさんの空飛ぶ家

2013年03月17日 | 示されたこと

Eiga_carl  2,3年前になるが、アニメ映画で「カールじいさんの空飛ぶ家」というのがあった。
 ストーリーがなかなか緻密なアニメで、秀逸だった。独り暮らしで頑固な老人が、都市化が進んで「立ち退きを迫られた家」ごと空に風船で浮かび、亡き妻との夢を実現させるという展開だった。

 自宅を高いビルに囲まれ、過去との思い出だけに生きているカールおじいさんは、時代に抵抗し頑固に立ち退きを拒み続けていた・・・・実は前から気になっていたのだが、これは予断と偏見で言うのだが、この映画そっくりの家がある。


 

 写真を見ると、この家、高層ビルに囲まれて、ほとんど日が差さない。そしてカールおじいさんそっくりの人が、この家をきちんと守っている。もう犬がいないのに「猛犬注意」Carlの札までかかっている。まさに人を寄せ付けず、頑固に家を守っている感じである。

 

 ところで私は自宅を処分し、何もかも置いて出て来た者である。差し詰め「脱カールじいさん」か? もはや守るべき家などない。どうしてか?そんな形あるものなど比較にならない、大きな宝物を見つけたからである。天の御国のである。  (ケパ)


 ーー天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。(マタイ13:44)ーー

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言葉の力

2013年02月10日 | 示されたこと

Photo  今回長崎に行って、特に感じたのは、浦上の四番崩れに関連してのことだった。

 今、この国では信教の自由がある。どんな神を信じ信仰を持とうと、それは個人の自由である。しかし1873(明治6)年というから、今から140年前まではそうではなかった。(右写真はその時撤去された高札)

 1614年の徳川家康によるキリスト教禁教令から1865年の信徒発見、1873年のキリスト教禁止の高札撤廃までの250年以上にわたってキリスト教は地下に潜行
し、時には想像を絶する迫害を受け、多くの殉教者を出しながら信仰を守りきった。見つかれば死罪という過酷な状況で、度重なる密告におびえながら、どうして信仰を守れたのか。まさに驚嘆に値する。

 この奇跡的な出来事が起こった理由の一つに「バスティアンの四つの預言」がある。地下に潜行しても、七代までは信仰(霊魂)が守られる。そしてコンヘソーロ(司祭)が大きな黒い船に乗ってやって来て、ミサや告解(コンヒサン)が好きにできるようになる・・・・というものだ。この預言通り、ちょうど七代の隠れキリシタン指導者(写真はその指導者である帳方屋11_big敷跡)が終わった時、幕府は開国し、預言通り黒い大きな船に乗って長崎にも宣教師がやってきたのだった。

 ほどなく「ワタシノムネ アナタトオナジ」と浦上のキリシタンが告白、黒い船と250年を堪え忍んだ信仰は預言通り一つのからだとなった。このキリシタン信徒発見のニュースは、全世界を驚かせ、その心を燃やした。明治政府がどんなにがんばっても、600人以上の拷問死を伴った「浦上一村総流罪」を取りやめざるを得なかった。

 岩倉使節団はどこの国に行っても「ウラカミ、ウラカミ」と叫ぶデモに囲まれた。念願の不平等条約改正には、信教の自由なくしてあり得ないことを思い知らされたからである。世界は浦上のキリシタンに感動し、決して忘れなかったのだ。バスティアンの預言は世界を動かし、成就したのだ。だからクリスチャンは、どんなに世間から白い目で見られようと、世に媚びて信仰を薄めたり控えてはいけない。この流され続け、実証された多くの血をおろそかにはできない。

  人はどんな逆境になろうと、希望さえあれば耐えられるものだ。七代は守られ、そして大っぴらに信仰の自由が得られるというバスティアンの預言は、すべての隠れキリシタンにとってまさに希望だった。「預言」という神からの言葉の力をあらためて教えられる。「預言」はこれからの時代にも、神によって大きく用いられることだろう。  ケパ

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年にならないとわからない

2013年01月20日 | 示されたこと

 今日はのっけからびろうな話で申し訳ない。

 私が大学を卒業する頃、実家の母屋を建て替えることになった。
 結局、私の間取り案が採用されたのだが、一つだけ父が注文つけたことがあった。それは男子用トイレを付けることであった。当時私には、それほど必要とも思えない男子用トイレにどうして父がこだわるのか、わからなかった。

 今私は、ちょうど父の逝った年齢である。そして父の男子用トイレが欲しかった訳がよくわかるようになった。わがままでなく、やわらかさを失った体では、共用のトイレ使用はキツイのである。無論、人にもよるだろうが。

 今はわかるが、若い時にはわからなかった。年にならないとわからないことって、結構ある。しかしそれは、体のことだけではない。親にならなければわからないこと、親を失ってみなければわからないこと、家庭を失ってみなければわからないこと・・・・。

 しかし一番のことは、死んでみなければわからないことではないだろうか。もしこの衰えていく体から、最終決着である死に対し、「なってみなけれぼわからないから」と備えないことほど、せっかくの老いの摂理(警告であるかも)を無駄にすることはない。

Heaven_26
 体が滅んでも、魂、霊は永遠である。生きている、その真の意味は、魂と霊の行き先を決める猶予期間と言うことに他ならない。真の宗教はこれに確信を解決を与える。
 言うまでもなくキリスト教は、世界最大にして、イスラムや仏教より四、五
百年古い(ということは影響を与えた)最古の宗教である。しかも教祖が極悪人だけが処刑される十字架にかかってまで人を愛したという、極めて異例な神である。

 キリスト教は、死と魂と霊について、実に明確な答えがある。クリスチャンだけが天国に行けると思っていると、批判はたやすい。が、食べ物の味と同じで、食べてみなければわからないし、だれも食べたことがないものなら二の足を踏むが、なにしろキリスト教は世界最大の食べた人がいるわけで、それだけでも安心して食べてみる価値のある教えである。  ケパ

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神は語られる

2013年01月13日 | 示されたこと
「神に語られる」ということ
  映画「レ・ミゼラブル」ではジャン・バルジャンが神に問いかけ、「ブラザーサン・シスタームーン」ではフランチェスコに神が語りかけている。
  この神に語りかけ、神に語られるということは、おおよそ日本人には馴染みにくいことだと思う。そして実際にあるとは、信じられないだろう。
  しかしマザーテレサは療養帰りの列車の中で「貧しい人たちに仕えるよう」神の言葉を聞いている。その後のことはノーベル賞に至るまで記憶に新しい。そしてこの私も、実は実際に聞いた証人の1人である。予期せぬ出来事であり、本当にわが身に起こったこととはあまりにも衝撃的だった。神の言葉と確かにわかった時、その時の体の震えと激しくわき起こった感情は、今でも鮮烈に覚えている。
  このように直接神の声を聞いた、私を含めて上掲のすべての人は、その瞬間から人生を根本から変えられている。ただこういうことに関して、一つお願いしたいことは、どうか体験至上主義や神秘主義にならないでほしい。
  また神が語られるということは、神を信じる者にとって、特別な事柄ではない。私にしても、特別上出来のクリスチャンであったはずがない。ただ長く苦しみの底でのたうちまわり、絶望していた者だった。神が語られるのは、神が見られた時、必要な時に必要なことをされているということなのだ。
  神は最高のタイミングと最善の言葉を1個人に告げられるのであり、結果として聞く者はまさに活きる神を知り、完全に神に従う者となるのだ。その後、どのような偉大なことを従った者が為したとしても、それは神に従った結果に過ぎず、すべての栄光は神にあって人にではないと堅く信じる。

Capha 中村 from iPhone
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土曜の夜

2013年01月05日 | 示されたこと

土曜の夜
  とくに金曜日の予定のない今週は、土曜日船橋に移動です。 「今日のBlog当番は、だれかなぁ☆彡」 と、ボソっと言うと、「土曜の夜は、牧師にとって特別です。」とケバ牧師が言いきります。私も忙しいのだけど・・・とは言えず、私の仕事は徹夜しても出来るから、感謝してBlog当番します。

目の前では、時には場所が変わらないと、なかなか仕事に取り組みが困難らしい、ケパさんがコーヒー片手に真剣にメッセージに取り組んでいます。

実はこの場所、船橋駅の地階の「シャポー」なるショッビンク通り。そろそろお店は閉店ですが、コーヒーショップは10時までなので時々利用します。目の前には、ユニクロ。書店あり、薬局あり、呉服屋さんなど、様々店が並びます。

 

 初めて船橋に訪れたとき、エスカレーターでこの地階に降りて、休憩の出来る空間を見つけホッとした事を、いま思い出しました。 水の流れる音と、ベンチ。真夏の午後の暑い日差しの下を歩いた後で、なんて素敵な場所があるの!と、喜びました。 船橋に毎週通う事の不安が立ち去ったのです。そのことを思い出しました。

 

あれから二年半です~。昨年11月過ぎて(私たちTLCCCでは11月から新しい年)いよいよ船橋に移動しなさいと、主が語られました。 この憩いの場所にホッとした私達の様に、教会にイエス様を信じたいと人々が求めて来られるその時の為に備えをさらにして行きます。主がその様に言われますから。 ハレルヤo(^_^)o   ドルカス

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トイレ 大変だった一部始終

2012年12月30日 | 示されたこと

 みなさん、三日前、つまり金曜日にわが家のマンションのトイレが、ほぼ流れなくなってとうとう業者を呼んだことを覚えていてくださるでしょうか、その後日談をいたします。Photo_2

 

 12月28日(多くの役所、企業はお休みに入る)という日に来て下さったこの業者さん、大変でした。先ず吸引(この道具も今回ギブアップする直前まで私が使ったものと違う、プロ用)でダメ。
 次にエアーガンのような、急激な圧力で逆方向に押し出すもので試してもダメ。この時点で便器の取り外しが決定しました・・・・費用が思ったより高くなりそうな悪い予感。
 なれた手つきで(さすが、です)便器全体を外し、次にコイル状になったワイヤーで異物が詰まるところをチェックしていきます。この道具がすごいすぐれもので、手動式のものは持っていますが、これは電動式の大きなものでした。正逆回転、速さが自在、どこまでも伸びて行きます。これで管内の当たりを耳で確かめながら、ずんずん進んでいきます。

 

 ついに異常個所発見。しかしこの時点で異物が付着している<当たり>が普通ではないことまで、プロは認識していました。実に強固な感触で、これまで20年の経験になかった、実に奇妙な当たりだったとのこと。普通は髪の毛とか、もっと柔らかく、簡単に剥離、あるいは巻き取り除去ができるはずが・・・・。数時間の格闘の末、ついに管を傷めず、剥離に成功!・・・・しかしここから悪夢のような恐れていた大変なことが発生しました。なんと共用部分のパイプにその剥離した異物がスポッとかぶさった状態になり、共用管全体が詰まることに・・・・。まさに驚愕の緊急事態です。

 

 事態は最悪の展開へと進展しました。ここに至ってこの業者さん、総力を挙げての取り組みになったのです。マンション管理組合への通報と配管確認。応援部隊要請。胃カメラのような発光式スコープを急遽取り寄せ、異物を確認。それは「あり得るはずのない」ものでした。結局<高圧洗浄>のためのポンプ車が出動し、えんえん深夜10時過ぎまでの大作業となりました。

 結局異物は、15メートルのカメラの視界外にまで、つまりマンションの配水管のPhoto下部水平の大きな管まで追い落とすことはできたのですが、決着は翌日の作業となりました。翌土曜日はマンション1階部屋から作業を再開し、午後3時についに異物はぶじ排水管から回収されました(写真)。ナント、ナントそれは、あり得ない大きさの、排水管に貼り付いていたコンクリートの塊だったのでした。どうしてこのようなコンクリート塊が、排水管の中に・・・・・。

 

 私たちはこの作業の間中、ずっと祈りましたが、悪くなる一方の事態とその解決を通し、次の確かな示しを確認しました。この住宅に入居した時点ですでにトイレなど全体の排水はおかしく、そのことを真っ先にクレーム申告しました。その時、便器の取り外しまでされてチェックされましたが、結局「原因不明」で様子見にされたのでした。今回の業者のような能力がなく、結局3年間私たちは、排水に悩み続けさせられました。そして「教会と共に住む」導き・・・・。出て行こうとしているこの時期にこれまでになくつまり、やむなく呼んだ排水専門のプロフェッショナルによって、その彼らも経験したことのない困難でしたが、完全解決を見たのです。

 つまりこれは、物事をいい加減にするのではなく、「立つ鳥跡を濁さず」気持ちよく私たちは明け渡せるようにされた、ということです。直ったからここに居よう、ではなく、私たちは次の人たちのために、よりよくして、それを捧げて出て行くのです。これは私たちにふさわしいことがらです。神様、感謝します。 ケパ

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