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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

イスラエルをなぜ祝福しなければならないか?

2018年03月15日 | 聖書

どうしてイスラエルを私たちは祝福しなければならないか? 今夜はそのことを簡単に述べたい。(イスラエルの国章=メノーラ)

現在イスラエル人は千六百万人で、イスラエルに住んでいる八百万人とほぼ同数が世界各地に分散して住んでいます。聖書を多少知っている人なら、キリストや聖書の預言通り、ローマによって世界中に散らされ、これまで二千年近く流浪の民として生きてきた民族です。そんな国がこれまた聖書の預言通り、約束の地に再び建国できたのも奇跡的でした。
それだけでなく、このイスラエルは実に不思議な国で、聖書に書いてある「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章3節)もまた事実なのです。その証拠としての事例を2点に絞って述べよう。

①ノーベル賞受賞者の数
世界全体の人数を過去の64億人ぐらいとすれば、ユダヤ人(=イスラエル人)はわずか0.25%に過ぎませんが、なんとユダヤ人は2割に達し、アメリカ国籍などをとっている場合が多いので、実際には4割以上と言われています。因みにノーベル自身もユダヤ人。

②世界の列国の興亡史はユダヤ人が決めて
ポルトガル(16世紀)→オランダ(17世紀)→イギリス(18-19世紀)→アメリカ(20世紀)と覇権が移って行ったが、そのすべてにユダヤ人が上記国間を移動し、興亡に関わっている。ユダヤ人を受け入れた国は繁栄し、追い出した時から衰退していった。

これはなぜだろうか? 異邦の民は、その根付いた国で嫌われないようしなければならない。つまり、その国の人々と同じことをしないことであった。その結果が、キリスト教社会では嫌われていた金貸しなどの金融業であり、世界中に張り巡らされていたユダヤネットワークを活用しての情報活用して得られた、有能な存在になることであった。だいたい日本でも信長の楽市楽座など、市場(通商)につきものの金が回らない所が栄えたためしがない。繁栄の裏にユダヤ人ありき、なのである。その結果として、ロスチャイルドなどの世界的な大富豪もまたユダヤ人なわけ。

ユダヤ人を歓迎し、英国では宰相にまでユダヤ人を受け入れたので、大英帝国となった。そしてアメリカも自由の国として、ホロコーストなど難を逃れたユダヤ人が多く移住し、特にニューヨークでは一つの街を作るぐらい、その多さは有名である。国が発展するためには、金回りと抜群のアイデアがポイントであって、それがユダヤ人なのだ。

以上述べたように、イスラエルを祝福する国は栄えた。だからこの聖書の言葉は侮ってはいけない。真実なのである。


ケパ:



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進化論と戦う

2018年03月10日 | 聖書
牧師たるもの、土曜日は明日のメッセージをどうしようかと思い悩む1日である。だからどうしたって心が落ち着かないのも道理である。

先週は二日間も示されなく、当日の朝になって導かれてクリアした。しかし今現在、明日は一週間以上も前に予定していたテーマで語る。それは「進化論に騙されないで、聖書の創世記を信じよう」である。

高校生の時、進化論は仮説として聞いた。しかし今や学校で進化論を教えないとクビが危ないそうだ。日本のようにもともとキリスト教国でなければ、あまり大きな問題にならないと思うが、これが欧米となると超大問題となる。

現代では欧米がヒューマニスティック(人間中心主義的)な国となり、LGBTとかにも寛容でオープンな国になりつつあるが、しかし少なくとも戦前までは全く異なっていた。日本でも今ではできちゃった婚が普通になり、結婚式が形骸化してきているが、私たちの若い頃は不面目なことであった。

これらの背景にあるものを一言で言うなら、欧米においては信仰が力を失って来たからであり、その最大の原因が「進化論」にある。神を信じない人にとって、聖書の神が自分を意図を持って造られたと言うのは、まことに居心地が悪い。そこで1859年にダーウィンが唱えてくれた進化論は、まことに都合が良いものだった。神を信じない者にとっては、他に選択の無い一択問題だった。
しかしこれは現代に至っても、科学的に照明されることのない、単なる仮説に過ぎない。それがあたかも真理のように扱われている。

もし科学的な真理であれば、化石にでも中間種が発見されるはずだし、最新の科学であるDNA解析でも明らかになるはずである。実はそれがあったのに、不信仰達は意図的に無視し続けている現状がある。
日本の理研とドイツの研究チームが人とチンパンジーとの遺伝子解析を進め、2004年にネイチャー紙に発表した。その結果は遺伝子が83%も違っており、猿からヒトへの進化の可能性がほぼあり得ないという結論が出ている。今日の科学者の間では、種を超える進化論は否定されて、人類は宇宙人がやって来て造ったなどと言われる始末である。

皆さんも学ばれた学校の教科書では、ヘッケルという熱烈な進化論信奉者が描いたデタラメな想像画が、どんなに事実と全く異なることを指摘されても、(他に進化論を証明する資料がないので)掲載され続けている。これは神がいないことにしたい一つの信仰である。

こうしてみると進化論は、神を信じない人々が信じるしかない一つの信仰なのだ。下記の聖書よりももっとその根拠がないものに過ぎないのだが。クリスチャンは、この科学という衣を被って信仰を破壊しようとする敵(サタン)と戦わなければならない。


[聖書 創世記一章]
神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。


ケパ




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聖書を読んでわかる

2018年03月08日 | 聖書
聖書を読めば、気がつくこと、わかることがある。それは聖書の中心人物であるイエス・キリストが、どう考えても尋常ならざる(普通ではない)人物であるということだ。以下は私が求道中だった高校生の頃の話である。(写真は高校生の時にいただいた1949年発売の文語聖書)

例えばマタイ22章19節にみるイエスへのトラップ(ひっかけ)質問である。
「(前略)どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
これはパリサイ派とヘロデ党がグルになって、どちらに答えてもイエスが罠にかかる質問をしたシーンである。もし、税金を「カイザル(ローマ皇帝)へ」と言えばローマにくみする者として大衆を離反させることができるし、「 否」と答えるならばただちにローマに反逆者として訴えることができる。このようなトラップ質問には普通答えないのが賢明なのだが、イエスは違った。

(カイザルの肖像が入ったコインを持って来させ、そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」と答えたのだ。これにはさすがの悪知恵たちもグーの音さえ出なかった。
この答え、寒気がするほどスパーンと人間の愚かしいずるさを切り裂いた答えだ。こんな答えができるのは人間じゃない、と私は思ったものだ。

マタイ5章にも圧倒された。あらゆる癒しなど、イエスの評判を聞いて集まった大群衆を前にして、初の本格的なメッセージである。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。・・・・中略・・・義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。」

「心の貧しいものは幸い」なんて、だれがそんな発想ができるだろうか。「ああ、なんとかして叶えたい、手に入れたい、豊かになりたい」などと日々いろんなものを欲しがり、望むものなのに(そして手に入れられないと嘆くのに)、心が貧しいこと、それが<幸い>だなんて、どういう発想なんだ! どうしてそんなことが言えるんだ? 見えるものしか見えていなかった私は、イエスの言葉に強烈なパンチを食らった感じだった。

***********

半世紀前のこんなことを思い出しながら、今思うことは次の金持ちの話である。
ルカ16章に「金持ちとラザロの話」がある。金持ちの門前でおできに苦しみながら、ただ哀れみの施しをもらっていたラザロ。そしてこのラザロも金持ちも共に死んで、金持ちはハデス(地獄のようなところ)で苦しんでいた。それでも親族を思う気持ちはあって、天国のようなアブラハムのふところにいるラザロを、どうか自分の兄弟のところに送って、こんなところに来ないようにしてくださいと願う話がある。すると・・・以下その31節。

「アブラハムは(ハデスにいる金持ちの)彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

<モーセと預言者との教え>とは聖書のことである。15、6歳の頃の私は、何を教えられたのでもない、ただ聖書に書いてある言葉から、このイエス・キリストという歴史上の人物が、単なる人間ではないことと、それが神であることを知った。逆にまた、聖書を読もうが、福音を聞き、聖書を解き明かされようが、イエス・キリストが神であることがわからない人の方が圧倒的に多い。おそらく、どんなに真理を聞かされても、それを受け取りたくない心があるのだろう。
受け取れる、受け取れないのこの違いを予定説的に受け取れなくもないが、たしかに言えることは、これは「恵み」なのだとわかる。私はただただ、神のあわれみ、恵みを受けただけなのだ。私の力ではない。これを感謝しなくてなんとしようか。



ケパ




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アダムからイエスさま

2018年02月22日 | 聖書
週始めに新宿のオアシスへ寄った時、
私は単純に、バーゲン品の年間メモノートとか、売れ残りの2018年カレンダーなどお得品探しが目的だったけど、見事空振りであって感謝してた。

っと❗️です。ケパさんの目にしたものは
アダムからキリスト系図日本語版
家には既にイスラエルで買い求めた
A Family Tree From ADAM to JESUS
あるからいらなんじゃなぁい❗️ちょいとお高い。とぶすぶす言う私を
「これは絶対分かりやすいよ。勉強になる」と説得する。今日は、本も一冊で我慢してくれたのでね〜と賛成したのです。


そして今日は、のりつきパネルを買ってきて、2人で仕上げた。
早速座り込んで、両方比べて楽しそう
余程の歴史好きです。
と言いながら、手伝った私も結構楽しい〜

聖書の系図だから名前を見つけて読むだけでも、ウキウキですね。

次回はこの年季の入った英語版も、パネルに貼りましょうか。と協力的です


ドルカス




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真の聖地を探る〜聖墳墓教会と園の墓

2018年02月19日 | 聖書
キリスト教徒にとって、聖地の中の聖地と言えば「聖墳墓教会」か、あるいは「園の墓(Garden Tomb)であるには間違いない。ユダヤ教徒には神殿の丘(今現在は自分たちの管轄下にありながら、イスラムの第三の聖地であり、モスクがある。特別な場合を除いてはユダヤ教徒は立ち入れられない)がある。主イエスはそこで宮清めをなし、多くのことを語られたのではあるが、キリスト教徒にとってはなんと言っても十字架である。(写真はゴードンのゴルゴタと、園の墓の墓)

イエス・キリストの十字架に架けられた場所と葬られ復活された場所と言うのがどこなのか、これが全く異なる二つの場所があるから混乱する。いや、正確に言えば、19世紀のゴードン将軍のゴルゴタの丘らしき発見と推奨によって、この混乱が始まったのだ。それまでの長い間、その場所は聖墳墓教会が独占していたのだが。(写真は聖墳墓教会と図解)

実はこの度、雑誌ナショナル ジオグラフィックの「本当のイエス」を見るまでは、私はやや「園の墓」派だった。しかしこの書にある聖墳墓の歴史的な変容と考古学的な発見とによって、大きく「聖墳墓教会」に針を傾ける結果になった。
特に衝撃的であったのが、埋められたが、当時はあった石の採掘場である石切場の存在であった。ポカッと大地に大穴が空いていたのである。十字架か立てられた少し小高いゴルゴタは、この石切場の上の尖った岩場であり、墓はすぐ下の元採石場にあったようだ。ただ、歴史の中で石切場が埋められたり削られたり、ドームを建てられて覆われたり、原形をとどめないほどあまりにも変容してしまったらしい。

さらにイエス時代のものである重要な発見が、先の修復の際にエディクラ(イエスを納めた墓を直に覆うドームの中の小さな建物。下の写真)で発見された。この雑誌はこれら変遷をドラマティックに図解しており、まさに目からうろこである。詳しくはナショナル ジオグラフィックの同書をぜひ手に取ってみてほしい。今なら千円と少しで手に入るはずである。

全く余計な付け加えだが、せっかく旧市街に入り、イエス様が十字架を負って歩かれた道(Via Dolorosa)の終点である聖墳墓教会を前にしながら、ここを「霊的に悪い」と、かなりの人が中に入らない。残念に思うが、強制はできない。中には怖さのためであろうか、泣き出す人もいる。霊的に敏感だとされている方に多いようだ。
確かに聖墳墓教会の中は暗いし、日本人には馴れない香料が匂う。その上、いつもものすごいごった返しである。人に圧迫されるし、ゴルゴタを見るにはかなり階段に並ぶ。なにしろ世界二十億以上のキリスト教徒の中で、聖地を訪れることができた幸いなほとんどの人は、ここが目当てなのだから、みんな必死なのも当然である。

この教会は四世紀のコンスタンティヌス大帝の母によって発見され、十世紀の十字軍時代に今の形に建てられた、歴史ある超古いものである。キリスト教世界の最大遺産と言って良いと思う。だから入れるだけでも恵みであり、暗い、狭い、人でごった返す、匂うのは当然で、大勢の人に押され流され、ろくに見ることすらできないのが現状だ。

しかしだからと言って、主イエスが十字架に架かられたとされる、最も伝統的に信じられ保存され、かつ考古学的にも裏付けのある、この最大最高の場所に、霊的に悪いとして中に入ろうともしないのは、私には理解できないことだ。十字架に架かってまで私たちを愛してくださった子なる神、その最有力な場所を前にして、悪霊の巣窟のように怖がるとか、霊的に悪いとするのは、どう受けとめればよいのだろうか?

ぜひこのナショジオの本を読み、頭に入れてから聖墳墓教会を訪れられると、これまでの、暗く狭くごった返しのマイナーな印象とは相当違った見方が出来るはずである。もちろんこの中では十分な祈る時間はないが、それは後で補うことが出来る。まずは目で覚えることである。信じようとはしない世の人々の前に立たされ、証人として用いられるクリスチャンにとって、十字架と復活は、殉教もいとわない、自分のいのちそのものではないだろうか。


ケパ



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五大教会〜教会史の勉強

2018年02月14日 | 聖書


今、主の十字架神学校の試験週間中です。そんな中で、試験に関係あるかないかではなく、聖書理解の土台として学んでいます。
縦系列の年表はもちろん、横に当たる地理も大切です。今日は無理やり十字架を背負わされたクレネ人のシモンのクレネとはどこにあるのか? 使徒時代からキリスト教公認あたりまで、キリスト教世界を牽引したコンスタンティヌス帝によるキリスト教公認直後、三位一体などの確立に貢献した五大教会とはどこか? などを牧師手作りの地図で学んでいます。

さて皆さん、地図からそれぞれわかりますか?




[答え] クレネはクレタ島の南西、今のリビアの東海岸沿い。古代世界では大規模なギリシャ植民都市で、今は遺跡が世界遺産として残っている。※私は最近までクレネとクレタを混同してました(-_-)。

世界五大教会〜アレキサンドリア・エルサレム・アンテオケ・コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)・ローマ。六世紀以降、イスラム勢力によって東側の三つが陥落し、残った2教会はそれぞれ西方教会のローマカトリックとコンスタンチノープルの東方正教会に分かれることになった。



ケパ




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アイドル(偶像)を警戒しなさい

2018年01月04日 | 聖書
近所に船橋大神宮と言う、比較的大きめのお宮がある。元旦の日の夕方、家に帰ろうとしてその前を通りかかって驚いた。大勢の人が境内に入ろうとずらっと並んでいるだけでなく、駐車場待ちの車の大渋滞で、なかなか我が家に着けなかった。(下の写真は本文とは関係ありません)

普段は全くこんなのを見かけない所なので、これまで同種のものを見るたび、日本人とは年中行事時になると宗教心のスイッチが入るのかな? と思っていた。がしかし最近はそうでなく、これこそ偶像崇拝の極み、と思うようになった。

もちろん皆、神仏に祈願しに行くのだが、要するにそれは自分の願いや望みを、神仏をも使って何としてでも叶えさせるためなのだ。あるいはもっと漠然としていて、自分の不安を解消させようとしたり、何らかの合力を神仏から得ようと。そう、あくまで自分のために。
己自身が神という偶像になっていること、そのことに偶像崇拝が染みついている日本人は気づけない。ただし、無神論国家のこの国ではそれが当たり前であって、かく言う私の方がおかしい存在である。

手前味噌で恐縮するのだが、キリスト教は、その偶像崇拝を禁じる(最下の御言葉を参照)。十字架を信じた人とは、己の罪深さに芯から絶望し、罪の身代わり、十字架の救いの恵みにあずかった人である。キリストによって罪が贖われ、神から新たないのち、永遠のいのちを与えられた人たちでもある。
神ご自身が私を命を捨てて愛してくださった。だからその神の愛に応えたいと願い、自分の取るに足りない願いより、ただ神の御心だけを行いたいのである。自ら進んで神の僕として生きるクリスチャンは、まず神の御心を行おうとする。確かに自分の願いもするが、それが神の御心ならば、という大前提がある。神は最も私を愛してくださっており、御心が最善であることは体験を通してもよくわかっている。

それがあるのと無いのとでは、偶像崇拝であるか否かの大違いにもなる。クリスチャンは祈って、たとえ願いが叶わなかったとしても、むしろ神の計画は自分の願っていることよりもさらに最良の結果が用意されていると、かえってそれを喜ぶのだ。たとえ現状が最悪の結果であろうとも。これを信仰と言う。(モーセ・ウィキペディアより)

✝️子どもたちよ、偶像を警戒しなさい(1ヨハネ5:21)
Dear children, keep yourselves from idols.

✝️あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト20:3)
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新改訳聖書アプリ(iOS11用)を使ってみた

2017年12月22日 | 聖書
もう二カ月にもなるだろうか、iOS11へアップの悲劇。これにより日々の糧である新改訳聖書アプリが開けなくなり、ブログもできなくなり・・・この聖書断食は辛かった。これはiOSの全面64ビット化の為せるワザだった。(左は新改訳第三版のアップデート版、右は新改訳2017)

さて一昨日から、新改訳聖書センターからメールでの丁寧なお詫び状とともに、待望のアップデートが始まった。さらに今日になって予告通り、新しい聖書に対応した「新改訳2017」アプリが3,000円で販売された。

早速この第3版のアプリと新しい2017も試してみたので、クリスチャンでiPhoneやスマホユーザー必須のこれを報告をしたい。
まずこの画面からスタートする。最初だけだがカッコいい。次にあらゆるところが今回は改良・変更されているが、一番目立つのはルビ付きを選べることである。縦書きにも対応した。これらは子ども達にはすごく良いと思う。そうなるとこのアプリは引照がないだけで、新改訳聖書のチェーン式に近づけようとしたものであることがわかる。
目玉としては、聖書辞典と注解が任意の単語のところで開くことができる(課金有り)。緒論も付いているが、四福音書記事の対照表などや年表などは無いようである。便利である反面、物足りない。ただし大注文がある。私としては引照こそが大切であって、本文との同一画面内で引照を分割表示にし、必要とあらばすぐリンクして参照できるようにして欲しかった。これが無いのは非常に残念であるし、次回のアップに是非とも期待したい。
もう一点、注解についてである。とある注解書一つを丸ごとくっつけた感じで、使いにくく不十分なものだと感じる。私としては英語聖書におけるスタディバイブル的な仕様を期待していた(新改訳にもバイブルナビという類書が存在する)ので、注解ではなく、必要な随所での図や資料、解説が欲しかった。注解は注解書を別に買って開く方が、その神学的背景を勘案しながら選択的に読む方がベターだと思う。聖書に付随するものは、主観が入らず客観的にも疑いようのないもの、聖書を補足するものがふさわしいと思う。

ちょっと辛口で書いたが、上記のものを利用するには月々百円の課金がある。これをどう見るかは人様々であろう。とりあえず一カ月は無料なので、使ってみて継続を決めるのが良いと思う。他にも図版が増えたり、デザインが垢抜けている。このあたり、経験が生かされてきているようである。
さて裏ワザでもなんでもないのだが、はじめちょっと困ったのはコピー単位の節がないことである。「ええっ、章ごとになるの?」と驚いたが、本文中で範囲指定した状態でもう一度開くと下のような節がちゃんと出てくる。

また、新改訳2017の新アプリだが、初版から第三版までは部分改定の域を出なかったのだが、今回聖書名を変えた通り、これは新改訳初の全面改定版であるらしい。本日これも買ってみたが、第三版と2017をアプリ内で切り替えて使うことができるのは親切だと思った。

まあとにかく、再び使えるようになったことは、ずいぶん待たされたが、素直に嬉しい。2017の方、これは今後数十年は使うものなので、すぐには必要ないと思うものの、買わないという選択は無いと思う。ただしできれば、三版ユーザーに対して幾分かでも割り引きサービスがあれば、なおなお嬉しかったのだが。



ケパ




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J- バイブル2017到着

2017年12月11日 | 聖書
昨夜、教会から帰宅してみると、郵便受けにクロネコDM便が届いていた。空けてみると、注文したことを忘れていた新改訳聖書2017のパソコンソフトだった。ソフト名は「J-ばいぶる2017」と言い、「ユーザー限定特価」の予約販売を数ヶ月前にしていたものだった。

⭕️必須アイテム
今から十五、六年前、新共同訳聖書の世界からこちら、新改訳聖書の世界に来た時、真っ先に買ったものの一つがこれだった。聖書を学び、調べる際、該当聖句を調べるのに、以前はコンコルダンスというバイブルサイズの聖句索引本を用いた。辞書のような専用のそれでも、目当ての聖句にたどり着くのが一苦労だったことを覚えている。(写真は昔からずっと愛用していたコンコルダンス)しかしこのJ-バイブルというパソコンソフトで語句検索すると、瞬時にほぼ一発で探し当てられる。しかもKJVなど他の聖書もズラズラと同じ箇所が並ぶ。これはこたえられないほどの便利さである。聖書研究において、これはもはや必須アイテムと言ってもいい。
※ 今現在使用不能?のiPhone用の聖書アプリ「新改訳聖書」でも便利さは皆さんご存知。今月中にはiOS11用のアップデートがなされ、復旧するといのちのことば社から聞いている。

⭕️聖書は使い分けが肝要
昨日のメッセージにおいて、聖書を読む際の個人的アドバイスとして言ったことは、聖句の調べごとや礼拝での聖書参照などは、確かにスマホやパソコンのアプリが便利でしょう、と。何よりも軽いし速い。
また論理的、知的に聖書を調べたりして読むのであれば(ロゴス読み)、これらソフトやアプリなどの電子媒体を存分に使うべきでしょう。
しかし聖書を熟読し、聖書から語りかけを受けよう(レーマ読み)とするなら、本の聖書、それもできるだけ楽に読める文字サイズの聖書をおすすめする、と。私の場合、本の聖書からは、その文字と文字、文章からスチールやムービーのイメージのようなものが脳裏に立ち上がって来る場合が多い。しかし電子媒体からでは、それはほとんど無い。これは体験的に言えるものなのだ。

⭕️結論 両方とも素晴らしい。感謝して用いる。



ケパ




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携挙後の体考

2017年08月12日 | 聖書
携挙があるなんてことは、クリスチャンになって三十年間も耳にすることはなかった。私は大きな教会の執事や教会学校長を奉仕し、市内の教会のあちこちにもつながりもあった。それなのに、聞いたことがなかった。少なくとも記憶には残っていなかった。

しかし、である。この群れに導かれてびっくりし、「果たしてその通りなのだろうか」と愛用の聖書を調べて見ると、あるはあるは・・・・ざっくざっくとまではいかないが、嘘じゃない確かにその通りだと。<携挙>だけでなく、<聖霊の賜物><御霊のからだ>についても、聖書をもう一度読んで調べて見ると「ああ、ちゃんとここに、こんな大事なことが明白に書いてあるじゃないか!」と二度驚いたものだ。

霊的に開かれて見ると、何箇所も何箇所も、聖書の「聖霊」に関しての重要な記述や理解、注目しなければならないところが、私の聖書理解からごっそり抜け落ちていたことが明白だった。きっとこれは、いわゆる福音派のクリスチャンにも共通するものだとは思うが。

人は同じ音を聞いていても、特定の音を聞き分けて聞く。同じ文書を読んでいても、自分の立場や理解の枠内で読み取っており、それがいかに狭く、限界ある理解であったことかを思い知る。


ところで笑い話のようだが、携挙に関して、私はある心配事があった。それは携挙された後の、後に残される体がどうなるのか、だった。地上では大量の命なき体の始末に追われて、パニックになるだろうな、と。私は広島人なので、原爆後のその手の話を幾度も聞かされており、つい、それを思い出し想像してしまうのだった。

しかし今日の聖書箇所(ヨハネ20章)を見ると、私のその想像は間違いであることがよくわかる。
「シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に置いたままになっているのを見た【※葬り方について注を参照】」(6–7節)

つまりこれはどういうことかと言うと、遺体が置かれていたその所でイエス様は復活され、血肉の体も同時に消えたー残されることはなかったーのだ。そしてイエス様がマリヤに声はかけても触らせられなかったーまだ天の父のところに上っていなかったからー上って行かれてからなら、弟子のトマスに「手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい(27節)」と言われたように、実際に触れることもOKの完全な御霊の体になられたのだ。しかしその御霊のからだは血肉の体と等しくはない。実際のからだを持つだけでなく、天使のような力、永遠のからだでもある。

………………………………………………………………

※ユダヤ人の埋葬の習慣 : 復活を信じるユダヤ人やイスラム教では、決して火葬にはしない。仏教徒のように、仏にはならないので遺体を拝まない。イエス様のように洞窟とかに骨だけになるまで置くだけなので、匂い対策のため遺体を丁寧に拭き、没薬とアロエ漬けにした亜麻布でミイラ巻きにする。イエス様の場合、頭部と胴体とは違う布で巻いていたようである。
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