文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

■パリもNYも均質化して、なんだか普通の都会になっている。

2005年06月21日 13時17分45秒 | 世間批評



去年のパリと今年のニューヨーク。どちらかといえば
パリは、あまり好きでなくニューヨークは、とても好きな町だったが
印象が逆転した。なんだろうなあ、煙草かなあ。
パリでは、まったく遠慮なくどこでも煙草が吸える。
女性でも平気でくわえ煙草で歩いている。
カフェでは、そのままテーブルの下の地面に吸い殻を捨ててよかったりする。
煙草は、吸いたいときに吸いたい。
テロの影響なのか、NYは町全体が緊張しているような感じ。
10年ぐらい前は、まだチャイナタウンとリトルイタリーが
きれいに二分されていたのに、イタリーが中華に浸食されて、
中華パワーに押しまくられていた。
ヴィレッジは、昔のようなのんびりした界隈ではなくなっていた。
すしバーがやたら目につく。そこらじゅうのカフェに、醤油瓶がおいてある。
変だ。パリは、パリで、イタリアンの店が多くなっている。
10年前に比べて、町全体が開放されていた。
ユーロという大陸的なロケーションが満ちている。
NY、普通のビルの中に入るのに、いちいち写真を撮られる。
荷物は、X線検査。
駅構内は、写真撮影も禁止。
パリもNYもまあ、あんまり異国という気がしなくなっている。
アジアへの旅が人気なのがよくわかる。


★萎えさせる、疲れさせる。グローバルが都市を殺しているぞ。

2005年05月19日 21時14分34秒 | 世間批評

都市は、疲れている。去年のパリも今年のニューヨークも都市は、疲れ果てているように見えた。
人の思いや、欲望や憧れが、街の光景が吸収していなくて、逆に街の光景が、急速度で、人の欲望
を追いかけている。世界の街は、どうしてしまったのだろうか。目抜き通りにあるのは、
ブランドロゴばかり。しかも目をむいている。ティファニーも老舗然としていればいいのに
なにか周囲に急かされるように、通りを歩く人間の欲望をわしづかみにしてきそうな気配。
所得階層によって色分けされた、そのブランドのロイヤルティ。しかもそれが見え見えで、薄っぺらい。
アミューズって、こんなにも下品だったのかと、唖然としてしまう。
要するに、アキハバラ化してきたぞ、と言えなくもない。階層に応じて、サービスや接客態度の審級まで
定められているようで、金のある人には、ぺこぺこして、ない人は、あっちいってなのだ。
そうした審級とは、無縁のところでエレジーを香らせ、あまたの衆の欲望をあまたの光景に濾過してきたのが
これまでの都市ではなかったのか。
その昔、日本全国の鉄道路線の駅の光景が均一化したように、世界の都市もまた、均質化している。
それが、ただ、地に馴らされて均質化するならまだしも、マーケティングの戦略に則った数値にべったりと
くっついて馴らされているのだ。都市のアミューズメントは、きっと死んでしまった。
具体的にいえば、たとえば、カーネギーデリなどの老舗が、グローバル資本の均質化した戦略に音を上げて
ただ、価格をつりあげるだけの方法しか労することができない。ティファニーは、
せっかくの下世話なストアストーリーをもっていながら、それらすべてを捨てて、つんつんしているだけの
高級店になりさがった。ほどほどの楽しみ。もともとは、都市の標準的な文化の地層は、それだけで
成り立っていたはずなのに、この「ほどほど」といった、抽象をマーケティングの文脈が、切り捨ててしまった。ZARA・GAP・MAC・STABA・・・・、この審級のコンテキストは、一昨年に行った、上海なども
まったくいっしょだ。あの街に行けば、あの場所が、あるにはある。あるにはあるけど、「あのクーキ」というものが、ない。窒息してしまう。音楽は、たとえば、画廊や古着屋でも、マイルスを何回、耳にしたことか。免罪符?マイルスがかよ。わからないでもない。
とりあえず、クールに凍らせて、大衆の欲望をヒートさせても、「買わなきゃ意味ないじゃん」とマーケッターは考えているのだろう。セントラルパークの貯水池が、原始のようで、それだけが妙にリアルだった。
MOMAの容れ物は、まずまずだったが、現代美術をカタログ(文化的だが無策の階層化)化して、私らに
どう見ろと言うのだろうか。あれは、まるで、陳列倉庫だ。2時間待ちで、見せられるのが、陳列なのだからね。10年ぐらい前に行ったパリもニューヨークもエレジーが匂っていた。寂しくなるゆとりが街にあった。
寂しくも悲しくもなれない、都市なんて、地層に孔があいている。

○沈黙という列車事故

2005年04月27日 23時20分48秒 | 世間批評

ニューヨークの地下鉄なんか、ある日駅に行くと
「NO TRAIN」とくる。唖然とする。
予告はあるのだろうが、ほとんどふいうち。
突然ある路線が運行停止になる。
そのため、10分ぐらい歩いて別の路線を利用しないといけない。
でも、これは、怠惰の結果ではなく努力なんだと今日思った。
たとえば、今回のJRの事故。
駅をオーバーランしてしまったりすると
運転手は、地獄のような刑罰を受けるという。
それがまた、とにかく旧軍隊式の、精神修養のような
矯正教育だったようだ。
心を肉体のように唯物的に苦しめる。
苦しませれば、人は、二度と苦しみを避けるようになるだろうと
いう発想。昔の軍隊で、罰として柱にしがみついて
セミの真似をひたすらやらされる罰に等しい。
屈辱を強いる。
そういう教育体制でしか、ものごとの改善ができなかったことは、
現在の状況だろう。
ニュースを見ていて思ったのだが、このごろのニュース、
肉声には、文字のテロップが流れる。
いまの時代、メールというものが発達して、文字伝達が
音声伝達に比べて、標準化している。
だからこのごろの若い人たちは、音声認識がまるで
幼児か老人のレベルになっている。
人の言うことがまったく聞けない。聞く耳がない。
ということは、同時に、人にものを伝える音声を持たない。
その結果だろうか、教育が人声ではなく、文書に頼る。
反省文、反省文、そして反省文、それから反省文となる。
言葉は、文になると形になる。形しか信用できない
そうした世の中になったのだろう。
今回の運転手の、抑圧は、この数値的な規制にあったと思う。
心からでてくる人声による伝達や対話がなく
まるでロボットのように測られる、能力。
だから、狂ったように、数値にこだわった。
人間の評価や評定がデジタルに記録され
人間の欠点が、その数値から、消去され、殺される。
言い訳ができない世の中になったのだろうね。
とにかく今回の事故、犠牲者や運転手の
あらゆる声が聞こえない。
沈黙の事故だったんだなあと思う。
人は、もっと言い争わなければならない。

そのために、「NO TRAIN」であってもかまわない。



★野村芳太郎監督の「張込み」は、高峰秀子という「女優」を見つめる映画だと思う。

2005年04月11日 20時11分03秒 | 世間批評

べつに亡くなったからではないが、ぼくは野村芳太郎が撮った映画
「張込み」が好きだ。
女優が際だっている。その昔、この映画をはじめてビデオで見たときに、
高峰秀子を恋しく思った。
逃亡中の犯人の愛人が、いまは、公務員の家庭に嫁いで
つつましやかに暮らしている。
その暮らしを、張り込んだ刑事ふたりが、じっと見つめる。
見つめているうちに、ほんのりと恋慕する。
それは、描かれてないのだが、見つめることで、映画を見る観客の心が
登場人物の刑事の心を透かす。

淡々としていながら、スリリング。
物語は、ほとんど動かない。しかし、微動している。
ミニマルに、律動していく。

そして、もう何も起こらない。犯人はこない。

というとき、少し動き、一気にクライマックスに達す。

犯人と密会する、高峰の律動が、観客にぴたっと伝わる。

ヒッチコックの「裏窓」にも似ているが、九州の安宿や
鉄道、町の風景などの湿っぽさが、まさに日本。
昭和三十年代の空気。

リチャード・ドレイファス主演で、アメリカでもリメイクされ
最近では、テレビでビートたけしと緒形拳の子がやっていたが
まったく野村のこの作品と比べたら、月とすっぽんだった。

女優とは、スクリーンを通じて、恋される人。

そんなことが確信できる。

野村の弟子が山田洋次。
「拝啓天皇陛下様」「馬鹿まるだし」「馬鹿が戦車でやってくる」などは
驚くほどの秀作。


●詩を書き出すまでのこと。蝶とジャズと唯物史観とか実存主義文学だとか。

2005年03月21日 21時33分50秒 | 世間批評
詩などほとんど読んでいなかった。
中学の頃は、ジュール・ベルヌとエッリッヒ・ケストナーだけがアイドルだった。
それから、夏目漱石、高見順、福永武彦、北杜夫などを読んでいた。
そこから椎名麟三にのめりこむ。
なぜだかわからない、人の影響だったんだろうな。

ジャズに狂いだしたのは、そのころ。
バイトでキャディをして、キャディしながらもひそかにゴルフ場で
昆虫採集をしていたが
ラジオの深夜放送の影響で、ジャズを聴くようになる。

かめアンドあんこう

なっちゃん、ちゃこちゃんとか
よく聴いていた。
ゴーゴー、糸居五郎だとか。

そのかめ(亀淵昭信がニッポン放送の社長とはね。びっくり)
妹の亀淵友佳がゴスペル唄っていたのにも驚いたが。

神戸の国際会館で、オスカー・ピーターソントリオを聴きにいって、
演奏終わって、高校の制服のまま楽屋に行ったら
(よく楽屋まで行けたと思うけど)

オスカー・ピーターソンに会えた。
握手をして、サインもらった。

マル・ウォルドロンやナベサダやMJQや。

それで高校三年の時の文化祭で、教室をジャズ喫茶にした。
黒人開放を問題視して考えた。
下敷きは、相倉久人と平岡正明だったなあ。

それでも蝶は集めていた。

椎名麟三の「深夜の酒宴」「深尾正治の手記」「永遠なる序章」
こういうのが、この暗さがかっこよかった。

唯物史観と蝶とジャズ。

詩は、一編も読んだことはなかったなあ。

■女の職人のような自信みなぎる、若いひと

2005年02月14日 19時39分20秒 | 世間批評


宮里藍・北田瑠衣チームが世界一になった。
ゴルフの話。
昨日、テレビつけた時点では、突然乱れて
韓国とフィリピンチームに追いつかれて、ダメかなあ
と思っていたけど、
乱れに乱れていた、北田さんが、長いパットを入れて
突き放した。

それにしても19歳で、あの落ち着きには驚く。
藍ちゃん。前に、仕事で、あるゴルファーの話をうかがったときに
「藍ちゃんは、周囲の人をみな味方につける天性の才能がある」
と言っていた。

それがどんな厳しい状況でも、キャディを笑わせるとか。

頼もしい限り。

男性的なのかも。

去年の秋に、タダ券をもらったものだから
瀬田GCの「ミズノオープン」の試合を観戦した。

そのときに、このふたりは見たんですが、
小さい、普通の女の子だった。
ただ、面構えはまったくのプロフェッショナル。

男の職人の「胸の上げ方」「顔の威力」はわかるけど
女の職人の自信のようなものを感じた。

ぼくは、多分パットでぶるぶる震えてたと思うけど
それでも「絶対にきめなければならないところ」を決めた
北田瑠衣選手の根性にこそ乾杯したい。

すごいもんだと思う。

●野に球で遊ぶ、風情。

2005年02月03日 21時50分01秒 | 世間批評
大阪に市民球団がてきるという。
球団もまた、企業にとっては商材であり、ある意味で
PR媒体でもある。しかし投資額は高い。
それに見合った、企業戦略をたてればいい。
「野球」というスポーツは、この前の騒動の少し前あたりまで
世間に忘れられていた。単に「世相」の枝葉に終わっていた。
それが、大騒ぎして、世相の大事になった。
この大事も一過性のような気もする。
野球は、ぼくなんか、世相の風情で別によい。
「楽天」などが綿密な功利主義で球団を活性化したり
「ホークス」が世界戦略に乗り出したとして
なんか、こんどは、変な匂いがしてくる。
弱いチームは、弱いチームの風情があり
その世相の枝葉にぶらさがっている様子は、
夏の夜ビールでも飲みながら、やいやいとちゃかすぐらいが
実はちょうどいい。
南海の山本や大洋の近藤和や江本や江夏みたいな
風情のある選手は、功利主義の前では、否定されるんだろうな。
それよりも、大リーグに行く選手たちは、どうしてああも
優等生ぶった、普通の野球選手になってしまうのだろう。
日本にいたときは、いくらかでも風情があったのに
メジャーに行ったとたんに、ぺらぺらの選手になってしまう。
「野球人」ではない。イチローはイチローにすぎず
そりゃ、英雄かもしれないけれど、ちっとも面白い人間ではない。
どこかにきっと「悪」もあるだろうに「悪役」にもなれない。
中村ノリには期待しよう。
打てなくても、暴れてきてほしい。イチロー神話をぶっつぶすために。

野に、球。
明治の時代に正岡子規が翻訳したという、言葉。
遊撃、邪飛、生還、死球、、、、、、。

もう一度、野球は、風情だよ。

高浜虚子が、はじめて漱石と子規に出会ったのも
野に球で、遊んでいるときだったじゃないか。

本屋のセグメント

2005年01月28日 14時24分41秒 | 世間批評
三条烏丸の大垣書店へ。
このごろの書店、変なゾーニングがされているから混乱する。
「アート」とか「ビジネス」というふうに分かれているんだけど
新書や文庫は、まとめられている。
よく売れる文庫は、だいたい、書店ではもっとも「奥」にある。
その文庫の奥へ人を導いておいて、目に付く単行本を売ろうという
魂胆なのだろう。

入り口近くには、新聞などの書評で話題になったものが
平積みされている。
一応書店としては、それらの本をすすめているのだろうけど
要は、新聞にとりあげられたというだけなんですね。
よく考えたら、書店が主体的に奨めているわけでもなんでもない。
書店のマーチャンダイジングの法則に
顧客は、完全にはめられているわけで、

じゃあ、顧客の自由は、どこにあるんだ
となる。まあ、このマーチャンダイジング、
たとえば、ビレッジバンガードなんかだといいかといえば
それもまた、しばられ、はめられていることになる。

ただ、通り一遍のセグメントでないだけ、発見もある。

そうだとすれば、町の本屋よ
みんながいっせいに独自の視点で、セグメントとマーチャンダイジングを
やれよ。ね。

この話は、まだまだ続く。