海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・補遺(12)

2010-06-16 11:25:34 | 歴史
 私は、伊藤祐徳に対する薩軍側の一方的な話や記事ばかり耳にしたり、目にしたりしていたので、そんなものかと思い込んでいたようなところがあったが、どうもそれは認識を新たにしなければならなくなっている。
 伊藤が、出水口を攻めてくる別働第3旅団の川路少将と内通していた結果突然寝返ったとか、簡単に出水を明け渡したとか、というのちのちの薩軍側の非難がなぜ起ってきたのか、何となくわかってきたのである。

 改めていうまでもないことだろうが、出水という地は、鹿児島の西北端にあり、八代海(不知火海)に面し、熊本県との境に接している。隣は肥後水俣である。だから、海からも陸からも他国との出入り口として重要な拠点だった。戦国期から、薩摩軍団の中でも、誇り高い、より屈強な者たちを配置させた、といわれている。 今でも「出水兵児(へこ)」などという言葉が残っているくらいだから、実際、そうだったのだろう。ただ、西南戦争でここを守り、ついに降伏したのは、これら出水兵児の子孫というより、のちに急遽、ほぼ強制的にかり集められた、いわば戦意の低い兵士たちが大半だった。これは、志布志士族たちの第3、第4出陣などでもよくわかったことだ。そして、主としてこれらの兵を集めたのは、第3大隊大小荷駄・中山甚五兵衛(盛高)や振武隊指揮長・貴島清たちだった。
 中山は、5月1日の軍議で、宮之城、川内(せんだい)、出水方面の「手当て」を任されるようになると、募兵のため宮之城周辺や川内周辺の各地を廻り、「勇義隊」を編制し、5月15日、川内から西目街道を北上し、出水方面各地を防衛する配備についた。
 一方、官軍側は、5月1日、川路利良の別働第3旅団が水俣近くの佐敷に上陸し、辺見らの率いる雷撃隊の反撃に合いながらも、南下を続け、熊本、鹿児島の県境付近で約1ヶ月間対峙した、という(『宮之城郷土誌』)。
 『出水の歴史と物語』では、その過程をもっと詳細に書いているので、これらを参考にそれを追ってみよう。
 
 5月2日。南下する別働第3旅団の本隊とは別に、先鋒第3大隊は、すでに水俣に達し、それより久木村中尉を長とする第2中隊は、海上からの援護に守られて、陸路、出水の海から玄関口である米ノ津に向った。これより先、軍艦丁卯(ていう)は、正午に米ノ津に入港し、その軍艦から山崎少佐が、水兵50名を率いて上陸し、出水の中心部である出水麓まで進んだ。


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