阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

胸腔ドレナージ

2021-04-14 19:11:39 | 父の闘病
前回の続き、父の入院二日目、4月9日のできごとです。

父の入院の翌日は私が荷物を持って行くことになった。面会時間は家族のみ1日1回2人まで、11時から13時または15時から20時のうちの15分以内ということになっている。昨夜の話では、肺の水を抜く処置はおそらく午前中に行われるから午後から来た方が経過がわかるのではないかということだった。しかし考えてみると、昨日は救急外来から即入院となったため、必要なものを何も持って行ってなくて甚平をレンタルして売店でティッシュを買っただけ。洗面用具や箸なども無い状態だから、ここは11時着で行くことにした。

今日は私一人であるから芸備線で広島駅まで出てからバスに乗る。二年前は一ヶ月の転院をはさんで合計半年間通った道だから目をつぶっていてもたどり着ける、と言いたいところだが、この二年の間にバス路線が変わってしまった。以前のコースは廃止になって、まちのわループという路線が新設された。広島駅南口のバス乗り場を出て大学病院、旭町を経由するから以前の皆実高校から広大附属を通るルートに比べて少し遠回りになるが、三つの大きな病院のあと繁華街の八丁堀を経由することもあって乗客は増えたような気がする。私が乗った10時40分発のバスは数分遅れて11時10分ごろ県病院前に着いた。

入り口で検温と手の消毒をしてからエレベーターで8階へ上がる。受付で面会の申請書、と思ったところで「小林さん」と声をかけられて、誰だか認識する前に「Mです」、えっ、びっくりした。患者支援のMさんは看護師の服を着ていらっしゃるけれど、仕事は違う。以前の髪型は看護師さんのようにまとめてなくて(女性の髪形を表現できなくてごめんなさい)、頭髪の規律が看護師さんよりも少し緩いのかもしれないと思っていた。だからシルエットでもすぐにMさんだとわかったのに、髪がショートになっていて近くで顔を見るまで全然気付かなかった。昨夜カウンターでお名前を見つけた時からお会い出来たら何の話をしようかと考えを巡らせて、作文は頭の中で完成している。まずは面会申請かきながらナースステーションの中をきょろきょろ探す段取りだったのに向こうから声をかけられたのは不意打ちで、しかもショートがとっても似合っていて・・・いや、私はMさんのお仕事をリスペクトしているのだから、かわいいとか口に出してはいけない、ここは我慢して・・・いや何を我慢するのかわからないが、とにかくクラッときた体勢を立て直して昨夜準備した本題に入ろうと思う。

その前に、前回の父の入院のことを簡単に書いておこう。2年前の春、85歳だった父は最初の声帯のがんを取り除くの手術の後、放射線治療を受けたところ腫れで気道が狭くなり気管切開となってしまった。のどに穴をあけてカニューレを装着して痰をとってもらいながら飲み込みのリハビリを続ける日々、Mさんが転院の話をもってきたのは5月の終わりごろだった。急性期の治療は終わったから回復期を受け持つ病院に移る、というのは理屈ではわかる。けれども初期の癌だから放射線で9割は治る、と言われて放射線治療をうけたのに、状況はどう見ても悪くなっている。癌の治療は終わったと言われても、転院は素直に受け入れられるものではなかった。したがって、Mさんとの出会いはあまり印象の良いものでは無かった。

しかし保険の都合もあったのだろう、入院90日目となった6月下旬に転院せざるを得ず、一ヶ月リハビリ等したあとで、気管切開閉鎖の準備として気道を広げる手術のために県病院に戻った。再入院の翌日が手術予定だった。またMさんがやってきて、介護認定や電動ベッドのレンタルの話をされたが、翌日の手術のことで頭がいっぱいで耳に入らなかった。ここでも、まだMさんのお仕事の重要性について理解しないままだった。

二度目の手術で新しい癌が見つかって、気管切開閉鎖は断念、その上で咽頭摘出の手術をすすめられた。手術によって気管と食道は分離され、声は出なくなる。本人、家族にとっても大きなショックであったけれど、ほかに手段が無いならお願いしますと父はボードに書いた。家族としても手術後は家に連れて帰って痰は自分たちで吸引することに決めた。その方針で前に進むしかない。ここからは全面的にMさんのお世話になった。介護認定、障害者手帳の申請、家庭用吸引器をレンタルして病室で練習、地域包括支援センターの訪問、退院前カンファレンスなど、手術から退院までの一ヶ月の間に、Mさんのおかげで確実に前に進めたと思う。

父の長い入院の間、4人部屋の他の患者さんに対するMさんの話が聞こえてくることがあった。耳の遠い高齢者が多いから、聞きたくなくても聞こえてくるのだ。やはり手術前日の入院が多くて、患者さんの反応は芳しくない。目の手術を翌日に控えた患者さんに、失明した場合にどこを頼るかと言っていて、聞きたくない話だ。でも色々な事態を想定して頭の片隅に置いておいた方が良いということ、今ならばわかる。いつまでも幸せに暮らしました、はあり得ないのだ。そんなこんなでMさんの仕事をリスペクトする気持ちは日に日に高まって、10月の退院の時には何度もお礼を言った。

話をMさんと再会した場面に戻す。今回相談しておきたいのは、父の足が弱って来ていて、特に夜中のトイレに行くときに方向転換で転倒することがある。もし歩けなくなったとしても、自宅で介護したいと考えているが、何が必要でどれぐらい大変なのか、聞きたかった。そしたら昨夜入院だったのに父の足のことは知っていて、誰かついてトイレに行った方がいいとスタッフも話しているとのことだった。往診してくれる先生の存在とか、何点か言われたけれど、やはり歩けなくなってから自宅で介護は大変みたいでまずはリハビリ等で寝たきりを回避するのが大切なようだ。また、最初に訪問看護指示書を出したのが県病院の先生で、今も訪問看護上の主治医は県病院になっているから、往診してくれる先生がいたら主治医を移行した方が訪問看護の看護師との関係がスムーズになるかもしれないとのことだった。とにかくケアマネさんに話を聞いた上で、またお話しましょうということになった。

そのあと、処置を終えた呼吸器内科の先生に病室で話を聞いた。タイトルにした胸腔ドレナージ、肺にチューブを差し込んで7日から10日ぐらいで胸水を抜くということだった。チューブは大きな機械につながれていて、これを持ってトイレに行く訳にはいかないから紙おむつで対応すると先生が言ったら、父は嫌そうな顔をした。出てきた胸水を検査に出して原因を調べてから必要な対処をすると言われた。チューブを抜いたら手袋をしてもらう、そしてもう一度痛い処置をしなければならないと先生は念を押した。

そのあと来た看護師は、紙おむつ付けなくてもポータブルの便器で大丈夫と言って、父は少し安心したようだった。しかしチューブを挿す時かなり痛かったそうで元気がなく、遅れて出された昼食にもほとんど手をつけなかった。チューブが外れないように、ベッドから体を起こしたらナースコールが鳴るセンサーが付けられていて、一週間以上ベッドから離れられない。さっきMさんに相談した事が、二週間後に現実となる可能性がかなり高まったように思われた。

昼食は病院近くの太閤うどんでとり天ぶっかけうどん。ここは、おじやうどんが名物なのだけど、わたしゃ猫舌なので鉄鍋で出てくるうどんはノーサンキューである。ここのうどんはうまいのだけど、寄るのは手術日とか気持ちが落ち着かない時が多い。気持ちが前向きであれば、食事は病院の食堂などでさっと済ませて移動しているはずだ。





Mさんに会えた嬉しさは一瞬で吹き飛んでしまった。そして二週間後の現実は、もっと厳しいものだった。





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