海鳴記

歴史一般

島津77万石とは(23)

2009-11-21 11:30:52 | 歴史
 その前にはっきりしなければならないのは、その領域である。『鹿児島縣史』によれば、藩の領域とは、「代々将軍の領知高判物(はんもつ→花押のある主筋からの書付)による所領安堵の形式を経て定められている」とあるからだ。そして、「薩摩藩に対する徳川幕府最初の判物は、元和3年(1617)9月5日下附」され、郷村高辻(たかつじ→年貢の合計額)帳を差し出すように、老中・安藤直次、本多正純連名の奉書があるという。これに対して、藩が差し出した郷村高辻帳に基づいて、判物が作られた、とある。
 即ち、この判物には、薩摩・大隅および日向諸県(もろかた)郡中164村合計高60万5,607石余りを領知すべしとあり、その地区別内訳は、薩摩31万4,805石余、大隅17万833石余、日向諸県郡11万9,967石余であった。
 また、寛永11年((1634)の領地高判物には、初めて琉球高12万3、700石を加え、正保3年(1646)知行方目録総高は、72万9、576石となっている。
 ただ、『縣史』のこの「藩の領域及び人口」の章には、この石高合計が、(付け)籾高云々の記述は一切ない。それどころか、ここだけ読んでいると、他藩と同じような玄米高のように思えてくる。だが先を急ぐ前に、薩摩・大隅・日向諸県郡および「道の島」と括られる諸島群、さらに琉球を加えた「薩摩藩領」の人口を見てみよう。
 まず人口は、宗門手札改めの結果によって知ることが出来るとし、初めて宗門手札の制を布いたのは、寛永12年で、その後同16年以降、数年間隔で、おそらく前後20数回実施しているという。ただ、これには島津一門家や独礼することできる格式高い家および家老、若年寄、大目付またその家族まで除外されている。しかしながら、その数は時代が下るに従って、120人余から70人余と少なくなっており、ほぼ無視できる数である。さらに士農工商外の、いわゆる・(注)もこの記録から除かれているが、別枠として記録が掲載されている。それによれば、明和9年(1772)には、3、253人、寛政12年(1800)には、3,971人、文政9年(1826)には、5、040人となっている。もっとも、道の島の場合、明和9年の徳之島の「乞食」11人以外に記録はないようだ。同じく琉球も「行脚」の10数人しか記録されていないので、実際はもっと多いのだろう。

(注)・・・薩摩藩には、という言葉はなく、その代わりに死苦、慶賀、行脚(あんぎゃ)、乞食という言葉が使われている。死苦および慶賀という言葉の実態が私にはわからない。ご存知の方はご教示願いたい。


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