海鳴記

歴史一般

すべては「生麦事件」から(31)

2008-05-26 14:32:29 | 歴史
 しかし、考えてみると、何かかなり釣り合いのとれない結婚のようである。かたや子持ちの離婚した男、おまけに鹿児島には全く血縁のない、新潟出身の平民である。他方、奈良原トミさんは、180坪ほどの土地の名義を持つ士族の娘である。現在ならともかく、おそらく当時としては、考えられない結び付きといっていいのではないだろうか。
 さらに、それ以前の問題として、なぜ雅雄氏は、地縁・血縁もない鹿児島県の役人などになれたのだろうか。確かに、新潟から鹿児島へ直接やってきたのではなく、東京からやってきている。しかし、上級役人としてではないのだ。あくまでも、地元の人間と同じように、下級の役人として。

 私は、これらのことから、雅雄氏の背後にも、奈良原トミさんの背後にも誰か力のある人物がいると推測した。では、その人物とは誰か。それは、奈良原繁だ、と。

 明治20年代、鹿児島城下―市制はまだ敷いていないのでーには、何軒の奈良原家があったかはよくわからない。ただし、幕末の城下絵図では、3軒の奈良原姓が確認される。そのうち1軒は、繁家(喜左衛門家)である。
もともと奈良原家は土着の武士ではない。11代守護職・島津忠昌に召しだされ、山城国から入国したとされている。そして、永正5年(1508)、忠昌が自刃したとき、その殉死者の1人に奈良原姓が見出され、その後も、秀吉時代の文禄・慶長の役に出軍した者や、島津家中興の祖といわれる忠良に仕え、地頭職に任ぜられた者の記録もあるので、それなりの家系である。
 そして、幕末期のころの奈良原家が最初の一家から出たとすれば、繁家を除いた他の二家は、城下町形成から推定してより古い家であることがわかる。また、それらの家の墓は、現在もっとも古い墓が残っている墓地内にあり、それぞれ本家筋と分家筋のものと推測される墓が存在する。しかし、分家の墓はもちろん、本家の墓の中でも明治29年の碑銘がもっとも新しく、それも女性名なのである。つまり、これらの家は、当時すでに鹿児島を去っていたか、没落していた可能性が高いのである


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