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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

聖書で預言された時代が目の前に

2016年04月04日 | 聖書
 みなさん、送られてきたマイナンバーのカードをお作りになられたでしょうか? 法で制定されたこのマイナンバー。前職の都合上、私は不正な税金逃れにかなり義憤を感じていたので、大賛成でした。しかし私の友人の中には、マイナンバー通知そのものの受け取り拒否をされたり、「カード作成まではねぇ・・・」と躊躇されていたりと、様々です。私といえば、賛成していたので即iPhoneで肖像写真を撮り、すでに顔写真入りのマイナンバーカードを発行していただきゲットしています。余計なことですが、カードを受け取りには、すでに届いていた紙のカードを引き替えで提出しなければなりません。すると無料になります。

 しかしこのマイナンバー、分かってはいましたが、これは二千年前に聖書で預言された(下記の聖書箇所を参照のこと)が成就するお膳立てとでもいうべきものです。

[聖書『ヨハネの黙示録16章16-18』
16また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
18 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。]


 ここで理解するポイントは「すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた」とあること。その刻印なしには「だれも、買うことも、売ることもできない」です。これは終末の最後の最後の三年半、サタンによる反キリストが世界をいかに支配するか、自分を神として神格化し拝まさせるために使う方法が述べられているところです。目的は完全支配を目論む反キリストが、自分を拝まずに抵抗するクリスチャンたちをあぶり出し、迫害し抹殺するためです。
これまでの二千年間、これがどのようなものであるのか、サッパリ分かりませんでした。しかし今この時、それは明瞭になってきたのです。

 マイナンバーの写真入りのカードを受け取る時、私は、係の人に問いました。「あのう、これ、ゆくゆくはこれがなければ、買うことも売ることもできなくなるんですよね?」 果たして答えは、ナ・ナント❗️「そうなるでしょうーねぇ」だったのです。「ついに来た!」と思いました。

次に刻印です。最近のITニュースで「入れ墨方式のICチップ」が話題になっていました。
これまでは家畜や犬、猫にICチップをその体内に埋め込むことをお聞きになったことはあると思います。
愛犬が迷子になった時にと。すでに埋め込んでいる飼い主もいることでしょう。

しかしそうは言っても「人間の体内に埋め込むなんて、ちょっと抵抗が大き過ぎるんじゃあ?」と私は思っていました。それに、埋め込むチップは刻印ではありませんし。ところが、です。なんと人の皮膚の表面にコンパクトな電子回路で刻印する、つまり入れ墨ができるようになってきたらしいのです。この入れ墨方式のIC刻印に、マイナンバーがドッキングすれば、もう全人類は為政者に完全コントロールされてしまうこと請け合いです。一人一人が何を買ったか、どこへ今居るのか、どういう特性(例えば危険人物なのか)があるのか、刻々と把握されていくのです。
(王の像を拝むよう強制されても、拝まなかったイスラエルの三人)
最近これをさらに強力に後押しする状況があらわれました。
現在IS(イスラミック・ステート)によるテロが世界を恐怖に陥れていますが、その対策が難航しています。人が大勢集まる場所、たとえば空港とかスタディアム、大きな鉄道駅などをテロリストの自爆攻撃で狙われたら、有効に防ぐ方法がないのです。
もしこれを防ぐなら、すべての人類のナンバーをふり、その刻印によるコントロールしかありません。因みにアメリカも納税者番号といって、すでに番号管理は徹底しています。するとどうなりますが?
もしテロリストが地下鉄の駅に入ろうとしたら、駅の入り口でアラームが「ブブーッ」、車で移動しようとしたらETCゲートで「ブブーッ」、コンビニに入って物を買おうとカードを出した途端「ブブーッ」。確かにテロを防ぐにはむちゃくちゃ有効です。ひょっとしてその人が何を買ったのか分かるので、爆弾の原料や部品を買った記録から、防犯コンピューターが未然に危険性のある人物を割り出し、爆破に強いロボット警官が派遣され、自動操縦の車に乗って、犯人とおぼしき人物のGPS位置測定をしながら即逮捕しに行くことだってある得るでしょう。

このように預言通りの「すべての人々に刻印」の追い風が吹いているのです。いよいよ、終末の時代、世界の終わりが見えて来つつあります。   




ケパ






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これは紙芝居!

2016年03月28日 | 聖書
あら❣️ ケパさんが、ぬり絵始めてます。
これって、火の中よね‼️
わかった金持ちとラザロの話ね。イエス様がパリサイ人に話をされた話し。あらぁ。ケパさんいつどこで聞かせてくれるのかな。


ドルカス
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公教育VSチャーチホームスクール

2016年03月02日 | 聖書
昨年、ホームスクール関係者たちと触れ合う機会があった。チア・ジャパンの方たちとである。そして私は元とはいえ、公教育の教師であった。普通立場的には、対立する位置にある。ただ共通点があった。それは互いにクリスチャンであるという点だ。

私が現役の時、ホームスクールを知った時の感想はかなり否定的なものだった。「家庭で教育なんて、できるわけがない」だった。それは教育のプロとしての自尊心もあったが、子どもの実情を知る者としての実感であった。またもし実際にあるとすれば、教育計画(カリキュラムと教科書、実験設備など)や評価、実際に教育にかけられる親の時間はもちろん、最大の課題は同年代の子供との社会性の育成だろうと思った。だから、ムリムリと。

反面、公教育の問題も大きかった。特に正直、道徳が最悪であった。だいたい道徳なんて、教えたからといって、性格や人格を変えられるとは誰も思わないであろう。実際に教えていて、建前でなく、結局は子どもの利己心に訴える以外に他に方法はなかった。空しい教科であった。また、深刻ないじめ問題や、子ども同士の影響も、良い影響を与え合う可能性より悪い影響を受けていく可能性の方がはるかに高い。特に問題なのは、反聖書的、サタン的な本質である。日本のお役所や公教育では、宗教を完全に排除する。そして教えるのは人間を称揚した人本主義である。人間は本来善であり、限りない可能性を有している、と。三十年教師をしていた私が言うのだから、間違いない。

それはキリスト教から見れば、全くの見当違いである。人間は人類の祖、アダムとエバが罪を犯してから、誰一人例外なく罪人である。全くの正反対である。もともと教育とは教会のものであった。それを国家が産業の要請に応えて「産業革命に必要な低廉で規範性の高い、大量の労働者の生産」の命題で、教会から教育を取り上げた歴史がある。公教育は教育の土台からして人間教という偶像崇拝を犯しており、進化論という不信仰者の単なる仮説を真理であるかのよう教える。公教育の内容たるや、キリスト教とは全く相いれない、むしろ敵対するサタン的なものである。

そこでチア・ジャパンのことに戻るが、聖書に準拠した素晴らしい教科書が山積みされ、指導書があり(写真)・・・を目の当たりにして私は脱帽した。指導法についても、様々な保護者同士の研修会があって、レベルの高いものであった。もし私がこのチア・ジャパンを知っていたら、ひょっとして自分の娘たちをこれで育てていたかも・・・もしかしたら免職覚悟でしていたかも知れないと思わされた。クリスチャンホームの皆さん、子どもの教育を学校任せにせず、是非チェックしてみてください。 ケパ


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AI(人工知能)ロボットの時代と聖書の警告

2016年02月29日 | 聖書
この群れ、主の十字架クリスチャンセンターの預言では、「AIとインターネットがこれからは用いられる」と繰り返されている。そして最近のニュース(AFP)で、AIロボットが普及していく三十年後には、全人類の雇用の半分はロボットに取って代わられるだろうと報じていた。単に仕事、雇用という面から見るなら、【全人類の半分】は居なくてもやっていける世界となるのである。

上の写真は自動車の車体ラインの産業用ロボットであるが、もはやスポット溶接なような危険で迅速にかつ正確さを要求される作業には、人間不要である。ましてAI(人工知能)で動く人型ロボットが一般的な時代になると、3K(キツイ・汚い・危険)的な分野はもちろん、老人介護・タクシー運転手など、あらゆるところでロボットが働いてくれていることだろう。ロボットは二十四時間文句を言わずに働いてくれるし、AIとなると、賢く学んで忘れないし、指示に対し的確に応えてくれる。出来ないのに出来ると言ったりのハッタリもない。怠惰さとは無縁の勤勉な存在である。
特に車などこれからは、近い将来車体自体がロボットとなっており、車に乗り込んで、後は行き先を言うだけでよい時代になるはずである。当然運転ミスによる事故は激減する。最近の車についてだが、ハイブリッド車などの普及で、昔ながらの修理の技術では手をつけられなくなり、熟練工が不要になりつつあると聞いた。すでに故障箇所を見つけるのはコンピュータだし、直すと言うよりほとんど部品の交換で済むようだ。将来はロボットドックに車を入れたら、洗濯機みたいに全自動で車を直す時代になるだろう。(下はGoogleの無人運転自動車)

しかも重要なことは、学んだことやその蓄積したすべてが、一瞬にして全AIロボットに共有でき、恐るべき進化を遂げられることである。その上ロボットには死がない。部品を交換すれば、データは転送すればよいのである。果たして人類はこれに勝てるか? となると、人類はAIロボットに負けないよほどの創意工夫に長じた人か、または貴族のような特権階級の人々で遊びに熱中できる人々だけが生きていて、それ以外の残り全人類の半分は生きる糧の仕事がないだけに、一日中テレビを死ぬまで見ていたり、それにも飽きればふうらフーラ亡者のようになってしまう。またエネルギーに溢れた若者は、権威や秩序に対して反抗し破壊的な行動に走るようになるだろう。しかしその時対する警官隊は、同じ血肉の通った人間ではなく、ただ命令に忠実な人型ロボットである。

この全人類の半分が不要になると言う言葉に反応するのは、やはり【全人類の半分】が死ぬ、という警告的な預言が、今からほぼニ千年前の書物、聖書の黙示録で語られているからだ。

ひどく簡単に紹介すると、終末の時代は大地震や天体の異変が起こり、飢饉が起こり、戦争が起こり、パンデミックな伝染性疫病が世界を覆う。混乱した世界にその時、反キリストと言う世界を救う、実は滅ぼすのだか、恐るべきヒーローが登場する。この終末の七年の時代の前半に、まず1/4の人々が死に、次に1/3の人々が死ぬ。前半の三年半だけで、併せて全人類の半分が死ぬとされているわけだ。恐るべき符号の一致である。最後に世界は、この反キリストを神として拝まさせられ、拝まない者は殺されていく。そして七年の終わりの最後に、再臨のキリストがエルサレムのオリーブ山に降りてこられるのだ。

今からでも遅くはない。たとえ神は信じていなくても、聖書を「本当にその通りか?」と調べていただきたいものだ。聖書にはAIロボットには決して真似のできない、魂の世界が開かれているからだ。人間の真の生き方、生きることの意味、免れない死が、永遠の天への祝福の道であることがわかる。ただ一つ、その十字架の道があることを。 ケパ


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聖書コレクター2

2016年02月01日 | 聖書
このテーマでの前回は、小さな文語訳の新約聖書でした。のどから手が出るほど聖書が欲しくても、田舎の子どもでは手に入れる方法もない中、大学進学のため、お別れの記念にいただいたものでした。この世にあってはならないと言いながら、いわば宝物です。

さて今回は逆に、最も大きく、最も新しくコレクションに加わった聖書です。近年私は英語聖書の素晴らしさに惹かれています。翻訳のバラエティに富み、製品のクオリティが高いだけでなく、アマゾンのおかげで価格的にも安く手に入るようになりました。

昔のことですが、高校の英語の授業で、英語は聖書とシェークスピアが土台だと聞きました。それだけに英語で聖書にふれると、非常にわかりやすく感動します。逆に聖書がわかっていないと、慣用句など英語の真髄が身につかないのではないでしょうか? 特に英語の中でも欽定訳聖書と日本語名がついているKJV(ジェームス王訳)と、わたしが一番良いと思っているNIV(ニューインターナショナル訳)が一冊の本の中に仲良く並んでいるのが、上の写真です。二つの訳を2色の色表紙で表しています。権威と忠実、いわば両者補完しあって、これはこれさえあれば完璧と思えるものです。少し大判ですが、これが人工皮革で5千円で買えるなんて、驚きです。感謝! ケパ


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聖書コレクター

2016年01月25日 | 聖書
12、3歳の時、キリスト教の神、人と人格的に交わる神がホンモノの神だと本でわかった。しかし近郷近在はおろか、身内にも町の人にもキリスト教のキの字は見当たらなかった。全くの非キリスト教環境、この点がドルカスとか、他の多くのクリスチャンとの違いを感じる私の生い立ちである。

手がかりを探して何年かたち、私は中三になっていた。そのある秋の日、普段は通らないすぐ近くの民家の並びを歩いていて、ある一軒の玄関横に「日本基督教団三次キリスト教会伝道所」という木製の看板を目にした時、私は興奮した。その日以来、その家をいつもマークした。どういう人たちが住んでいて、何をしているのか、大丈夫だろうか、チェックを欠かさなかった。しかしその家は玄関がいつも閉じられており、あまり人が出入りしている気配がなかった。

それでも諦めず待つこと数か月、クリスマスイブの夜がきた。雪混じりの夜、気になって覗いて見ると、果たして玄関が開かれて、人の集まっている気配があった。私は勇気を出して、「こんばんは」と入っていった。そして真っ先に目にしたのが、玄関横の靴箱の上に飾られた一冊の黒い聖書(写真)だった。「ああ、聖書!」喉から手が出るほど欲しかった聖書だった。※町の本屋に、図書館にも、聖書は無かった置いてなかった・・・

それから私は高校時代の3年間、毎週水曜日の夜の聖書研究会に、どう見ても七、八十代の二、三人と一緒に参加し続けた。聖書を買うことができなかった私は、いよいよ高校を卒業して大学生になるという春、独り住いの主催者から「記念に何か差し上げたいが、何か欲しいものがありますか?」と言われて、いの一番に玄関に飾ってあるあの聖書(文語訳)を希望した。いつも通る度に私は羨望の眼差しを持って見ていたからである。(大正六年改訳の新訳と詩篇付き。見ての通り今では貴重な活版印刷)

大人になってこの時のことを思い出すと、本当は1955年改定の現代口語訳を与えようと思っておられたに違いないし、玄関に飾ってあるあの聖書は、きっと何かしら貴重なものだったに違いないと今では推察できる。しかしこの時、少しだけ微妙な間をおいて「分かりました。では今晩持って帰りなさい」と何かしら決断して言われたのである。

私の聖書コレクターの「最初の一歩」はこの時からであるし、若気の至りであったが、それにしても実に由々しき信仰の書を継承してスタートしたのだった。
ケパ




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進化論と創造論

2016年01月11日 | 聖書
一昨日、イジメのことを書いた。そこで少し触れたのが、自殺であった。なぜそれがとてもいけないことなのか、それを別な視点で述べたい。
私が中学生の時だったと思うが、ダーウィンの進化論を授業で習った。私の頃には始祖鳥の化石、人類については北京原人とかジャワ原人が進化論を裏付ける証拠として挙げられていた。これらは後年、単なる絶滅種の化石に過ぎないことや、原人に至っては考古学者の捏造であることが判明しすべて否定されている。いかに進んだ科学をもってしても、進化論は仮説というより憶測の域を出ておらず、授業で教えてはならないものだ。

現在の進化論は格好を少し変え、遺伝子DNAのレベルですべて偶然の結果で進化したとする。どんなにその確率があり得ないレベルのものであったとしても、そう推測する。推測できれば、他に考えようが無いので、それを真実とするようだ。神を信じない者には、それしか見出せないからだ。しかしその害悪は甚大であり、人間の存在に意思や目的を奪い去り、存在を偶然の結果として無に落として、尊厳を否定する道具となっている。だから科学的でも何でもない進化論は、百害あって一利なし、教えてはならないものだと思う。

私が言いたいのは、聖書の創世記にある、唯一なる神が宇宙と天地万物を創造し、種に応じて生物を造ったという確かさである。そう、男女は最後には神の形に似せて造られ、今も一人一人に神の御心が注がれ、愛され、形づくられ、最後に父母を通して世に送られた存在なのだ。自分がどんなに小さく、劣るものと感じられたしても、神が愛しておられ、意図をもって世に送られた存在なのだ。ただし自分を造られた神の御心は、クリスチャン以外、当の神に聞かないからいつまでたってもわからないのである。例えば缶切りがそこにあったとして、どうあっても金づち代わりにならないし、ジャガイモの皮もむけそうにない。缶切りは缶詰を開ける時だけ、欠くことのできない存在を発揮するのだ。

全クリスチャンも、進化論から逃げずに聖書的に対応しなければならない。人類が最初のアダムから始まったなら、仮にもしそれが神話であったのなら、最後のアダムであるイエス・キリストも神話と言うことになる。アダムの堕落がなかったのであれば、罪とは一体なんでしょうか? 創造や堕落を通して、私たちの所有権は造物主たる神にあることがわかる。ならば自殺とは神のものを管理者に過ぎない存在が殺めることになり、悔い改めることのできない殺人の罪を犯すことになるのです。進化論はこのハードルをなくした責任があるのです。 ケパ



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神の言葉は、神の言葉だとわからせられる

2016年01月02日 | 聖書
バプテスマを受けて44年あまり、高校時代の3年ぐらいは教会に関係していたので、私は聖書を半世紀近く読み続けていることになる。
私は生涯で一度も伝道されたことがない。親類縁者はおろか、近郷近在の半径20数キロ以内に教会が一つもない地域に生まれ育ったので、誰一人私に福音を語る者はいなかったのだ。
にもかかわらず神は、12歳の私をとりこにされたのである。それは本好きの少年が帰宅途中の本屋の軒先で、ある日、アンドレ・ジッドの「狭き門」という文庫本を手に取ってパラパラと数枚めくった時に起こったことだった。最初に目に飛び込んできた、次の言葉だった。

「狭き門より入れ、滅びにいたる門は大きく、その道は廣く、之より入る者おほし。」 マタイ伝7章13節

セマキモンヨリ イレ・・・・私は言葉を反芻しながら、この聖書の言葉に、何教かわからないけれども、多分ヨーロッパだからキリスト教というものだろうが、この言葉は真の神が言っていると感じた。広い門ではなく、狭い門から・・それはどういう道なのだろうかと、考えるようになった。

三年近く経って15歳という、少し行動力が付いて、遠くの教会を覗けるようになって、やはり聖書の「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」(マタイ伝5:3)などの御言葉に出会った。神の言葉に触れると、また同じ追体験をした。このような深く透徹した言葉というものは、人智を超えた神の知恵の力としか思えなかった。別な言葉に置き換えれば、真理、それに近いだろう。

あれから長い、長い月日が経って今や六十代の半ば近くなったのだが、今でも毎日聖書を開くと「ああっ、神の言葉だぁッ」と打たれることが多い。世人の中には聖書を読んでも、全然そうは思われない方も多いようだが、私にはそれが理解できない。聖書を読めば、この神が真の神であることはハッキリわかるはずなのだが。実はこの答えも、すでに聖書にあるのだが・・・参考)ルカ伝16:19-31
ケパ



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クリスチャンのさばき

2015年12月07日 | 聖書
非常に大雑把(おおざっぱ)に言えば、神を信じない人にも、信じる者にも、一度だけ大きな判定があって、これを聖書では(死者の)さばきといい、第二の死とも言う。もちろん判定は神が絶対的な権限でされる。このさばきというものは恣意的なものではなく、その人か生前に行った膨大な記録による。そうなると人の死後は決まっていて、全員が有罪となり、例外なく地獄行きである。芥川の「蜘蛛の糸」とは異なって多少の善行があろうとも、基本自己中心性と原罪が人間にはあるので、みな第二の死(地獄=火の池)行きは確実となる。

ではどうしたら逃れられ、天国へ行けるのだろうか。イエス・キリストの十字架を信じる道しか人類には残されていない。天地万物を造られた神ご自身が、こんな自分の罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったことを告白し、信じることである。十字架は全ての罪を帳消しにするスーパーカードのようなもので、天国とは正しい人が入るというより、罪人が罪赦されて恵みで入れる所である。

ところで神を信じた人にもさばきがある。そう言うと「エエッ」と驚かれるクリスチャンも多いことだろう。これはさばきというより「報い」というべきものである(1コリ3:10-15)。クリスチャンには第二の死はありえないので、確かに天国には約束通り行ける。ただし天国には、諸国の民が住む所と、天から降りて来る神の都エルサレムとがある(黙示録21章)のがポイントである。気になるのは、そのどちらに住めるのか?ということであって、都のエルサレム内に住めるのは、千年王国の時代、キリストとともに王となり、おそらくは多くの民を導く役目をするはずの殉教者か、または携挙されるような殉教に相応した信仰者(聖徒)だと私は見ている。

私はこれら千年王国の王たちが、 神の都エルサレムの聖所の柱となり、その住人となるのは確実と思っている。私はこの都にすむことを、皆と同じように熱望している。なぜならまず第一に主の近くに一時でも長く居たいと思うからだし、その都の中央には「光る命の川」と両岸には命の木(どんな木だろうか!)と毎月実のなる十二種の木があって、ここには諸国の民も来れるらしく「木の葉がいやした」とある(黙22章)。これが天国の実体なのだ。ここには悪や一切の呪いがないうえ、永遠の世界なのだ。想像するだけでも胸が熱くなるではないか。 ケパ



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人を愛する神

2015年12月04日 | 聖書
神を信じない人は当然としても、クリスチャンに対しても戸惑うことがある。それは「神とはどういうお方、お人柄なのか?」ということである。

これについては実はすごい資料がある。キリスト教の神は唯一神であるが、三位一体の神でもある。特に十字架のために人の形をしてこの世に来てくださったキリストが最大のモデルである。このキリストについては聖書でなんと、福音書という四つに分かれて詳細に描かれている。このイエスという神を知る手がかりを、以下の二つをあげる。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」・・・(マタイ5;3–4)

石打ち刑で殺されるべき姦淫の女、を連れて来て、イエスに断罪させようとし企みに対して、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。(ヨハネ伝8章)

「神は愛なり」とよく言われるが、弱者に寄り添い、人間の罪深い弱さに対しても、この深い透徹した愛そのものに、自分の心が痛むほど、愛なるお人柄がよく分かるのだ。
もう一つ、日々のデボーションなどを通して、内住される聖霊様との交わりによって知ることができる。よく「聞き従い」とか「御心を行う」とかの言葉があるが、神様の御人格を知れば、このお方がどれほど素晴らしいか、心酔するというか、無条件に従いたくなるし、そのご計画に自分を心から用いていただきたくなるのは必然だ。神様の人柄を深く知る、それは人間としの最高の喜びだと思う。 ケパ



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