海鳴記

歴史一般

松方正義と生麦事件 (35)

2010-12-22 11:08:17 | 歴史
 ただ、この時期の北海道長官職をめぐる動向はめまぐるしい。 
 品川が内務大臣になった11日後の『国民新聞』に、北海道長官の更迭が問題にされ、後任の選定は慎重に、という記事が掲載されている。そして、薩摩閥という言葉は使っていないものの、奈良原繁と東京府知事などを歴任した同じ薩摩出身の高崎五六(猪太郎)の名前を挙げ、特定の人士の利益ために選んではならないと批判している。
 これで、奈良原繁が北海道長官職を望んでいたことが浮き彫りにされるのだが、そんなことよりも、うがった見方をすれば、内務大臣の品川が松方ら薩摩閥をけん制するため、新聞にリークした情報とも言えないこともない。反対勢力を落としこむのに、マスコミを利用するのは現代でもごく普通のことなのだから、その走りといえよう。
 さらにこの新聞記事が出た5日後、永山武四郎は、依願免官という形で北海道長官を辞任し、後任には、1ヶ月前に滋賀県知事になったばかりの渡辺千秋が抜擢されている。もっとも渡辺は、滋賀県知事だったという紹介よりも、岩村の後を受けて鹿児島県令となった人物と説明したほうが、ピンとくるかもしれない。
 ここで渡辺の履歴を少し紹介しておくと、岩村道俊以上に、薩摩・長州の勢力争いから離れた存在だった。そして、岩村が厚く信頼する有能な人物でもあった。というより、岩村以上にやり手の官僚だったのかもしれない。長野・伊那出身という、明治政府内では全くの孤立無援の位置にありながら、長命だったことも幸いしただろうが、最終的には宮内大臣まで上り詰め、伯爵位まで授けられているのである。ちなみに、岩村はそれほど短命だったわけでもないし、農商務大臣まで経験しているのに、繁と同じ男爵位で終わっている。
 とにかく、こういう人物に奈良原繁が太刀打ちできないのは当然だが、そう言った問題以上に、長閥の山県や品川が押したとすれば、薩・長の利害から離れた、薩閥も納得する人物を送らねばならなかった、ということであろう。
こうして、北海道長官問題は収まった。繁は落胆したが、松方の力をもってしもどうにもならなかったのだから、あきらめるしかなかった。
 だが、この落胆もそう長くは続かなかった。翌年2月に実施された第2回総選挙で、いわゆる与党による野党への大規模な選挙妨害事件が起り、翌月、その責任をとった形で品川内務大臣が辞職することになったからである。


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