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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

始まったレオン牧師の旧約聖書講解

2017年07月08日 | 聖書
昨日から、お待ちかね、レオン牧師の旧約聖書講解が始まりました。そこでいきなり下図のような話が‥‥‥‥。結構重要なのはわかりますが、口で言われると????? 皆さんわかりました?

そこで勝手な解釈も少しだけ付け加えて、私なりに図にしてみました。少しは分かりやすくなったかなあぁ。


PS 図はコピーしてご随意に使用して下さって結構です。
ケパ




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聖書はまことに真実の記録書

2017年06月21日 | 聖書
マルコ伝4章の終わりにあるのは、イエス様が嵐をら静められた有名な個所である。しかしこの記事、以前から一つの疑問がずっと頭から離れなかった。

その疑問とは、嵐で今にも舟が沈みそうな中、イエス様が寝ておられたことだ。いくら何でもこれはあり得ないことではないか。大揺れの小舟の中、湖水が大波で浸水し舟が沈みかけているのに、それでもまだ寝てるなんて・・・・だいたい衣服もずぶ濡れなのだろうし・・・・と。

この疑問を解いたのが、ノフ・ギノサールと言うガリラヤ湖畔にあるキブツの舟の博物館である。ガリラヤ湖の湖水面がかつて非常に下がった年があって、その時姿を現した湖底から約二千年前の小舟が発見されたのだ。それはちょうどイエス様の時代にあたり、舟の形もまさに聖書の内容を裏付ける物だった。(これは博物館の舟を元に私がイラストしたもの)

これで見ると、舳先ととも(艫=船尾)には板が張ってあって、浸水しても濡れないのだ。そして通常襲って来る嵐の波には先端の舳先を向けるから、ともは一番安定して揺れない場所だった。舟の中ほど、弟子たちが居た所は水が入って大変だったのだが。なるほど、聖書は真実である。(イエス様が風と湖に命じているところ)

こうしてみると、聖書は確かに何一つ嘘や偽りがない、正真正銘の神の言葉であることが分かる。従って、聖書を信じない者は聖書が言っているとおりの大変なことに陥る。だから、福音を語るのはたとえ迫害されようと、愛であり、使命なのだ。



ケパ



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創世記の二つの奇跡の真実

2017年03月14日 | 聖書
聖書の大奇蹟の一つ、海が分かれ乾いた海の底をイスラエルの民が渡り、後を追った全エジプト軍が戻った海に水没して全滅した記事がある。しかしこれまではシナイ山が、シナイ半島南部のホレブ山(シナイ山)であるとされていた。そうなると、何百万というイスラエルの民が海を渡ったその場所は、スエズ運河近くの葦の海という小規模の湿地帯しかない。
それでは聖書の記述にある海が割れて壁のように逆立ち、乾いた海底を民が渡った後、追ってきた全エジプト軍が戻った海に水没し全滅するには物足りない。全然深さが足りないではないか。

しかし全くその聖書通りの、それも「これが本当」と言う発見を伝える以下の動画にあった。
この車戦の車輪はシナイ半島とアラビアの間の湾の海底で発見された。

(写真をクリックすると再生されます)

つまり、イスラエルの民は海の底を歩いて、対岸のアラビアに行ったとこの動画は主張しており、黒く焼けた山、裂けた岩など、多くの証拠を提示している。まことに千七百年ぐらい続いた定説を覆す、傾聴すべき実に驚くべきことであると私は思う。

あともう一つの大奇蹟は、ノアの方舟と大洪水であるが、これも箱舟が聖書の記述通り、アララテ山で発見されていると言われている。化石化した木片の発見や、全体のサイズが聖書の通りであるという。全地球的な洪水についても然りである。

いずれにしても近年、かつては聖書の創作話とか神話と呼ばれていたことが、すべて事実となりつつあること、改めて聖書が真に恐るべき神の書物であることが証明されつつある。それゆえ未だこの書を信じない者は、最後の審判において裁かれても仕方ない状況が生まれつつある。確かに終末の時は近づきつつある。



ケパ







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出エジプトのルート、ノアの方舟

2017年03月12日 | 聖書
聖書がいかに驚くべきものであるか、その証明になるようなことが明らかになりつつある。
まずノアの方舟である。旧約聖書の『創世記』(6章-9章)に出てくる記事だが、多くの人は単なる神話とか、作り話だと受け取っている。
人間の常識で見れば確かにそう思うだろう。聖書の舞台である中東とは、砂漠や荒野がほとんどである。そんな所に全長が133.5mの巨大な方舟を作るなんて、正気の沙汰ではない。そんな物が浮かぶことは絶対に「あり得ない❗」はずだった。しかしノアは、神のオーダーに従って、百年もかけて黙々と作り続けた。

これまで在った、無かったの連続であったが、1997年から、再度数年間に渡って精密な調査が行われ、その結果、聖書の記述通り、遺跡はアララテ山の中で、自然の地形ではないことが判明し、「ノアの方舟」だったことが確認されたという。
これがノアの方舟が漂着した遺跡。
記事の資料(http://sekainoura.net/%E3%83%8E%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%96%B9%E8%88%9F%E3%81%AF%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%9F.html)

次に意外なことに、「シナイ山は従来のシナイ半島ではない?」と言う記事である。聖書では
およそに、二、三百万のイスラエルの民が神の山の周辺に集まっていたが、私が行った際にもそんな所はなかった。だからシナイ半島、シナイ山とか聖カテリナ修道院あろうとも、怪しいと思っていた。
その上、民が分かれた海を渡り、エジプト軍が全滅した海を渡る、と言う個所が見当たらない問題も大きい。

ケパ


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HOTな News

2016年12月31日 | 聖書
主の十字架クリスチャンセンターの
東京アンテオケ教会の新しい企画見つけました。

本日12月31日配信スタート
『世界で一番短い聖書のお話』

メッセンジャー 〜パウロ秋元牧師〜
世界一短い聖書のお話が
早速今日から視聴出来ます

こちら👇の画像タップorクリックしてね


ドルカス




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イサクの年齢

2016年12月26日 | 聖書
常識で考え、判断すると、時々大間違いをする。アブラハムがイサクを、神に指示されたモリヤの地で神に捧げたのが好例である。

1966年「天地創造」と言う映画があった。その時のイサクはいたいけなかわいい少年であった。この絵もそうである。まあ、そう考えるのが常識である。

この度のイスラエル派遣では、レオンというユダヤ人の牧師が、私たちの聖会でメッセージしてくれたが、その彼が私たちに「あの時のイサクは何歳だったかと思うか?」と聞いてきた。父親に連れられ、今はエルサレム神殿となっている地まではるばる三日の旅をして、おとなしく焼き尽くす生け贄になろうとしたこの子は、いったい何歳だっただろうと皆さんはお思いだろうか?

何歳? 少年? まさか、いい大人だったら、犠牲、という小羊代わりのイメージが湧きませんよね。この時も会場にいた皆がてんでに答えたが、バラバラの年齢であった。

レオン牧師は口を開いた。イサクはアブラハムが百歳、従ってサラが九十歳の時に生まれた(創世17:17)。そしてサラが死んだ年齢は?創世記23:23には127歳とある。ユダヤ人の伝承(準聖書に近いもの)ではサラは朝、アブラハムがイサクを犠牲に捧げようとして出発したのに気がついて、止めようと死にものぐるいで追いかけた。しかし、ベエルシェバからエルサレムへの途中、ヘブロンで息絶えたのだ、と。つまり、イサクの年齢は127-90=37歳から38歳であったと。

つまり、イサクはひげをたっぷり生やした、屈強ないい大人であったと。それに対し父のアブラハムは何歳?
だから笑い話だがこんな想像ができる。その時、「父上、ご乱心❗」とイサクなら簡単に犠牲を拒否出来たはず。そうでなかったのなら、イサクは犠牲の小羊、殉教の運命を受け入れたことになる。すごい信仰がイサクにはあった、と。

後で考えると、サラがこの時死んだ、と考えるには十分な理由が見受けられる。まず第一に、御心ではなかった。神の計画を妨害するものであった。次に127歳である。必死になって追いかけると心臓麻痺かなんかを起こしても不思議ではない。第三に彼女にとってイサクは命そのものである。イサク無くしては生きていけない女性ではなかったか。第四にサラが本拠地ベエルシェバで亡くなったのではなく、どうしてヘブロンでなのかという説明がこれでつく。

二千年近く後、三十過ぎのイエスという人物が同じ地で、犠牲の小羊となるのだが。 ケパ





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ファイヤーバイブル(新しく出たスタディバイブル)

2016年11月16日 | 聖書
ファイヤーバイブルという名の新しいスタディバイブルが出た。
スタディバイブルというのは、聖書本文と注解書を併せて学べるもので、よく知られている「チェーン式バイブル」がこれに該当する。私たちが日々の通読で聖書を開いたりする時、「これ、なんて言う意味だろう?」と疑問に思う時がある。そんな時、わざわざ注解書を引っ張り出しに行くほどの疑問でもなく、結局、そのままにしてしまうことが多い。スタディバイブルとは、まさにそのような日々の小さな疑問に、聖書を読みながら即座に答えるものだ。
数年前には、より大判の「バイブルナビ」というものも出た。これは内容が豊富で大いに良かったものの、あまりに大きすぎて、全く持ち歩く気にはならなかった。それでわざわざ、このバイブルナビの聖書本文を抜いて注解部分だけを本にしたものを購入したほどである。
このたび出た「ファイヤーバイブル」は大きさは写真のようにチェーン式並みだが、チェーン式よりはるかに多くの注解が載っている。製本に少し不安があるものの、これなら何とか持ち歩きという日常使用にも耐えられそうだ。
(左からチェーン式、バイブルナビ、ファイヤーバイブル)
チェーン式がどちらかと言えば聖書本文が中心であって、注解は下欄の1/3ぐらいのスペースしかなく、どちらかと言えば本文の補足的な趣が強かった。またその内容も福音派的である。それに対しこれはハッキリと聖霊派、ペンテコステ派、カリスマ派のスタディバイブルである。聖霊など重要な所は枠にとらわれず大きく載せている。本名のファイヤーとは聖霊を意味している。
写真を見ていただければ分かると思うが、聖霊、賜物についての注解に違和感がなく、立場もハッキリしている。ようやく私たちが使えるスタディバイブルが出て来たという感じだし、なんだか時代がリバイバルに向けて、さらに大きく変わってきたなあ、そんな感じがさせられる一冊である。
もし皆さんの中で、聖書をひもとく注解書が欲しいという方がおられたら、これは一番のおすすめである。

ケパ



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「月に打たれる」

2016年09月23日 | 聖書

これほど台風が連続し、梅雨の再来のような初秋は珍しい。しかし確実に季節は進んで、就寝にはタオルケットで済んでいたのに、今週からは肌掛け布団でちょうどいい。
今は不思議な、難しい季節だ。問題は昼間。半袖で良いような、しかし長雨が続くとなると、もう一枚なんでもいいから羽織った方が良さそうだ。雨空を見上げると景色はもう、木の葉が色づき始めている。その枝で雨に打たれる鳥、その他の動物たちには人間のような服がない。さぞ寒さが骨身に沁みていることだろう。

この「(雨に・・など)打たれる」の言葉に思い出すことがある。前々から聖書は詩篇の次の言葉、「月が、あなたを打つことはない」がわからなくて困っていた。太陽の光である、日に打たれることはよくわかる。ほとんどドルカス用と化してはいるが、男性用日傘を私は持っている。しかし、月に打たれるとはどういうことなのか?

主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

(詩篇121篇5-7節)

ご存知のようにイスラム教の国々では、赤十字のマークではなく、🌙月のマークである。それほど月は砂漠の民にとっては、苛烈な日照りから解放されての安らぎのシンボルだ。ところが「月が、あなたを打つ」とは、どういうことなのか?

疑問に思い続けていると、ある時ポンとはじけてわかる時があ。最近ふと気づいた。羊を飼っていて、荒野や砂漠などで野宿するとしたらどうだろうか?昼の暑さもこたえるが、空に遮るもののない月夜の放射冷却も、これはこれで相当な寒さなのではないだろうか? そう思うと「月が、あなたを打つことはない」という意味は、戸外での野宿、あるいは薄いテント一枚で過ごす夜の寒さのことなのだとわかる。こうして「月に打たれる」を、なんだか解釈できて納得してしまった。
ケパ

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ヨセフ〜何一つ人生に無駄はなかった

2016年08月22日 | 聖書
のっけから聖書の話で恐縮だが、旧約聖書にヨセフという人物がいる。ご存知の方も多いと思うので、ごく手短に紹介する。

ヨセフは母ラケルからヤコブの11男として生まれた。何しろ母のラケルという女性は、父ヤコブが14年もかけて娶ることができた女性で、そのラケルの胎の初子がヨセフであった。こうなるとヤコブがヨセフを寵愛するのは当然で、長服という一張羅の服を着せたりするから、先に生まれた十人兄弟たちから妬まれる要素十分である。
17歳の時、ヤコブは兄たちや父までも自分に頭を垂れ、伏し拝むようになる夢を見たと語った。これでは最下の弟なのに、長兄以上の、家族の王ではないか。兄たちは何とかしてこの弟を除こうと思うようになった。そんな折のある日、ヨセフは父に命じられ、兄たちへの使いにかなりの距離を行った際、兄たちによって奴隷として売り飛ばされることになる。

エジプトの侍従長家の奴隷として買われたヨセフは、主人の信頼を得て瞬く間に全財産を管理する家令になる。ところが若く凛々しいヨセフは、夫人に目をつけられ、言い寄られ、断ると強姦未遂で王の監獄へ、明日をも知れぬ命となる。

その後エジプト王の廷臣である献酌官と調理官が、罪を犯して同じ監獄に入り、ヨセフは彼らの世話をし、彼らはヨセフの夢解きの力を知るようになる。 献酌官は許されて王の下に戻るものの、ヨセフが夢解きの際に頼んだ冤罪を晴らす件は2年も忘れられてしまう。
しかしついに時が来て、王が不思議な夢を見る出来事がおこった。しかしエジプト国内には、誰も王の不思議な夢を解く者がいなかった。その時献酌官はヨセフを思い出し、ヨセフはついに王の夢を解いて、古代世界の超大国エジプトの宰相に一躍上り詰める。

ヨセフの解いた夢は、これから世界に来る7年の大豊作と、その後に来る7年の大飢饉のことであった。ヨセフは王の印を委ねられ、エジプトの全権限を握った時、30歳であった。
こうして7年の豊作が過ぎ、世界的な大飢饉が来て、カナンの地でも兄たちまでが飢えて、エジプトに食料を得に来なければならなくなる。今や神のごとくエジプトの宰相になったヨセフの前に、夢の通り兄たちが跪くお膳立てが整う。ヨセフが夢を見てから、この時二十年が経っていた。

これがいわゆるヨセフ物語だが、兄たちに殺されかけ、特に宰相になるまでの17歳からの13年間は、

彼のことばがそのとおりになる時まで、
主のことばは彼をためした。(詩篇105)

とあるように、ヨセフは兄弟に売られ、主人の妻の冤罪と、最後は足かせの中、献酌官の忘恩に試され続けた。まことに悲惨な青春時代だったように、普通は考えてしまう。しかし私はどうもそうとばかりとは思えないのである。神は人を決していたぶったり、面白がって試したりはなさらない。神は愛の神で、全く無駄のない、完全な方なのだ。で、私は以下のように考察する。


【古代史の解明という側面】どうもこのヨセフ物語は歴史的にも真実らしいと思われる。なぜなら、エジプトの全国民が、極めて短期間に王の農奴化する大きな社会変化が、なぜなのかかつて理解できなかった歴史の不思議が、この創世記47章のヨセフの記事で解明されるからだ。なるほど、こういうことがあったからだ、と。聖書は極めて合理的な説明をしている。

【すべてが益にされた】ヨセフの奴隷時代は、実に素晴らしい備えの時代であった。後にエジプトの宰相になり、国を治める練習として、エジプトの宰相の家令という実践の時代を神は導かれた。次に監獄の時代は、エジプトの宰相となるためのステップだっただけでない、死の危険と常に隣り合わせながら、徹底して神に聞き従う訓練の場でもあった。だからヨセフは宰相という絶大な権力者になっても、決して高慢にはならず、かえってその地位は万全なものとなった。その土台の上に神は、アブラハムに約束されたことを成就されたのだった。数十人のわずかなイスラエルの民を、数百万人にのぼる膨大な民とし養うのにまたとない肥沃な地、ゴセンの地をゲットすることができたのだから。

【ヨセフは辛かった?】この試練の間、ヨセフはどんな理不尽な仕打ちに対しも神に祈るしかなかった。まさにこの試練を通してヨセフは神に聞き、祈り、従う人であり続け。聖霊に満たされ続け、神がずっと共にいてくださり守っておられた。これって、養われた平安で幸せな時代であった。

【結論】神にとって不可能なく、神の言葉は、必ず成就される。その上、いっさい無駄もなく、全てが益とされる。神は偉大な方である。

ケパ

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中傷(ちゅうしょう)する前に

2016年08月10日 | 聖書
「中傷(ちゅうしょう)」とは、辞書によると、根拠のないことを言いふらして、他人の名誉を傷つけること、とある。他でもない、私たちの属する「主の十字架クリスチャンセンター」に対して、しばしば受けるのがこの「中傷」である。

少し説明するが、私たちは聖書を唯一の規範とするプロテスタント教会の集まりで、聖書から逸脱することは何一つしていない。というか、完全に聖書そのものを具体化した教会だ。かえってプロテスタント教会の模範のような教会なのに、どうしてそのような誤解が生じるのであろうか?
それについて幸いなことに、かつて私自身も主の十字架のようなカリスマ派の教会を偏見の目で見ていたので、かなりわかる。それは主に聖書の第一コリント13〜14章にある、聖霊の賜物を私たちが聖書に従って用いているからである。聖霊の賜物とは、聖書に記述してある通り九つあり、病の癒しを祈り、異言や預言をする。中でも預言をする=カルトと予断で持って見られるのだ。確かに預言がこれまで、数々の過ちや傷をキリスト教界に与えて来たのは事実だ。しかし聖書には、「だから用いるな」ではなく「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい(1コリ14:1)」なのだ。また預言は新約聖書があるから要らない、終わったという方もいるが、これなどは自分の実態に即しての間違った解釈の典型例である。(これは神学校の講義の一場面)

今日、日本のかなりのクリスチャンは、かつての私も含めて、特に聖霊の働きである「聖霊のバプテスマ」「聖霊の実」「聖霊の賜物」などを否定するかまたは、理解しようとはしない。考えてもみてほしい。キリスト教の神は「父・子なるキリスト・聖霊」の三位一体の神である。このうち聖霊の神とその働きを自分たちに無いからと否定するということは、要するに三位一体の神がわからないということであり、力のない信仰であるということであり(使徒1:8)、ひいては聖書の核心である聖霊を汚すという、ある意味、決して赦されない罪を犯している可能性があるかも知れない。言い方を変えれば、十字架は私たちの罪を赦し救うためであったが、聖霊を与えるために罪なき者とする必要があったのだ。
このような方は、映画「祈りの力(原題 War Room)」など、大ヒットした全世界的な聖霊とカリスマへの大きな流れに、ガラパゴス的に背を向けていると言わざるをえない。(下記は2週間前に行われた白馬キャンプ聖会の様子・臨在が溢れている)

だからお願いである。「カルト」とか「日本中で問題を起こしている」と風評で中傷する前に、どうかご自身の目で、内住される聖霊によって、主の十字架クリスチャンセンターの礼拝とか聖会・集会に一度実際に見聞され、ご自分の霊と心で実地に風評や予断の通りか確かめてほしい。もしかして間違っているもしれないのだ。はたしてそこに集う信者たちが本当にマインドコントロールされているのか、牧師が聖書的にカルトとおぼしきおかしなことを語っているのか、できれば預言の学び(入門クラスは傍聴できる)で、聖書の原則の下、どのように預言を学び吟味し対応しているのか。

この教会では、新来者を歓迎することはもちろん、どんな方でも広く受け入れている。情報もオープンで、安心して確かめに来てほしい。批判・中傷はその後でもできるはずだ。当TLCCC船橋キリスト教会でも、あなたを歓迎します!連絡くだされば、面談にも応じます。 ケパ



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