文屋

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★伊東静雄の終戦体験の日録記述を読んで、詩人にとっての「現実」を考えた

2005年08月04日 11時49分41秒 | 



■MIXIというソーシャルネットワークで伊東静雄のコミュニティに
参加しているが、そこでの掲示板で自分が発言した言葉を記録の意味でここに
残していきます。




昭和20年8月の日記にある、有名な記述。

 一日中雨。
 十五日陛下の御放送を拜した直後。
 太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを
照し、白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼつてゐる。そ
れなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信
ぜられない。

想像できないほどの強烈な出来事だったのでしょう。

ナショナリストでなくとも、ここには、ナショナルな心情がくっきりと吐露されています。このことは、好悪、あるいは、非難の対象となるものではないでしょう。

この終戦のできごとは、
「夏の詩人」の夏という、空気の結節と偶然を思わざるをえません。

この日記は、8月31日に、思い返したかのように記され、
日記は、22年まで空白になっています。

昭和20年の8月31日は

一日中、雨。

だったのですね。雨も太陽も現実感があります。
心の中の光景としての既視感のような、ずれをともなった
リアリティ。これがこの詩人の天分のような気がします。

時代ともっとも無縁でありたかった詩人ですが
時代に生きた、国土や国民(民衆)の心情には、濃厚に
交感していたのでしょう。

自分ではなく
なにかが、悲しんでいるときに
悲しくなる。

そうしたタチこそが、詩人の本分なのかもしれません。



  ■ある人の発言に呼応して、、


ぼくも西脇の、詩論集「斜塔の迷信」を読んでいたところです。

そこにこんな言葉

 詩人は現実を破壊しなければならないから、まず現実というもの を獲得しなければならない。現実は詩の条件である。現実は詩の 限界である。現実は詩の尺度である。現実という尺度がないと、 詩の効果を計算することはできない。どれだけうまく現実が破壊 されているか計ることができなくなる。

と書いて、そのあと

 詩の限界は現実から一定の間隔を保つことであって、現実に完全
 に到達してはいけない。その一定の間隔が詩の限界であると思う。

と言っている。

きのう、ぼくが書いた

 >心の中の光景としての既視感のような、ずれをともなった
  リアリティ。これがこの詩人の天分のような気がします。

この「ズレ」、こそが西脇の言う「間隔」なのでしょう。

現実、これを「自然」と決めつければ、
伊東がひたすら拘泥した「自然」の「リプレゼンテーション」が
間隔、あるいは、錯視や錯誤を意図的に保った
表現であったことがわかります。

同じ西脇の書で、ピカソのことが語られていて、

ピカソは、

「画家の仕事は、芸術というものによって「自然でないもの」を表現するのが本職である」と言ったことが紹介されている。