海鳴記

歴史一般

薩摩藩77万石とは(1)

2009-10-28 11:15:23 | 歴史
 なぜ77万石という「数」にこだわるかというと、私が最初に鹿児島の郡部に住みついたときの印象が強烈だったからである。
 まさにそこは純農業地帯だったが、ほとんど田んぼが見当たらなかったのである。もちろん、川の側の低地には水田はあったが、他の農業地帯にみられるような広々とした水田地帯ではない。申し訳程度の広さである。では、畑では何を収穫しているのかというと、サツマイモ(カライモと言っていたが)や茶がほとんどなのである。それも毎年、国の補助を受けた「畑灌」(はたかん)といわれる土地改良事業を施して、充実させているのだ。
 要するに、鹿児島はほぼ全域シラス台地が占め、水田には不向きな土地柄なのである。北部地方にある、一部の大きな川が流れている平野部などを除いて。
 これは薩摩藩時代も同様で、いや「畑灌」事業など施せなかった当時は、畑地ももっと貧弱だっただろう。
だから、これが77万石の土地柄だとは、とても思えなかったのである。もちろん、「石高」というのは水田から取れる米の量だけでなく、畑から取れる大豆や麦や稗(ひえ)や粟(あわ)なども米に換算されて算出されることは知っている。しかしながら、たとえそうだとしても、77万石という印象はとても持てなかったのである。

 やがて、私が古本屋を初めて鹿児島の歴史に踏み込んでいくうち、この薩摩藩の石高の意味合いが少しずつわかってきたのである。どうもこれは籾(もみ)高換算なのではないか、と。
 ご承知のように、稲の穂は籾がついた状態である。それを収穫し脱穀すると、籾米となる。これをしばらく乾燥させて、籾柄をとる。この籾柄がとれて初めて食用となるが、籾柄がとれた状態は玄米である。現代人は、もうこの状態では食しない。というのは、食べにくいからである。だから、玄米の表層部についている糠や胚芽の部分を除いて食べるのである。それを精米するといっているが、それが現在ほとんどの人が食している白米なのである。
 まあ、今ここまで述べることはなかったが、のちのち問題になってくるので、どのような過程で白米になるか説明してみた。どうも米食民族といいながら、代々農業から離れてしまった人が多くなってしまったので、かなり年配の人でもこの作業工程すら曖昧になっているからだ。


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