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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

携挙後の体考

2017年08月12日 | 聖書
携挙があるなんてことは、クリスチャンになって三十年間も耳にすることはなかった。私は大きな教会の執事や教会学校長を奉仕し、市内の教会のあちこちにもつながりもあった。それなのに、聞いたことがなかった。少なくとも記憶には残っていなかった。

しかし、である。この群れに導かれてびっくりし、「果たしてその通りなのだろうか」と愛用の聖書を調べて見ると、あるはあるは・・・・ざっくざっくとまではいかないが、嘘じゃない確かにその通りだと。<携挙>だけでなく、<聖霊の賜物><御霊のからだ>についても、聖書をもう一度読んで調べて見ると「ああ、ちゃんとここに、こんな大事なことが明白に書いてあるじゃないか!」と二度驚いたものだ。

霊的に開かれて見ると、何箇所も何箇所も、聖書の「聖霊」に関しての重要な記述や理解、注目しなければならないところが、私の聖書理解からごっそり抜け落ちていたことが明白だった。きっとこれは、いわゆる福音派のクリスチャンにも共通するものだとは思うが。

人は同じ音を聞いていても、特定の音を聞き分けて聞く。同じ文書を読んでいても、自分の立場や理解の枠内で読み取っており、それがいかに狭く、限界ある理解であったことかを思い知る。


ところで笑い話のようだが、携挙に関して、私はある心配事があった。それは携挙された後の、後に残される体がどうなるのか、だった。地上では大量の命なき体の始末に追われて、パニックになるだろうな、と。私は広島人なので、原爆後のその手の話を幾度も聞かされており、つい、それを思い出し想像してしまうのだった。

しかし今日の聖書箇所(ヨハネ20章)を見ると、私のその想像は間違いであることがよくわかる。
「シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に置いたままになっているのを見た【※葬り方について注を参照】」(6–7節)

つまりこれはどういうことかと言うと、遺体が置かれていたその所でイエス様は復活され、血肉の体も同時に消えたー残されることはなかったーのだ。そしてイエス様がマリヤに声はかけても触らせられなかったーまだ天の父のところに上っていなかったからー上って行かれてからなら、弟子のトマスに「手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい(27節)」と言われたように、実際に触れることもOKの完全な御霊の体になられたのだ。しかしその御霊のからだは血肉の体と等しくはない。実際のからだを持つだけでなく、天使のような力、永遠のからだでもある。

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※ユダヤ人の埋葬の習慣 : 復活を信じるユダヤ人やイスラム教では、決して火葬にはしない。仏教徒のように、仏にはならないので遺体を拝まない。イエス様のように洞窟とかに骨だけになるまで置くだけなので、匂い対策のため遺体を丁寧に拭き、没薬とアロエ漬けにした亜麻布でミイラ巻きにする。イエス様の場合、頭部と胴体とは違う布で巻いていたようである。
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